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地王伝:第一部外伝  作者: 蓮葉橋架
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外伝第十五話:反転する聖域、抱擁の宇宙

本伝第二十一話の後日譚

地王暦前16年の物語

外伝第十五話:反転する聖域、抱擁の宇宙


元老院議事堂の最奥、最高権力者のみが立ち入ることを許される議長官邸の執務室。豪奢な絨毯が敷き詰められ、壁一面に歴代議長の肖像画が並ぶその部屋に、シーザーは端正な直立不動の姿勢で立っていた。

対する元老院議長コンスタンティンは、重厚なマホガニーの机に肘をつき、脂ぎった顔を寄せてシーザーが持参した羊皮紙の書状に目を落としていた。

守護天使タルカスという絶対的な防壁を失った今、大国アンクールを巻き込んだ魔王族の次なる大規模襲撃にどう備えるか――それが、表向きの議題であった。

「――よって議長、聖都の防衛計画はこれまでの集中配備を改め、要所要所に聖騎士団の精鋭を遊撃隊として分散配置すべきと考えます。万が一、聖都の結界が破られた有事の際には、元老院議員の皆様は速やかにこの堅牢なる議事堂へと避難していただく」

シーザーの氷のように透き通った青い瞳が、羊皮紙の図面を指し示す。

「議事堂の直接の警備は、騎士団ではなく、法国兵団の残留部隊、および各議員の皆様が抱える私兵団に委ねます。

これならば、戦力の無駄な重複を防ぎつつ、議員の皆様の安全を完璧に担保できるかと」

この時、コンスタンティンがかつての聖騎士としての戦術眼を少しでも働かせ、この計画を突き詰めていれば、致命的な「死角」に気づいたはずだった。

聖騎士団を要所に分散させるということは、裏を返せば、中央の議事堂を護る戦力が「命令系統の異なる寄せ集めの私兵」だけになるということ。

すなわち、内側からの反乱に対して脆弱極まる孤島と化すプランだったのだ。

しかし、コンスタンティンの視線は上の空であった。

彼の頭の中は、タルカへと連行されてきた絶世の悪女、アンクール女王レイミアの妖艶な肉体と、それをいかにして己の玩具にするかという下卑た情欲で満たされていた。

「うむ……よかろう。シーザー、お前の実戦経験に基づいた配備だ、任せる」

生返事で署名を押すコンスタンティンの醜悪な横顔を、シーザーは冷徹に見つめていた。

仕掛けた網の目を、蜘蛛自身が喜んで潜り抜けていく。

警備計画の穴は、そのまま元老院の墓穴となるはずだった。


同じ頃、聖都の厳重に隔離された離宮の一室では、シーザーの猛反対を押し切ったミリアムの強い希望により、「王妃」との秘密の会合が持たれていた。護衛すら扉の外に遠ざけられた密室の窓辺、豪奢な絹のドレスを纏ったミリアムと、囚われの身でありながら漆黒のドレスを傲然と着こなすレイミアが対峙していた。

「お久しぶりです、女王陛下。このような形での再会をお許しください」

ミリアムはかつての聖潔な微笑みを湛えながらも、その翠玉の瞳にはどこか影を宿していた。

「ご機嫌麗しゅう、義姉あねさま。敗軍の将たる私に、これほど上等な部屋を用意してくださるなんて、相変わらず慈悲深くていらっしゃるのね」

レイミアは男を狂わせる魅惑的な唇を歪め、艶然と微笑んだ。

たわいもない挨拶から、アンクールでの激動の近況、そしてお互いが背負う国の大愚について静かに語り合ったのち、ミリアムは不意に、隠し持っていた刃を突きつけるように本題を切り出した。

「……陛下は、アレクサンダーを愛しておられるのですか?」

レイミアは一瞬だけ目を細めたが、すぐにその妖艶な笑みを消し、真摯な、一人の女の顔になった。

「ええ。心底、愛していますわ。……戦場に追いやられた父を失い、母をあの悍ましい魔王母に食い殺され、世界のすべてに絶望していた私を、アレクサンダー陛下だけが、あの不器用で温かい腕で、心から慰めてくださったのですから。……ですが、義姉様」

レイミアの紫の瞳が、ミリアムの魂の奥底を見透かすように輝く。

「義姉様こそ……本当は、アレクサンダーを愛していたのではありませんか?」

その言葉は、ミリアムが心の最深部に厳重に鍵をかけて隠していた呪縛だった。ミリアムの白い指先が、微かに震える。

「……愛していましたわ」

ミリアムは静かに、しかし決然と告白した。

「いいえ……そればかりではありません。私は、シーザーも愛していたのです。……願わくば、あの眩い光のような二人を、どちらも私のものにしたかった。いいえ、あの狂乱の夜が来るまでは、二人は私のものだと、傲慢にも確信していたのです」

