作家を目指す人間は、頭がおかしい
作家を目指す人間は、頭がおかしい。
誤解しないでほしい。これは世間一般の作家志望者を誹謗中傷する意図で述べた言葉ではない。あくまで、あたしの目の前にいる一人の人間に対する、極めて個人的な感想である。
文芸部の部室に、夕日が斜めに差し込んでいた。窓ガラスに映るオレンジ色の光が、机の上に散らばった原稿用紙やノートを柔らかく照らしている。部活はもう終わりかけていた。他の部員はすでに帰ってしまい、残っているのはあたしと先輩の二人だけだ。
高瀬朔先輩は、いつものように机に肘をついて、真剣な顔でノートに何か書き込んでいる。黒髪を少し無造作にかき上げた横顔は、部室の空気に溶け込むように穏やかだった。でも、その口から出る言葉は、穏やかさとはかけ離れている。
「ひよりちゃん、やっぱり一度は異世界に転生してみないと、書けないんじゃないかな」
「……は?」
あたしは、つい声を上げてしまった。先輩はノートから顔を上げ、きょとんとした目であたしを見る。
「異世界転生ものだよ。最近の流行りだろ? 主人公がトラックに轢かれて、気がついたらファンタジー世界にいる、みたいなやつ。あれをリアルに書くためには、実際に体験しないと説得力が出ないと思うんだ」
「先輩、それはただの事故ですよ。体験したら死にます」
「そうかな。やっぱり世の中の有名な作家はみんな異世界行ってると思うんだよね。じゃないとあのリアリティーは表現できないよ。僕もいつかは異世界に行きたいな」
先輩は真剣な顔でそう言った。悪意のかけらもない。ただ、小説のために必要なことだと本気で信じている。この人は昔からこうだった。
小学生の頃、ドラゴンをリアルに描きたいと言って近所のトカゲを観察し続けたり、魔法の詠唱を研究するために変な呪文を唱え続けたりしていた。あたしはそのたびに呆れて、でも結局付き合っていた。
今でも変わらない。むしろ、高校生になった今のほうが、変な方向に磨きがかかっている気がする。
「本当にやらないでくださいよ」
「君と一緒に、トラックに当たるわけにはいかないからね」
先輩がふと、そんなことを言った。
あたしは思わず顔を上げる。先輩はノートに目を落としたまま、続けた。
「ひよりちゃんも一緒にいくんだから、さすがに行ける確証がないとねぇ」
「さりげなくあたしも異世界転生に巻き込まないでください」
思わずツッコミを入れると、先輩は少し困ったように笑った。
「だって、ひよりちゃんがいないと、取材ノートを取るのも大変だし。それに……」
言葉を濁して、先輩は少しだけ視線を逸らす。その仕草が、妙に胸に引っかかった。
でもきっと先輩は、小説のことで頭がいっぱいで、何も考えずに言っているんでしょうね。
そうじゃなかったら、こんな平然とした顔でノートを書き続けられるはずがない。
……ちょっとくらい、意識してくれてもいいのに。
あたしはわずかにざわつく胸を抑えながら呟いた。
「……先輩は、本当に頭がおかしいですね」
「そうかな? でも、作家は体験したことしか書けないって言うだろ。だから僕は、書ける範囲を広げたいんだ」
先輩はそう言って、またノートにペンを走らせる。その横顔は、どこか嬉しそうだった。小説の話になると、先輩の目はいつも少し輝く。あたしはその輝きを知っている。そして、その輝きが好きだ。
先輩のことは、昔から好きだった。
家は電車で一駅ほど離れた場所にある。幼い頃から近所同士で遊び、中学生の頃までは一緒に帰ったり、休日に図書館に行ったりしていた。先輩が先に高校へ進学してからは、会う機会がめっきり減った。それでも、あたしは先輩のいる高校を目指して、中学三年生の一年間を必死に勉強した。合格した瞬間、嬉しくて泣きそうになったのを今でも覚えている。
入学して、文芸部に入った。先輩は今でも、あたしのことを「ひよりちゃん」と呼んでくれる。でも、あたしはもう「朔くん」とは呼べなくなっていた。一年間のブランクで、異性として強く意識するようになってしまったからだ。
恥ずかしくて、名前が口から出てこない。だから、今は「先輩」と呼んでいる。
それでも、この時間は好きだ。部室で小説の話を聞いている時間も、帰り道も。先輩は頭がおかしい。でも、嫌いにはなれない。
「そろそろ帰ろうか」
先輩がノートを閉じて立ち上がる。あたしは「はい」と答え、鞄を肩にかけた。
窓の外では、秋の空が少しずつ濃くなり始めている。
学校を出て、駅へ向かう道は、いつものように静かだった。街路樹の葉が風に揺れ、わずかに冷たい空気が頬を撫でる。季節は秋。少し涼しくなった夕方の空気が、心地よい。
先輩は相変わらず、小説の話を続けている。
「魔王って、朝ごはん何食べてると思う? 人間みたいにパンとかご飯とか、普通に食べるのかな。それとも、魔力を直接吸収するとか」
「……知りません」
「ドラゴンの鱗は、どんな手触りなんだろうね。金属みたいに硬いのか、それとも意外と柔らかいのか。取材できたら最高なんだけど」
