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地王伝:第一部外伝  作者: 蓮葉橋架
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外伝第八話:落日の聖騎士、星霜の誓い

本伝第十話の後、地王暦全20年の物語


外伝第八話:落日の聖騎士、星霜の誓い


アンクール王国への進撃を翌日に控えた夜、荒野の空気は肌を刺すほどに冷え込んでいた。

夜空を見上げれば、そこには息を呑むような満天の星々が、まるで黒いビロードの幕に撒き散らされた砂金のように瞬いている。

大気を遮るもののない広大な荒野は、ただ静寂に支配され、遠くの地平線が星の光によっておぼろげな輪郭を浮かび上がらせていた。

その静謐な夜のただ中で、アレクサンダーはパチパチと爆ぜる焚き火の前に座り、赤く揺らめく焔を見つめながら物想いに耽っていた。

本来なら、戦友であるシーザーといがみ合うつもりなど毛頭なかった。

だが、法国の伝統と規律、そして己に課せられた「聖騎士」という重すぎる地位が、常に二人の間に冷たい楔を打ち込んでくるように思えてならなかった。

アレクサンダーの脳裏に、数年前の泥濘の戦場での激しい諍いが、ありありと蘇る。

「正気か、アレクサンダー! すでに撤退命令は下った。これ以上の戦闘は軍規違反、即ち反逆とみなされる!」

降りしきる雨の中、シーザーの鋭い怒声が響いた。

彼の整った容貌は泥と焦燥に歪み、その硬質な青い瞳は、規律を遵守せんとする指揮官の冷徹さを宿していた。

「規律だか軍令だか知らないがな、シーザー! 目の前に見捨てられる命があるんだ。殿しんがりの第三部隊がまだあの泥濘に取り残されている! あいつらを見殺しにして引くのが、神に誓った聖騎士の往く道か!」

アレクサンダーは血の滲む拳を握り締め、一歩も引かずに怒鳴り返した。

彼の燃えるような瞳には、法国の上層部が語る「大局」への激しい嫌悪と、目の前の弱者を救おうとする愚直なまでの正義感が宿っていた。

「戦場での独断は、全軍を破滅に導く。お前一人の命ではないのだぞ!」

「なら、俺をここで斬ってから行け! 俺は仲間を置いてはいけない!」

二人の視線が火花を散らし、一触即発の空気が流れる。

アレクサンダーの頑なな態度に、シーザーは深く、重い溜息を吐き、やがて天を仰いだ。そして、すべての覚悟を決めたような冷徹な声音で、静かに告げた。

「……アレクサンダー。これより、我ら本隊は予定通り撤退を開始する」

「シーザー、お前――」

「ただし」シーザーは言葉を遮り、アレクサンダーの肩を強く掴んだ。「これよりお前に、殿部隊の救出命令を下す。戦力を割くことはできない。お前が率いる最小限の志願兵のみで行け」

「! だが、そんな命令、上層部が許すわけが……」

「軍令違反の責任は、すべてこの私が取る。……だから、必ず生きて戻れ。一人でも多くの仲間を連れてな」

そう言って背を向けたシーザーの背中は、どんな盾よりも頑なで、そして孤独に見えた。

結果として、アレクサンダーは仲間を救い出し、シーザーがその泥をすべて被る形で、その場の幕は引かれたのだった。


「……フッ、相変わらず頑固な男だ」

回想を打ち消すように、アレクサンダーが小さく自嘲の笑みを漏らした時、背後から静かな足音が近づいてきた。

現れたのは、昼間の甲冑を脱ぎ捨て、簡素な旅装に身を包んだシーザーだった。

彼は無言のままアレクサンダーの隣へと歩み寄り、ゴツゴツとした岩の上に腰掛けた。

シーザーは何も言わず、使い込まれた革製の酒袋をアレクサンダーへと手渡した。

アレクサンダーは黙ってそれを受け取り、傾ける。

喉を焼く強い酒精が、戦前の緊張と、胸に燻っていたおりを綺麗に洗い流していくようだった。

酒袋を返すと、シーザーもまた静かにそれを煽る。

その沈黙の中で、アレクサンダーは不思議と、かつての諍いなど、どうでもよく思えていた。

目の前にいるこの男は、規律に縛られながらも、誰よりも戦友の命を重んじている。アレクサンダーにとって、シーザーの盾となり、彼の剣となって戦うことに、何の異存もなかった。

ただ、彼らが仕える法国の上層部、あの腐りきった「元老院」とやらに、激しい憤りを感じるだけだ。

彼らは安全な聖都から動かず、戦場の泥を舐める兵たちの命を、チェスの駒のように切り捨てていく。

(だが、それも今日までだ……)

今、このアンクール遠征において、シーザーは全軍の総指揮官となった。

もう、理不尽な上からの命令に振り回され、戦友の命を秤にかけさせられるような歪な問題は起こらないはずだ。

シーザーが率いる軍であるならば、自分はどこまででも地獄に付き合う覚実があった。

「明日からは、忙しくなるな」

シーザーが星空を見上げたまま、ぽつりと呟いた。

その横顔は、焚き火の橙色の光に照らされ、どこか神話の英雄のような陰影を帯びている。

「ああ。あんたの後ろは、俺が完璧に護ってやるよ。指揮官殿」

アレクサンダーが笑うと、シーザーもまた、微かに口角を上げて応じた。


「あら、二人だけで楽しそうな宴会ですね。私を仲間外れにするなんて、いい度胸ですわ」

鈴の鳴るような、しかしどこか悪戯っぽい声が響き、二人が振り返る。

そこに立っていたのは、ミリアムだった。

月光と星々の瞬きを浴びた彼女の姿は、荒野に咲く一輪の白百合のように、息を呑むほど美しかった。

彼女はいつもの穏やかで、慈愛に満ちた笑顔を湛えながら、二人の間のわずかな隙間に滑り込むように腰掛けた。

「ミリアム、お前も寝ていなくていいのか?」

「聖女だって、戦前の夜は少し寂しくなりますのよ。それに、あなたたちがまた馬鹿な喧嘩をしていないか、見張りに来たのです」

ミリアムはそう言ってくすくすと笑い、シーザーの手から酒袋を奪い取ると、上品に一口だけ喉を潤した。

その仕草一つをとっても、彼女が背負う「聖性」と、この二人に向ける「一人の少女としての親愛」が美しく調和していた。

「喧嘩なんてするかよ。な、シーザー」

「ああ。私たちは、明日の勝利を確信していたところだ」

焚き火の炎が爆ぜ、三人の影を荒野の岩肌に大きく映し出す。

満天の星空の下、語らう言葉は他愛のないものへと変わり、やがて穏やかな笑い声が夜気に溶けていった。お互いが、お互いのために命を懸けられる。

その絶対的な絆の温もりを、三人は確かに感じていた。

凍てつく荒野の美しき星空。

赤く燃える焚き火の温もり。

そして、互いを信頼し合う三人の笑顔。

この夜が、彼らが心から笑い合い、肩を並べることができる「最後の夜」になるという残酷な運命を――。

迫り来るアンクール王国の闇が、三人の未来を永遠に引き裂いてしまうという結末を、この時はまだ、誰も知る由がなかった。

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