スライムは、思っていたのと違う
最初に感じたのは、背中に広がる柔らかい感触だった。
草の匂い。湿った土の匂い。風が頬を撫でて、どこか遠くから鳥の鳴き声が聞こえる。あたしはゆっくりとまぶたを開けた。青く澄んだ空が、視界いっぱいに広がっている。
「……え?」
体を起こすと、見知らぬ草原がどこまでも続いていた。日本の街並みなんて、どこにもない。遠くに緑の山々が連なっている大自然。
トラックの事故の記憶が、一気に蘇った。銀色のトラック。鈍い衝撃音。先輩が撥ねられて倒れる姿。血。そして、あたしの手から溢れた白い光。
「先輩っ!?」
慌てて周囲を見回す。隣に、倒れている人影があった。高瀬朔先輩だ。
「先輩! 先輩っ!」
駆け寄って肩を揺する。呼吸はある。胸が規則正しく上下している。顔に血の気も戻っていた。あのひどい傷は、きれいさっぱり消えている。
涙が溢れてきた。止めようとしても止まらない。生きてる。本当に生きてる。
「……ひよりちゃん?」
先輩のまぶたがゆっくりと開いた。ぼんやりとした目が、あたしの顔を捉える。
「ひよりちゃん、怪我はないかい?」
「それはあたしの台詞です! どれだけ心配したと思ってるんですか!」
声が裏返る。先輩は少し驚いたように目を見開き、それから小さく笑った。
「よかった。無事で」
その一言に、また涙がこみ上げる。あたしは袖で顔を拭いながら、深く息を吐いた。
「先輩こそ……本当に大丈夫なんですか?」
「うん。どこも痛くないよ。不思議なくらい」
先輩は自分の体を確かめながら起き上がる。本当に、傷ひとつ残っていない。あたしの手から出た白い光が、ちゃんと効いたんだ。でも、その光が止まらなくなって、こうして――。
先輩が、ふと周囲に目を向けた。草原。山々。そして、空を見上げて、声を上げる。
「ひよりちゃん、見てごらん!」
「……何ですか?」
「ドラゴンだよ!」
指差された先を見ると、確かに巨大な翼を持つ生き物が、ゆっくりと飛んでいた。鱗が陽光を反射してきらきらと光っている。尻尾が長く、優雅に揺れている。
「すごい! ここは、本当に異世界! 僕らは転生したんだ!」
先輩の目が、ぱっと輝いた。興奮で声が少し高くなっている。
「先輩、あたしたち……死んでませんよね?」
「うん。生きているね」
「だったら、転生じゃなくて転移じゃないですか!」
「……なるほど! それは盲点だったな!」
先輩は本気で感心したように頷いた。あたしは呆れて、ため息をつく。
「先輩、落ち着いてください。ここがどこなのか、まず確認しないと」
「異世界だよ、ひよりちゃん。間違いない。小説に出てくるような景色だ。空気の匂いも違うし」
先輩は立ち上がり、深呼吸をする。草原の風が、先輩の黒髪を軽く揺らした。
「せっかく来たんだから、取材しないと」
「取材どころじゃないですよ!」
あたしは鞄を確認する。スマートフォンはある。でも、圏外表示だ充電もほぼない。財布もある。でも、この世界で使えるかはわからない。水も、食料も、何もない。
「まず必要なものは……」
「手帳と筆記用具だね」
「水に決まってますよ! あたしたち、異世界で遭難してるんですよ!」
先輩は「異世界遭難」という言葉を、妙に気に入った顔で繰り返した。
「異世界遭難か。なかなか面白い題材だね」
「題材じゃなくて、あたしたちの現状です!」
「遭難した人間の心理を、実際に体験できるなんて貴重だよ」
「何を呑気なこと言ってるんですか! 先輩の心理は、小説の役にたちませんよ! 飲み水がなかったら死んじゃうんですよ! もっと焦ってください!」
「それは困るなぁ」
先輩は、ゆったりと話しながら、回りの景色を観察している。普段と何も変わりがない。
「全然、困ってる感じが出てません!」
「本当に困ってるよ。死んだら小説を書けなくなるからね。死なないように頑張らないといけないね」
「だから、水を探しましょうって言ってるんです!」
先輩はようやく、少し真面目な顔になった。鞄を開けて中身を確認する。取材手帳とペンが無事に残っているのを見て、ほっとしたように息を吐いた。
「よかった。手帳が無事だ」
「優先順位がおかしいですよ、先輩」
あたしは、もう一度カバンを確認すると水筒はある。ただし、中は空っぽだ。
