外伝第十四話:闘技場の赤き獅子、影の凶刃
本伝第二十一話の後日譚
地王暦前十六年の物語
外伝第十四話:闘技場の赤き獅子、影の凶刃
神聖タルカ法国という国は、神聖を謳いながらも、その実態は厳格極まる身分制度――最高位の「聖職者」、利権を貪る「貴族」、重税に喘ぐ「平民」、そして人権を持たぬ「奴隷」によって分断されていた。
だが、地上の人間がその歪な構造を疑うことはない。
なぜなら、彼らが崇める天王族そのものに、さらに過酷な身分制度が存在するからだ。
天王族は、純白の美しい翼を持つ上流貴族「ホワイト」と、有色の翼を持つ中流の「カラード」に明確に区別され、その最下層には、不浄の証とされる黒い羽を持った「ブラック」が位置していた。
天王力の源泉とは「絶対的な法と秩序」であり、上位が下位を支配する階級制度こそが法の体現である以上、どれほど冷酷な格差であろうとも、法国においては正義そのものなのであった。
その厳格な法の刃によって、かつての聖戦士、そしてアンクール王国の支配者であったアレクサンダーは、すべての地位を剥奪され、一人の「奴隷剣士」へと叩き落とされていた。
彼は現在、かつての姓を奪われ、ただ「グランバード・アレクサンダー」という屈辱的な名で呼ばれながら、地下闘技場での血生臭い連勝記録を重ねていた。
「――陛下、お食事でございます」
薄暗い地下の監獄、鉄格子で仕切られた冷たい石床の部屋に、一人の少年が静かに木製の盆を運んできた。
少年の名はロシェ。アレクサンダーがアンクール王であった時代から、影のように彼に仕え続けている忠実な従者であった。
「もう『陛下』はやめろ、ロシェ。今の俺は、お前と何も変わらない、ただの奴隷だ」
アレクサンダーはぶっきらぼうに答え、鉄格子の隙間から盆を受け取ると、粗末な麦飯と塩辛いスープをロシェにも分けるように勧めた。
奴隷の身にやつれてもなお、アレクサンダーの強靭な骨格としなやかな筋肉は衰えるどころか、実戦の血を吸ってより獰猛に研ぎ澄まされている。
琥珀色の瞳は、暗がりの中でも獣のように爛々と輝いていた。
「いいえ。私にとっては、どのような境遇にあろうとも、あなたは今でも唯一の国王陛下であらせられます。現に、この地下街の者どもは皆、あなたを恐怖と敬意を込めて『地獄王』と呼んでいるではありませんか」
「フン……悪くない二つ名だが、鉄格子の内側じゃ何の意味も持たないさ」
試合がなければ、狂ったように木剣を振り回し、己の肉体を極限まで追い込む訓練ばかりの日々。
だが、この血生臭い奴隷養成所において、アレクサンダーに敵う者など一人も存在しなかった。
アレクサンダーは自らの訓練の傍ら、ロシェに剣の稽古をつけてやることが日課となっていた。
それは、いつか来るであろう「その時」に、この忠義の少年が生き残るための、彼なりの不器用な情愛であった。
奴隷剣士たちの戦場は、貴族たちが安全な高みの見物席から血の匂いを楽しむ「養成所同士の対抗試合」がメインであった。
一対一の凄惨な個人戦はもちろん、数十人が入り乱れて殺し合う集団戦闘も頻繁に行われた。
だが、そのどちらの戦場であっても、アレクサンダーの圧倒的な武勇は他の追随を許さなかった。
大剣を一振りするだけで敵の陣形を粉砕し、泥塗れで勝利を掴み取る彼の姿は、観客である貴族たちから熱狂的な人気を博し、同時に、命を預け合う同門の奴隷剣士たちからも絶対的な信頼を勝ち取っていた。
通常、人気のある奴隷剣士は、パトロンである貴族たちの「夜の相手(性処理)」として館へ召し出されるのが常であった。
しかし、アレクサンダーへの監視は異常なほどに厳しかった。
彼に関するすべての指名や依頼は、総指揮官であるシーザーの直接の許可がない限り、養成所の館長であっても絶対に受けることはできなかった。
