外伝第十三話:檻の中の再会、そして冷徹なる駒
本伝十八話の後日譚
地王暦前十六年の物語
外伝第十三話:檻の中の再会、そして冷徹なる駒
ガタゴトと鈍い音を立てて荒野を往く軍用馬車。
その荷台に設えられた太い鉄格子の檻の中で、アレクサンダーは重い瞼を開いた。
全身を襲う鈍痛を堪えながら身を起こすと、傷口にはすでに「癒しの呪文」が施され、白い包帯が丁寧に巻かれているのが分かった。
「目が覚めたか?」
鉄格子の向こう、馬車の御者台に腰掛けて手綱を握っていたシーザーが、振り返りもせずに声をかけた。その背中は相変わらず隙がなく、洗練された聖騎士の美しさを保っている。
「ああ……。長い間、ひどく悪い酒に酔っ払っていたようだ」
アレクサンダーは掠れた声で笑い、割れるように痛む頭を押さえた。
アンクール王国を巻き込んだ暴政、そしてシーザー率いる法国軍との死闘。
まるで長い悪夢から覚めたような奇妙な清々しさが、その胸にはあった。
「アンクール王女――いや、女王レイミアの放つ邪気にでも当てられて狂っていたか?」
シーザーの冷徹な問いかけに、アレクサンダーはふっと自嘲気味に鼻を鳴らした。
「まさか! すべて俺の意志でやったことだ。彼女の術に嵌まったわけじゃない」
アレクサンダーは鉄格子に背を預け、上体を完全に起こした。
彼の燃えるような琥珀色の瞳が、夕暮れの光の中でギラりと輝く。
「シーザー、お前は俺が魔王族に操られていたと思いたいだろうがな……俺は、あの夜にミリアムを、そして俺たちの絆を無惨に踏みにじった『天王族』を、絶対に赦すつもりはないんだ」
「……それで、法国への従属を拒み、悪足掻きをしていたわけか。まるで駄々をこねる子供だな。お前の剣がどれほど強靭であろうと、遥か天上の天王族までは届かない」
シーザーは呆れたように息を吐いた。だが、アレクサンダーは不敵に笑うだけだった。
「フン、そんなことは最初から分かっているさ。ただな……もう、あの腐りきったタルカの連中と同じ空気を吸って、奴らの言いなりになって戦うのだけは、御免被るってだけさ」
「なるほどな。……それは同感だ」
シーザーの口から漏れた予想外の言葉に、アレクサンダーは少しだけ目を見開いた。
「まあ、いい。先ほどアンクール城から、無条件降伏の使者が来た。これで戦いは終わりだ」
「……レイミアはどうなる?」
アレクサンダーの声が、急に真剣な響きを帯びた。彼は鉄格子を強く掴み、シーザーの背中に視線をぶつける。
「あいつの命だけは助けてやってくれ、シーザー。……色々と言われる女だが、アイツは俺が心から愛した、たった一人の女だ」
その言葉を聞いた瞬間、シーザーは思わず手綱を引く手を止め、キョトンとした顔でアレクサンダーを振り返った。
その青い瞳には、純粋な困惑が浮かんでいた。
「……ミリアムは……? お前があれほど執着していたミリアムはどうなんだ?」
「俺は、ミリアムを『女』として見たことは一度もないさ。あいつは俺にとって、命に代えても護るべき聖なる象徴で……神聖な妹のような存在だった。だが、レイミアは違う」
「そうか……」
シーザーは小さく呟き、再び前を向いた。
「私には……ミリアムだけだ」
その言葉を口にした瞬間、シーザーの胸を苛んでいたアレクサンダーに対する「後ろめたさ」が、音を立てて払拭されていった。
あの狂乱の夜からずっと、友の想い人を奪ったという泥のような罪悪感が彼を縛っていた。
だが、二人が求めていたものは、最初から違っていたのだ。
