外伝第十話:黄昏の契り、三人の狂想
本伝第十三話の後日譚
地王暦年20年の物語
外伝第十話:黄昏の契り、三人の狂想
狂乱と屈辱の夜が明け、薄汚れた灰色の朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。
寝台の上で、抜け殻のように横たわる聖女ミリアムをただ一人、懸命に介抱していたのはシーザーであった。
彼の端正な横顔は徹夜の疲労と、友としての、そして男としての激しい憤怒で凍りついたように強張っている。
一方、もう一人の戦友であるアレクサンダーは、この取り返しのつかない夜、アンクール王国の王女レイミアの抗えぬ情欲の罠に嵌まって情事に耽っていた。己の欲望と、王女という甘美な毒に溺れていた彼は、最愛の、護るべき聖女が地獄に突き落とされていることなど露知らず――今や、ミリアムに対しても、シーザーに対しても、合わせる顔などどこにもなかった。
「シーザー……。私……ごめんなさい、ごめんなさい……」
ミリアムは青白い唇を震わせ、涙で拒絶された視線をシーザーから逸らした。
聖潔を誇る法国の聖女として、その身体を異形に穢された事実は、彼女の魂を内側からズタズタに引き裂いていた。
「ミリアム。君が謝ることなど何一つない。君は悪くないんだ、何も……何もな」
シーザーは掠れた声を絞り出し、冷え切ったミリアムの小さな手を、自らの両手で包み込むように精一杯握りしめた。
だが、今のシーザーにできるのは、その手の温もりを伝えることだけだった。
彼の手の震えは、友を救えなかった己の無力さへの、血を吐くような悔恨の現れだった。
ミリアムに強い気付け薬を飲ませ、深い眠りへと落とした後、シーザーは別室でアレクサンダーと対峙していた。
夜の荒野の冷気が、二人の間に冷酷に立ち込める。
「……すまん」
アレクサンダーは拳を血が滲むほど固く握り締め、地面を見つめたまま深く頭を下げた。
傲慢で、自らの正義を何よりも信じて疑わなかった男が、シーザーに対して平伏したのは、後にも先にもこの時だけだった。
「呆れて物も言えん……」
シーザーの喉元までその辛辣な言葉が出かかったが、彼は辛うじてそれを胃の底へと飲み込んだ。
今、この男をどれほど罵倒し、殴りつけたところで、失われた聖域は二度と戻らない。
「俺たちは負けたんだ、アレクサンダー。完全なる敗北だ」
シーザーは乾いた笑いを漏らし、天を仰いだ。
軍事的には、アンクール王国を敵の手から取り戻すことには成功した。だが、彼らが何よりも失ってはいけない「ミリアムの尊厳」を、そして「三人の無垢な絆」を、ことごとく、最悪の形で失ってしまったのだ。
「とにかく……これからの方針を伝える。お前はただ、私の指示に従え」
シーザーの氷のように冷徹な瞳に見据えられ、アレクサンダーはもはや、一言も逆らうことなどできなかった。
己の犯した大罪の重さに、その強靭な肉体は完全に打ちのめされていた。
数日を待たずして、法国遠征軍の本陣において、奇妙で歪な「儀式」が執り行われた。
厳かな賛美歌が流れる中、シーザーとミリアムの結婚式が、そして時を同じくして、アレクサンダーと王女レイミアの結婚式が、取り繕うようにして挙げられたのだ。
神聖タルカ法国の峻厳なる法において、女性の婚前交渉は、たとえそれが強逼によるものであろうとも「死罪」に値する大罪だった。
ミリアムの身に起きた悲劇が公になれば、彼女は処刑台に送られる。
それを防ぐため、前後関係を曖昧にし、すでに婚姻関係にあったかのように世界を欺くための、欺瞞の式であった。
当然、天上族タルカスの犯行については、法国の根幹を揺るがす極秘中の極秘として闇に葬られた。
こんな悍ましい事態に直面してなお、しきたりだの、法だの、面目だのを整え、冷静に事態を収拾してみせたシーザーの手腕に、アレクサンダーはただ頭を下げるしかなかった。
同時に、彼は自覚していた。
もはや自分には、シーザーの命令に逆らう資格など永遠にないのだと。
唯一、絶望の淵に立たされたミリアムを救い、現世に繋ぎ止められるのは、あの冷徹で、それでいて誰よりも深い情を隠し持つシーザーだけになってしまった。
ミリアムがシーザーの求婚を受け入れた最大の理由は、タルカスへの恐怖と、法からの庇護を求めるためであった。
――しかし、その実。
ミリアムの魂を真の絶望へと突き落としたのは、タルカスの暴挙そのものではなかった。
自分が地獄の底で苦しんでいたその瞬間、一番に駆けつけてくれると信じていたアレクサンダーが、自分ではなく「王女レイミア」という肉の快楽を選び、裏切ったという残酷な事実だった。
「シーザー……。私は、これからの人生のすべてを、あなたのために捧げます」
白蓮のウェディングドレスに身を包んだミリアムは、冷え切った瞳の奥に確かな誓いを宿し、シーザーの手を取った。
それは愛というよりも、自らを救い上げてくれた男への、永劫の忠誠と救済の契りだった。
「ああ、私もだ、ミリアム。君を二度と、誰の手にも渡さない」
シーザーもまた、彼女をその胸に抱きしめながら、己の全てを賭して彼女を護り抜くことを誓った。
その幸福な二人を、遠くからただ見つめることしかできないアレクサンダー。
王女を妻として迎え、側から見れば権力を手に入れた英雄に見えるだろう。
だが、彼の胸中は虚無の嵐が吹き荒れていた。
正義を気取り、規律を侮蔑していた男は、その傲慢さの報いとして、守るべき全ての愛を、戦友の信頼を、そして自らの魂を、永遠に失ったのだった。