水さえ手に入れば、保存はどうにかなりそうだった。
「ひよりちゃんの言う通りだね。水は必要だ。手に入れる方法ないかな」
あたし達は、歩き始めた。草原は足元が柔らかく、歩くたびに草が擦れる音がする。風は心地よいが、喉が渇き始めている気がする。
しばらく歩いたところで、草むらが不自然に動いた。
「ひよりちゃん! スライムだよ!」
先輩が指差す先に、半透明のゼリー状の生き物がいた。体は完全な透明ではなく、少し濁っている。内部に気泡のようなものが浮かび、動くたびに表面が波打つ。光の当たり方で微妙に色が変わる。湿った、独特の音を立てている。
「……え? これがですか?」
「すごいなぁ。本物はこうなっているんだね!」
先輩はさっそく手帳を取り出し、観察を始めた。体の伸び方、表面の質感、移動するときの音。ペンが忙しなく動く。
「ただ跳ねるだけじゃないんだ。体が伸び縮みしながら、重心を移動させてる。これ、文章でどう表現しようかな」
あたしは呆れながらも、先輩の真剣な横顔を見てしまった。この人は本当に、小説が好きなんだな、と思う。
そのとき、ふと、ある考えが浮かんだ。
「先輩、スライムって、ほとんど水じゃないですか?」
「うん。見た感じはそうだね」
「だったら、絞れば水が取れませんかね?」
先輩が顔を上げて、きょとんとする。
「絞る……?」
「飲み水ですよ。見た感じ、水分だらけじゃないですか。直接触るのは危ないかもしれないから、枝とかで……」
あたしは周囲を見回し、適当な木の枝を拾った。スライムに近づき、そっと押してみる。弾力がある。押しても、すぐに元の形に戻る。もう少し強く押すと、体が変形して波打つが、水は出てこない。
「うーむ」
別の角度から押してみる。潰そうとしても、形が変わるだけで、液体は染み出してこない。スライムは特に怒った様子もなく、ただぼよん、と形を変えている。
「……先輩?」
「何かな?」
振り返ると、先輩がノートを開いたまま、真剣な顔であたしを見ていた。
「もしかして、あたしを観察してます?」
「うん。遭難者の行動は、とても参考になるよ」
「スライムを観察してくださいよ!! スライムから水を得る方法を見つけてください!」
「遭難した人間って、思いもよらないことを考えるんだね」
「好きでこんなことしてるんじゃありません!」
「でも、スライムから飲み水を確保しようとする発想は面白いなぁ」
「面白がってないで手伝ってください!」
先輩は笑いながらも、素直に枝を拾って手伝ってくれた。二人で押したり、転がしたりしてみる。それでも、水は出ない。ただスライムが、ぼよんぼよんと形を変えるだけ。
そう思っていたときだった。
スライムが急に激しく動き出した。体を膨らませ、跳ねるようにしてこちらへ迫ってくる。表面が波打ち、湿った音がはっきりと聞こえる。
「先輩! スライムが攻撃してきます」
「任せて」
先輩は、手に持つ枝の持ち方を変えると鋭く突いた。ぱちん、と水風船が破れたような音が響く。
スライムは大きく震えると、みるみるうちに萎んでいった。
「……あれ? 倒せた?」
先輩は手にした枝と、動かなくなったスライムを交互に見つめた。
「よかったですね、先輩!」
「うん。でも、こんなに簡単に破れるとは思わなかったなぁ。これも記録しておこう」
先輩が枝をスライムから引き抜くと、体液が溢れてくる。
「ほら、ひよりちゃん。水筒、持ってきて」
「は、はい」
あたしは、慌てて水筒の蓋を取ると、スライムの体液を水筒に注いだ。
「スライムの味って、どんな感じかなぁ。記録しておかないとね」
「先輩は命と取材、どっちが大切なんですか!」
「もちろん、ひよりちゃんの命だよ」
「……っ!」
一瞬、胸がざわついた。でも、そんな場合じゃない。
これで飲み水は、手に入って一安心。
そう思っていたところで、先輩があたしに言った。
「ところで、ひよりちゃん」
「何ですか?」
「それって飲めるのかな?」
「……え?」
「スライムの体液だろう? 毒があるかもしれないよ」
あたしは固まった。確かに。水を取ることばかり考えていて、飲めるかどうかなんて、全然考えていなかった。
「……先輩」
「うん?」
「そういうことは、もっと早く言ってください!」
毒がある可能性があるものを飲んでみる訳にはいかない。