この瞬間、二人の間に漂っていた張り詰めた敵意は霧散し、かつて荒野の焚き火で笑い合っていた頃の、懐かしい空気が確かに流れていた。
「女王の処遇については、悪いようにはしない。ただ……」
シーザーはそれ以上、言葉を続けなかった。
その横顔に過った冷酷な政治家の影を、アレクサンダーは見逃さなかった。
「大人しくしていろよ。そんな檻、本気を出したお前なら簡単に破壊してしまうだろうからな」
「分かってるさ。久しぶりに、少し眠らせてもらうよ」
アレクサンダーは満足そうに横たわり、再び目を閉じた。
アンクール王国の玉座の間。
シーザーは、一人静かに勝者を待っていた女王レイミアの前に立った。
レイミアは、男の魂を惑わし、狂わせる極上の美貌と、妖艶な「邪気」を纏っていた。
彼女がひとたび微笑めば、どんな聖騎士とて情欲の虜となる。
しかし、シーザーはその艶然たる視線を、凍てつくような青い瞳で正面から受け止めた。
「ご同道願います。女王陛下」
シーザーは極めて慇懃に、美しく洗練された所作でその場に膝を突いた。
レイミアの男を狂わせる精神汚染の力は、シーザーには微塵も通用しなかった。
彼は自らの意志を「ミリアムを護る」というただ一点のみに特化させ、鋼の精神障壁を築いていたからだ。
そしてシーザーは、檻の中のアレクサンダーとの会話を思い出し、確信していた。
(アレクサンダーにも、この女の力は通用していなかったのだな……)
アレクサンダーは操られていたのではない。
傷つき、絶望した魂のままで、レイミアという孤独な悪女を「自らの意志」で愛したのだ。
だが、シーザーの冷徹な脳髄は、すでにこの状況さえも次の盤面の駒として計算していた。
レイミアの持つ「男を狂わせる力」。
そして、彼女が連れ去られることによって生じるであろう、アレクサンダーの「激しい怒り」。
シーザーはそのすべてを、法国の腐敗した元老院――議長コンスタンティンたちを内部から瓦解させるための「凶器」として利用しようと企んでいた。
(利用できるものは、神の光も、魔の闇も、友の怒りも、すべて使う……)
その過酷なまでの思考の代償として、シーザーの身体を巡る「聖王力」は、今や激しく消耗し、音もなく燃え尽きそうな蝋燭の灯火のように、儚く揺らめいていた。
タルカ本国へと帰還し、元老院への形式的な報告を済ませたその足で、シーザーは聖都の片隅にある自らの邸宅へと帰ってきた。
重い扉を開けた先、柔らかな木漏れ日の中で彼を待っていたのは、白蓮のように美しい妻、ミリアムであった。
彼女は夫の帰還を察すると、慈愛に満ちた笑みを浮かべて歩み寄ってきた。
「ミリアム……っ」
シーザーは甲冑の擦れる音も厭わず、飢えた獣のようにミリアムの華奢な身体を強く、壊れんばかりに抱きしめた。
政治の泥海に浸かり、友を欺き、己の光を削りながら戦い続けるシーザーにとって、このミリアムの腕の中だけが、唯一息のできる「聖域」だった。
「私を……私を愛してくれ、ミリアム。君だけが、私の光だ……」
その切羽詰まった、泣き出しそうな夫の囁きを受け止め、ミリアムは驚きに目を見開いた。
だがすぐに、その美しい瞳に深い包容力を湛え、シーザーの背中にそっと細い腕を回した。
「――もちろん、愛していますわ、シーザー。私の命のすべてをかけて」
ミリアムは、シーザーの傷ついた魂を癒すように、優しく、どこまでも深く抱きしめ返した。
これからタルカが未曾有の血の粛清に包まれることも、今の二人には関係なかった。
ただ互いの体温を確かめ合うように、二人は欺瞞に満ちた白亜の都の片隅で、静かに、強く、抱き合い続けていた。




