異世界の夜はこんなにも違う
歩いても、歩いても、町は見つからなかった。
草原はどこまでも続いていて、低い木や茂みがところどころにあるだけだ。遠くに山の稜線が見えるけれど、そこに人が住んでいる気配はない。靴底が草を踏む音だけが、単調に響いている。
「小説だったら『数時間歩いて町に着いた』で済ませられるんだけどね」
先輩は歩みを緩めず、周囲を観察しながら言った。制服の襟を少し緩めて、手帳を片手に持っている。足が疲れていないはずがないのに、どこか楽しそうな顔だ。
「現実の数時間歩くは、かなりきついですよ!」
あたしのほうは、すでに限界に近かった。通学用の靴は草原向きじゃない。足の裏が熱くなって、喉も乾いている。水筒に入っているスライムの体液は、まだ安全かどうかわからない。
飲むに飲めず、ただ持っているだけだ。
できれば、ちゃんとした水源を見つけたい。
でも、このまま何も見つからなかったら……。
水筒に入った液体を見つめていると、余計に喉が渇いてきた。
「先輩、少し休みませんか」
「うん。それに、日が傾いてきたね」
空を見上げると、オレンジがかった光が草原を染め始めていた。風が少し冷たくなっている。異世界の秋は、思ったより早く暗くなるのかもしれない。
先輩が足を止めた。
「今日中に、町を見つけるのは無理かもしれないね」
「そうですね。寝床が必要ですね」
あたしは頷いた。水も食料もないのに、夜を野原で過ごすことになるなんて。制服一枚では寒さに耐えられないかもしれない。魔物がいるかどうかもわからない。
「幸い、植物はあるし、そろそろ野営の準備をしようか」
「はい。そうしましょう」
先輩の声は、いつものように穏やかだった。小説のことばかり考えている人なのに、こういうときは意外と冷静だ。あたしは少しだけ安心した。
二人は、風を避けられそうな低い茂みの近くを選んだ。地面が少し乾いていて、石や根っこが少ない場所だ。
「この間参加した無人島体験ツアーが、こんなに早く役に立つとは思いませんでした」
「やっぱり、何でも体験しておくものだね」
「先輩の取材が役に立つ日が来るなんて……」
「ひよりちゃん、僕の取材を何だと思っているんだい?」
「先輩の小説の為ですよ。あたしの役にたつとは思ってません」
「それは、そうか。いつも付き合ってくれてありがとね」
「あれは、あれであたしも楽しかったですから、でも……」
無人島体験ツアーは、先輩が「サバイバル小説の取材に必要だ」と強引に申し込んだものだった。指導員がいて、道具も用意されていた。火起こしの基礎や、風を避ける場所の選び方を教えてもらったけれど、実際に自分たちだけでやるのは全然違う。
「まずは寝床だね。草を集めて、少しでも湿気を防がないと」
「はい。枝も拾ってきましょう」
二人で手分けして作業を始めた。あたしは柔らかい草を束ね、先輩は太い枝を集めてくる。制服の袖が草の汁で汚れていく。膝をついて地面を整えると、土の冷たさが掌に伝わってきた。
「こうやって並べて……あ、崩れた」
「もう少し手前に寄せたほうがいいかも」
「先輩、そっちの枝、短すぎます」
「じゃあ、こっちを使おう」
何度か失敗しながらも、何とか体を横たえられる程度の場所ができあがった。見栄えなんてない。ただ、地面に直接寝ないための簡易的な寝床だ。鞄を枕代わりに置き、制服の上着を重ねて少しでも断熱する。
「これで一晩は……耐えられそうですかね」
「うん。少なくとも、何もないよりはマシだ」
次は火だ。
先輩は平たい木片に細い枝を押し当て、両手でくるくると回していた。
いわゆる、原始的な火起こしというやつです。
木片のそばには、細かくほぐした枯れ草を用意してあります。
無人島体験ツアーでもやった方法ですが、あのときは指導員さんに手伝ってもらったんですよね。
「火、なかなかつきませんね」
先輩は、一生懸命やってくれている。
それでも、なかなか火はついてくれなかった。
「寝床は作れたから、もし火がつかなかったら、寄り添って寝れば少しは暖かいかなぁ」
寄り添って寝る!?
あたしは思わず先輩の顔を見た。
先輩の言葉に他意はない。
もちろん、ない。
これは緊急事態なのだ。体温を保つためには仕方がない。
そう。不可抗力。
決して、あたしが先輩とくっついて寝たいわけではない。
……いや、ちょっとはありますけど。
「そ、そうですね。仕方ありません。いざというときは、寄り添って寝ましょう」
あたしが意を決してそう答えた瞬間、先輩が小さな火種に息を吹きかけた。
ぽっと、枯れ草に火がともった。
「あっ、ひよりちゃん。火がついたよ! よかったね!」
「はい……。そうですね」
先輩は嬉しそうに笑っていた。
あたしも、もちろん嬉しい。
嬉しいはずなのですが……。
まさか、焚き火が成功したことを、こんなに残念に思う日が来るとは思いませんでした。
「これで、一段落ですかね?」
あたしが先輩に尋ねると、先輩が周囲を眺めながら言った。
「このまま、二人でなら草原で遊牧民もやっていけそうだなぁ」
「二人で遊牧民ですか……」
思わず、想像してしまった。
広い草原に、小さな移動式の住まい。朝は二人で火を起こして、昼は協力して水や食料を探す。夜は焚き火のそばで、先輩の物語をゆったり聞く。誰にも邪魔されず、ただ二人だけで過ごす毎日。あたしはその隣で、感想を伝える。
それも、いいですね――心の中で、そうつぶやいてしまった。
「もちろん冗談だよ。僕がなりたいのは、小説家だからね」
「……そうですよね」
あっさりと、夢は砕けた。先輩は悪気もなく、小説家になるという自分の夢を語り始める。異世界に来たことも、野宿も、全部が取材になる、と。
少し残念だった。
でも、先輩が小説家になるという夢を語るときの、あの楽しそうな顔。
あたしは昔から、あの顔に弱いんですよね。
そんな話をしていると夜が深まっていく。
あたし達は焚き火から少し離れた場所に、それぞれ作った寝床を並べて横になった。
「こんな夜は、眠れないね」
「そうですね」
先輩は、焚き火の向こうで夜空を見上げていた。
あたしもつられて顔を上げる。
星の並びが、違う。
獣の声が違う。
草むらが風に揺れるだけで、何かが潜んでいるんじゃないかと身構えてしまう。
ここは、あたしの知っている世界じゃない。
そんな当たり前のことが、夜になると急に恐ろしく感じられた。
そんなあたしの隣で、目を輝かせて空を眺めています。
あたしにとっては怖いことでも、先輩にとっては有意義な経験なのでしょう。
きっと今も、あの星空をどう小説に書こうか考えているに違いありません。
魔法を手に入れたのは、あたしの方なのに。
どうして、そんなに平気でいられるんでしょう。
「本当に、おかしな先輩です……」
「ん? 何か言った?」
「いいえ、何でもありません」
そう答えたとき、先輩の手がそっと伸びてきた。
あたしの指先に、温かなものが触れる。
「……先輩?」
「大丈夫だよ、ひよりちゃん」
先輩は、いつものように笑った。
それだけだった。
けれど、あたしは思わず、その手を握り返していた。
ぱちり、と焚き火の薪がはぜる。
焚き火の音と、先輩の指先のぬくもり。
不安な心が溶けていくように、ゆっくり眠りについていくのでした。