逆に、アレクサンダーが命懸けの試合で得た多額の報奨金を使って、娼婦を買い、情欲を晴らすことさえ、シーザーの命令によって厳格に禁じられていた。
シーザーは、アレクサンダーを純粋な「牙」のまま、どこまでも飢えさせておこうとしていたのだ。
そればかりか、ロシェという従者がアレクサンダーの身の回りの世話をすることを許されている環境自体、奴隷としては破格の「異例」であった。それはシーザーが友に残した、唯一の、そして密かな特権であった。
「――おい、ロシェ! 時間だ、出ろ! お前への指名だ!」
突如、廊下の奥から見張りの粗暴な兵の足音が響き、鉄格子の扉が荒々しく開け放たれた。
兵の手には、ロシェを連れ出すための鎖が握られている。
「やれやれ……相変わらずの人気者だな。行ってこい」
アレクサンダーは寝台に寝そべりながら、呆れたように、しかしどこか見守るような目で言った。
「……妬かないでください、陛下。これでも結構、骨が折れるのですから」
ロシェは困ったように眉を下げ、申し訳なさそうな苦笑いを浮かべて部屋を出て行った。
それほどまでに、ロシェの容姿は、薄汚れた奴隷街にあって異彩を放つほどに端正で、中性的な美しさに満ちていた。
貴族の未亡人や、退屈を極めた高貴な女たちが、こぞって彼を指名するのも無理はないことだった。
ロシェが馬車で連れ去られた先は、聖都の高級住宅街にそびえる、とある有力な貴族の未亡人の豪奢な館であった。
蝋燭の仄暗い光が揺れる天蓋付きのベッドで、ロシェは自らの美貌と肉体を提供し、泥深い夜の相手をして賃金をもぎ取る。
だが、彼にとっての本番は、行為の後に未亡人がシーツの中で漏らす、最高級の「ご褒美」――政界や財界の生々しい内部情報であった。
未亡人は、元老院の動向に深く精通する、情報通の有力者だったのだ。
深夜、ボロボロになりながらも監獄へと戻ってきたロシェは、アレクサンダーの足元に座り込み、その夜伽話を極上の土産として嬉々として語り始めた。
それが、ロシェにとって至福の喜びであった。
「……シーザー様の、元老院転覆の計画は、どうやら本当のようです」
ロシェの囁きを聞き、アレクサンダーは闇の中で満足そうに深く頷いた。
「やはりな。あいつがただ元老院の言いなりになって、俺をここに閉じ込めているわけがない」
報告はそれだけに留まらなかった。
元老院議長コンスタンティンが抱える派閥の規模、寝返りそうな貴族の名前、資金の破綻、そして法国の根幹を揺るがす権力者たちの醜い軋轢。
すべての情報が、ロシェの口からアレクサンダーへと流込んでいく。
「それにしても、呆れたものだな。神の国だの秩序だのと抜かしておきながら、中身はあの時のアンクール王国と何も変わりゃしない。いや、それ以上に腐ってやがる」
アレクサンダーは冷笑した。
だが、感傷に浸っている時間はなかった。何としても、愛する女王レイミアをコンスタンティンの魔の手から救い出すため、この血生臭い養成所を脱出する方法を確立せねばならなかった。
一番確実な方法は、試合の賞金をさらに稼ぎ、平民の身分を買い取ること。
あるいは、他の有力な貴族に高値で買い取られ、奴隷剣士の檻とおさらばすることだ。
だが、議長コンスタンティンがアレクサンダーの「確実な死」を望んでいる以上、彼を買い取ろうとする命知らずの貴族など現れるはずがなかった。
何より、身分を買うにはあまりにも時間がかかりすぎる。
「手っ取り早く、ここを脱出するには……力尽くで、この檻を、この都をぶち壊すしかない」
アレクサンダーの琥珀色の瞳に、かつて一国を率いた覇王の、獰猛な闘志が完全に蘇った。
その脱出への意志、元老院への反逆の息吹は、昼間の猛訓練の最中、ロシェの密かな仲介によって、アレクサンダーを信奉する同門の奴隷剣士たちへと、静かに、しかし確実に伝播していった。
地下闘技場の底で、法国を内側から焼き尽くす、赤い獅子の軍勢が産声を上げようとしていた。