「だから、スライムから取れた水は僕が飲んでみるね」
「はい? いやいやいやいや、なに言ってるんですか。毒があるかもしれないって言ったのは、先輩ですよ」
「仮に僕が毒に当たっても、ひよりちゃんの魔法? あの光で治してもらえるしね」
「そんなリスキーな!? そんな保証どこにもないでしょう!」
「川もなさそうなこの場所で、水をとれない方がリスク高そうだからね」
「そもそもどうやって使ったのかまだよくわからないのに」
「そうか。それは困ったなぁ」
「そうですよ。だから、変なものを口にしないでください!」
「でも、味も気になるんだよね」
「先輩?」
あたしが止めるより早く、先輩は水筒の蓋に受けた液体を、ほんの少し舌に触れさせた。
「先輩ぃぃぃ!!」
あたしの叫びが草原にこだまする。先輩は今度はゴクリとスライム液を飲み込んだ。
「うーむ。こ、これは……」
「ど、どうですか?」
「生理食塩水かなぁ」
「生理食塩水?」
「ものすごくうっすいスポーツドリンクって、感じだね。しばらく様子みた方がいいけど、問題なく飲めそうだよ」
「よくありません! 何かあったらどうするんですか! あたし、まだ魔法の使い方だってわからないのに……!」
「ほら、なんともないから」
「結果論は、やめてくださいよぉ」
「……ごめん。心配かけたね、ひよりちゃん」
先輩が申し訳なさそうに笑った。
まったく、この人は。
さっき死にかけたばかりだというのに、どうしてもう一度、自分の命を危険にさらせるんでしょうか。
心配であたしの心臓の方が止まってしまいそうです。
「今後は、気をつけてくださいよ」
「うん。気をつけるよ」
先輩は素直に頷いた。
そこまではよかった。
「それはそれとして、スライムの記憶が薄れる前に記録しておこう」
「切り替えが早すぎません!?」
先輩は手帳を開き、座り込んで書き込み始めた。確認すると満足そうな顔になった。
「本物のスライムって面白いね。僕が思っていたものとは、ずいぶん違ったよ。味もだけど、体の弾力とか、動くときの音とか」
あたしは先輩の隣に座りながら、さっきのスライムを思い出した。半透明で、ぼよんとした感触。光を受けて微妙に色が変わる様子。
「……先輩」
「何かな?」
「さっきのスライム、ゼリーというより、わらび餅みたいな感じでしたよね」
先輩が、ぱっと顔を上げた。
「それだよ、ひよりちゃん!」
「……え?」
「僕も何かに似ていると思っていたんだ! わらび餅か! まさにそれだ!」
先輩は嬉しそうにさらに書き込み始めた。
「やはりモンスターは、現実にある近いものを比喩にするのが小説書くときの基本だからね。わらび餅、いい感じに書けそうだ!」
あたしは、自分の何気ない言葉が先輩の役に立ったことが、なんだか嬉しかった。
「やっぱり、異世界はひよりちゃんと一緒に来てよかったよ!」
「……っ!」
顔が熱くなる。先輩は純粋に感謝しているだけなのに、こっちは勝手に動揺してしまう。あたしは咳払いをして、視線を逸らした。
「……早く町を探しましょう。飲み物になりそうなものは確保できましたが、安全な場所も、まだ何もありませんから」
「うん。そうだね」
あたし達は、町がありそうな方向に歩き始めた。草原の風が、少しだけ優しく感じる。昨日までは、学校から駅までの道を歩きながら小説の話をしていた。今日は、異世界の草原を歩きながら、小説の話をしている。
景色はまるで違う。でも、隣を歩く先輩の姿は、変わらない。
水らしき物は確保できたが、不安はまだまだ消えない。この先どうなるかもわからない。それでも、先輩が隣にいると思うと、少しだけ息がしやすくなる。
「先輩、もう危ないことはしないでくださいね」
「もちろんだよ、ひよりちゃん」
「本当ですか?」
「次はもっと安全に観察できる方法を考えよう」
「取材することはやめないんですね……」
あたしは小さくため息をついた。でも、口元は少し緩んでいる気がする。
先輩と二人でなら、この遭難もどうにかなりそうな気がしてきた。
……いや、待って。
そもそも先輩がいるから、こんなに大変なことになっているんじゃないでしょうか。
あたしは隣で楽しそうに歩く先輩を見つめた。
うん。
やっぱり、この人はあたしが付き添わないとダメですね。