「先輩、ドラゴンに近づいたら食べられますよ」
「そうかなぁ。思ったより人懐っこいかもしれないよ」
先輩は、遠くを見つめて妄想する。
「回復魔法を受けたときの感覚も気になるな。温かいのか、冷たいのか。それとも、なんか電気が走る感じとか」
先輩の話題は、いつもこうだ。ファンタジー小説に出てくるものを、片っ端から体験したがる。あたしは呆れながらも、その話を聞いている。ツッコミを入れながらも、なんだかんだで楽しんでいる自分がいる。
中学の頃は当たり前のように隣にいた。それができなくなった一年間は、思っていた以上に寂しかった。
だから、今こうして先輩の隣を歩いているだけで、あたしは嬉しい。
この時間を、ずっと続けたい。
そう思っていると、先輩がふと足を止めた。
「ひよりちゃん、今日の夕焼け、いい色だね」
「……そうですね」
先輩は空を見上げて、穏やかに微笑む。その横顔が、夕日に照らされて柔らかく見えた。あたしは思わず視線を逸らす。照れ隠しに、軽く咳払いをした。
「この景色どの小説の場面で使おうかなぁ」
「先輩は、小説のことばかり考えてますね」
「だって、面白いから。ひよりちゃんも、読んでくれるだろ?」
「……まあ、はい」
先輩の書く小説は、好きだ。変な取材の成果が活きていて、不思議とリアリティがある。感想を伝えると、先輩はいつも嬉しそうに目を細める。その反応が、たまらなくかわいい。
「あしたは、スローライフ小説を書くために、農業体験に行くから、遅れないようにね」
「はい。何時集合ですか?」
「朝5時集合だよ。土を耕すところから種まきまで、みっちり教えてもらう予定で、夕方までかかる予定だよ」
「それ、本当にスローライフですかね?」
あたしは、そうやって話しながら青信号になった横断歩道を渡りはじめる。
すると、突然、遠くからエンジン音が聞こえてきた。
いつもより大きい。不自然なほど大きい。
あたしが顔を上げた瞬間、視界の端に、銀色の何かが飛び込んできた。
トラックだった。
赤信号だと言うのにこちらに向かって速度を緩めず突っ込んでくる。運転席の影が揺れていて、明らかにコントロールを失っている。
体が動かなかった。
頭では「避けなきゃ」と思っているのに、足がすくんで、声も出ない。時間が止まったように、トラックのナンバープレートがゆっくりと近づいてくる。
そのとき、先輩が動いた。
「ひよりちゃんっ!」
強い力が、あたしの肩を掴んで押し飛ばした。バランスを崩して地面に転がる。痛い。でも、その痛みより先に、鈍い衝撃音が聞こえた。
先輩が、トラックに撥ねられていた。
「先輩っ!?」
あたしは慌てて起き上がる。先輩は道路の真ん中に倒れ、動かない。血が広がっている。頭を強く打ったのか、顔が青白い。
「誰か! 救急車を呼んでくださいっ!」
近くを歩いていた人が、慌ててスマホを取り出す。あたしは先輩のそばに駆け寄った。手が震える。先輩の胸に手を当てると、微かに呼吸がある。でも、弱い。
「先輩、先輩っ! 大丈夫ですかっ!?」
先輩のまぶたが、わずかに動いた。意識がある。よかった。でも、すぐにまた閉じかけてしまう。
「……ひよりちゃん……無事……?」
「無事ですっ! 先輩のほうがっ!」
先輩は、自分がひどい怪我をしているのに、あたしのことを気にしている。それが余計に、胸を締め付けた。まだ想いを伝えられていない。こんな形で終わるなんて、嫌だ。嫌だよ。
「朔くんっ! 死なないで!!」
普段呼べなくなっていた名前が、自然と口から出た。声が裏返る。涙が止まらない。先輩の手が、かすかに動いた。でも、それ以上は反応がない。
助けて。誰か。神様でも何でもいい。この人を、助けて。
その瞬間、あたしの手のひらに、熱いものが宿った。
白い光だった。
何が起きているのかわからない。ただ、先輩を助けたいという想いだけが、胸の中で溢れかえっている。光はあたしの手から流れ出し、先輩の体を優しく包み込んだ。傷が、徐々に塞がっていく。血の流れが止まり、青白かった顔に、わずかに血色が戻る。呼吸が、安定してきた。
「……効いてる……?」
信じられない。でも、目の前で起きている。先輩の傷が、本当に治っていく。
でも、光は止まらなかった。
治療が終わっても、白い光がどんどん強くなり、周囲を飲み込んでいく。足元のアスファルトが、光の中に溶けていくように見える。街路樹も、空も、遠くの建物も、徐々に白く染まっていく。
「……ひよりちゃん……?」
先輩の意識が、少し戻ったようだった。まぶたが開き、ぼんやりとあたしを見る。
「先輩、光が……止まらない……」
力が制御できない。白い光が二人を完全に包み込み、周囲の景色が完全に消えた。音も、風も、何もなくなった。ただ、まばゆい白だけが広がっている。
先輩の手を握ったまま、あたしの意識は白い光に呑み込まれていった。
いつもの帰り道が、そこで終わってしまったことも知らずに。




