外伝第九話:反転する聖域、夜の侵蝕
本伝第十三話のサイドストーリー。
地王暦前20年の物語
外伝第九話:反転する聖域、夜の侵蝕
満天の星々が美しく瞬く荒野のさらに上空、常人には不可視である天上の境界。
そこから、地上で焚き火を囲む三人の営みを、酷く歪んだ執着の眼差しで見下ろしている影があった。
法国の天上界に籍を置く高位の存在でありながら、聖女ミリアムに対して狂気的な独占欲を抱く男――タルカスである。
「ミリアム……我が美しき聖女よ。なぜあのような汚らわしい人間の男どもと、等しく笑い合っているのだ……」
タルカスが嫉妬の焔に身を焦がし、その白銀の神威を危うく揺らしたその刹那。
彼の背後の空間が、どろりとした闇となって溶け落ちた。
そこから音もなく這い出してきたのは、妖艶な毒気を放つ女――魔王母メルフェレーンであった。
彼女は蛇のようにしなやかな動作でタルカスの背後に回り込むと、その冷たい唇を彼の耳元へと寄せ、酷く甘やかに囁いた。
「……お前の愛しい聖女が、あの泥塗れの男どもに汚されるさまを、そうやって覗きたいのかえ?」
「――っ、何用か! 卑しき魔王母め!」
タルカスは弾かれたように振り返り、腰の神速の刃に手をかけた。高潔たる天王族の空間に、最も不浄たる魔王母が立っている。
その事実だけで彼のプライドは激しく逆撫でされた。
しかし、メルフェレーンは蜘蛛の糸のような細い指先で自らの紅い唇をなぞり、クスクスと愉しげに笑うだけだった。
「邪険にしないで頂戴。私はね、お前に楽しい『賭け』を持ちかけに来たのさ。……ねぇ、あの可憐な聖女の純潔を最初に奪うのは、どちらだと思う? 猪突猛進なアレクサンダーか、それとも冷徹なシーザーか?」
「何を……! 無礼な妄言を!」
「妄言かしら? 私がほんの少し、あの男たちの血を狂わせ、情欲を煽って仕向けてあげるのさ。そうすれば今夜のうちにでも、あの純白の百合は必ずどちらかの男のものになり、泥に塗れて堕ちていくわ……」
「黙れぇぇッ!」
激昂したタルカスが、怒りに任せて神速の抜刀を見せた。
白銀の軌跡がメルフェレーンの美しい首を正確に刎ね飛ばした――かに見えたが、彼女の肉体はサラリと黒い霧へと霧散し、刃は虚空を裂いたに過ぎなかった。
虚空の四方八方から、彼女の残虐で、狂おしい笑い声がこだまする。
「うふふふ……怒る姿も、実にイヤらしくて素敵だわ、タルカス。……さぁ、そこで最高級の果実が、無惨にむしり取られるのを指を咥えて見てるがいい……っ!」
気配が完全に消え去り、静寂が戻る。
しかし、タルカスの脳裏には、メルフェレーンが植え付けた「ミリアムが他の男に汚される」という最悪の幻影が、劇薬のように回り始めていた。
(他の男に渡すくらいならば……いっそ、私の手で……!)
狂気的な焦燥感。
タルカスは我を忘れ、天上族としての矜持も、法国の法さえもかなぐり捨て、光の塵となって地上へと急降下した。
数日を経て、アンクール城に入城した夜。歓迎の宴の時間を終え、自らの寝所へと戻ったミリアムは、静かに祈りを捧げてから寝台に横たわっていた。
微かな風が窓のの布を揺らした、その瞬間。
突如として、寝所の中のすべての空気が凝固した。
「――え?」
ミリアムが目を見開くよりも早く、凄まじい質量を持った影が、彼女の華奢な身体の上へと覆い被さってきた。
押し込まれた寝台の軋む音。
目の前にあったのは、かつて天上で自分を導く立場であったはずの男、タルカスの血走った双眸だった。
「タ、タルカス様……!? 何を――」
悲鳴を上げようとしたミリアムの唇は、タルカスの硬い掌によって乱暴に塞がれた。
普通の人間を遥かに凌駕する天王族の怪力。
ミリアムは必死に身悶えし、その細い手足で抵抗しようとしたが、タルカスの鋼のような肉体の前には、身動き一つ、叫び声一つあげることさえ許されなかった。
(そんな、どうして……! 嘘でしょう、タルカス様!)
ミリアムの心に、底知れぬ恐怖と絶望が冷たく突き刺さる。
彼女は涙を流しながら、自らの内にある、法国最高峰と謳われる純白の「天王力」を極限まで練り上げた。
それを至近距離で爆発させ、この狂った男を弾き飛ばそうとしたのだ。
眩いばかりの白銀の光が天幕の内部をフラッシュのように照らし、タルカスの肉体を直撃する。
しかし――。
「……無駄だ、ミリアム」
タルカスは光の衝撃に眉一つ動かさず、むしろその不気味な笑みを深くした。
彼の身体を覆う白銀の神威が、ミリアムの放った天王力をまるで同質の水のように、易々と吸収し、中和してしまったのだ。
「私に、天王力は効かない。……私は天王族。お前と同じ、光の法を宿す者だ。……さぁ、大人しく私のものになるのだ。人間の汚い泥に染まる前に、私が救ってやる……!」
タルカスの低い、歪んだ愛の囁きが耳元で響く。
掌に込められた力が強まり、ミリアムの呼吸が次第に奪われていく。
どれほど祈っても、どれほど力を振り絞っても、この絶望の檻を打ち破る術はなかった。
(アレクサンダー……シーザー……、助けて……!)
心の中で、笑い合った二人の戦友の名を叫んだ瞬間。
ミリアムの視界は急速に、深い、暗黒の底へと閉ざされていった。
彼女の意識が完全に消失した寝所を、満月の冷たい光だけが、ただ静かに照らし続けていた。