醜悪とも言える自らの独占欲を曝け出した瞬間、ミリアムの体内から、かつてないほど濃密で圧倒的な白銀の「聖王力」が、光の奔流となって溢れ出した。

それに呼応するように、レイミアの身体からも、男の理性を焼き溶かす凄まじい紫黒の邪気が噴出する。

聖と邪の激突――いや、それは闘争ではなかった。

ミリアムの聖王力は、天上の理を具現化したような巨人の幻影「聖王フレイアード」へと姿を変え、レイミアの邪気、すなわち邪王力は、深淵の混沌を纏う魔神の幻影「邪王カルシャード」へと姿を変えていく。

二つの巨大な王気は、猛烈に渦巻き、混じり合いながら、まるで互いの存在を狂おしく求め、激しく抱きしめ合っているかのように融和していった。

現実の次元においても、ミリアムとレイミアは、互いの美貌に吸い込まれるようにして一歩、また一歩と距離を詰め、どちらからともなく、濃厚で、狂気的な口付けを交わしていた。聖なる光と邪の闇が、唇の合一によって完全に一つへと溶けていく。


バァンッ!!

「何をしている、ミリアム――ッ!」

異常な王気の奔流を察知し、天幕の扉を叩き割って飛び込んできたのはシーザーだった。

彼は鋭い眼光のまま一瞬で間合いを詰め、レイミアの首に腕を絡ませていたミリアムの腰を抱き寄せ、強引に引き剥がした。

シーザーの右手が瞬時に腰の愛剣へと伸び、邪悪な熱を放つレイミアを切り伏せんと刃を抜きかける。

しかし、シーザーの胸に顔を埋めたまま、ミリアムはその細い手で彼の剣帯を強く制止した。

「……待って、シーザー。大丈夫です。これは……ただの事故ですわ」

ミリアムの息は酷く乱れ、その唇は微かに紫に濡れていた。

彼女の必死の制止に、シーザーは忌々しげに剣をサヤへと収め、まだ邪気の余韻を漂わせているレイミアを鋭く睨み据えた。

なんとか、その場の破滅的な破局はおさめられた。

ミリアムは、シーザーの腕の中でゆっくりと顔を上げ、ベッドの上に座り直したレイミアを見つめた。

自らの最も醜く、最も欲深い本心を曝け出してしまった聖女は、自嘲気味に微笑む。

「……女王陛下。私は、酷く醜い女かしら」

その問いに、レイミアは乱れた髪を掻き上げ、かつてアレクサンダーをも魅了した、優しくも妖艶な瞳でミリアムを真っ向から見返した。

「まさか。そなたは紛うことなく……誰よりも美しいわ、ミリアム」

ミリアムは深く頭を下げ、その顔に、すべての憑き物が落ちたかのような、清々しく、どこか恐ろしいほどの笑顔を浮かべて、シーザーと共にその部屋を退出した。

帰りの馬車の中、車輪が石畳を叩く音だけが響く静寂。

シーザーの隣に腰掛け、窓の外の流れる星空を見つめていたミリアムが、ぽつりと呟いた。

「ねぇ、シーザー。……その昔、教会の神学で、聖王と邪王の想像を絶する激しい戦いの末に、その大爆発のエネルギーによってこの宇宙が誕生したと教わりましたけれど……」

ミリアムは自らの唇にそっと指先を触れ、窓ガラスに映る夫の横顔を見た。

「……本当は、聖王と邪王の、言葉にできないほど壮絶な『愛』が、この世界を産み落としたのではないかしら?」

聖と邪の交わり。それは破壊ではなく、生命の創造の感覚。

「まさか……そんなことがあるはずがないだろう」

シーザーは、異端とも言える妻の妄言を冷徹に否定した。

しかし、彼の胸の中には、今や消えかけの蝋燭の灯火ほどしか残されていない「聖王力」の寂寥感があった。

神の法に殉じ、魔の闇を滅ぼすだけの歴史が、どれほど冷酷に人間を弄んできたか。もし、ミリアムの言う通り、世界の根源が闘争ではなく「愛」であるならば――シーザーは、自らの内に残るわずかな祈りを込めて、その微かな可能性を、暗い夜の底でそっと思うのだった。

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