五人目の名前
朝のコーヒーを飲むよりも先に、その知らせは届いた。
「また遺体だ」
森田が片手にスマートフォン、もう片方の手に半分食べかけのコンビニのサンドイッチを持って、俺のデスクの横に立っていた。
読んでいた報告書から顔を上げる。
「おはようの一言くらい言えないのか?」
「そんなの後だ、中村。仕事だ」
森田はスマートフォンの画面を俺に向けた。
映っていたのは、細い路地だった。入口には規制線が張られ、その近くには数人の制服警官と救急車が見える。規制線の向こう側には、小さな人だかりができていた。
見覚えのない場所だった。
だが、状況には見覚えがあった。
「いつだ?」
「日付が変わってすぐらしい。今朝、住民が発見したんだと」
森田はサンドイッチをもう一口かじった。
「男性。三十代くらいだ。速報によれば、死亡する前にかなり激しい暴行を受けていたらしい」
俺は写真を注意深く見つめた。
路地は狭く、両側の建物が朝の光をほとんど遮っている。入口の近くには自動販売機が一台。規制線の向こうには、白いシートをかけられた遺体の輪郭が見えた。
「身元は?」
「まだだ。確認中」
俺はスマートフォンを返した。
「じゃあ、行こう」
森田がため息をつく。
「せめて少しは驚いたふりくらいしろよ。五件だぞ、中村。五件。普通の人間なら、何か言うだろ」
「叫べば満足か?」
「正直、今なら新鮮でいいと思うぜ」
俺はコートを手に取った。
「お前が騒ぎ始める前に行くぞ」
「ほらな。お前に彼女ができない理由がこれだよ」
ドアの前で足を止めた。
「今の話と何の関係がある?」
「いや、ただ傷つけてみたかっただけ」
「もっと頑張れ」
森田の顔が引きつった。
「マジで腹立つな、お前……」
その朝、俺は初めて笑いそうになった。
ほんの少しだけ。
本当に、ほんの少しだけ。
*
路地には、濡れたコンクリートと古びたタバコの臭いが漂っていた。
到着した頃には、すでに鑑識チームが作業を始めていた。入口では警官が立ち入り者の名前を記録し、別の警官は遺体の第一発見者らしい中年男性から話を聞いている。
俺は規制線をくぐった。
遺体は白いシートの下で仰向けに横たわっていた。顔と首に見える傷から、ひどい暴行を受けたことは明らかだった。
俺はそのそばにしゃがみ込んだ。
「身元は分かっていますか?」
鑑識官が首を横に振る。
「まだ確認待ちです。財布は見つかっていません。指紋を照合しています」
俺は何にも触れず、周囲を観察した。
争った形跡がある。壁際には潰れたプラスチック容器が転がり、コンクリートには少量の血痕が乾いていた。排水溝のそばには、タバコの吸い殻が一つ落ちている。
今のところ、特に不自然なものはない。
犯人につながる手掛かりもない。
「ここで殺されたんですか?」と森田が尋ねた。
「その可能性はあります。詳しいことは検視が終わるまで分かりません」
俺は立ち上がり、路地の奥へ目を向けた。
その瞬間、胃のあたりが締めつけられるような感覚に襲われた。
理由は分からない。
遺体を見たからではない。これまでにも、十分すぎるほど多くの死者を見てきた。最初の衝撃は、やがてもっと静かな何かに変わる。心の奥底に沈み込み、一人になったときにだけ、その存在を思い出させるような何かに。
だが、今回は違った。
ほんの一瞬。
俺は、この場所に立ったことがあるような気がした。
まさに、この場所に。
瞬きをする。
その感覚は消えていた。
「中村?」
森田がこちらを見ていた。
「何だ?」
「三十秒くらい、ずっとあの壁を見てるぞ」
「現場を確認していたんだ」
「はいはい、そうですか」
森田も俺の視線を追った。
そこにあるのは、汚れたコンクリートと錆びた排水管だけだった。
俺は視線を戻した。
「先に被害者の身元を特定しよう」
森田は何も言わなかった。
だが、捜査に戻る前に、もう一度だけ俺を見ていたことには気づいていた。
*
正午を迎える頃、被害者の名前が判明した。
黒田達也、三十六歳。
東京郊外にある小さな物流会社に勤めていた男だった。
勤務先によれば、黒田は前日の午後七時前に退勤しており、今朝の出勤時間になっても姿を見せなかったという。
現在、自宅の捜索が進められている。警官たちは知人への聞き込みを行い、防犯カメラの映像を確認しながら、最後に確認された行動をたどっていた。
しかし、初期段階の捜査では、これまでの四人の被害者との明確な接点は見つからなかった。
違う職業。
違う地域。
違う交友関係。
捜査本部のホワイトボードに並ぶ、五つの名前。
五人の死者。
そして、彼らの人生が交差した理由は、いまだに見つからない。
俺は事件資料の前に立ち、もう一度情報を読み返していた。
そこへ森田がコーヒーを二つ持ってやってきた。
「ほら」
一つ受け取る。
「ありがとう」
「礼はいらん。お前が過労で倒れたら、俺がお前の書類まで処理する羽目になるからな」
「どうせ俺の机に放置するだろ」
「その通り。だからお前には生きていてもらわないと困る」
森田は隣に立ち、被害者たちの写真を見つめた。
「五人か……。俺たちはいまだに影を追いかけてるだけだな」
俺はコーヒーを一口飲んだ。
「なら、影を追うのをやめて、そいつらが残したものを調べればいい」
森田がこちらを向く。
「今の、事前に練習してきたのか?」
「してない」
「惜しいな。ちょっと賢そうに聞こえたのに」
無視した。
俺の視線は、黒田の写真に戻っていた。
なぜか、あの男の表情が頭から離れなかった。
恐怖。
それだけではない。
あれは、何かに気づいた人間の顔だった。
気づいたときには、すべてが手遅れになっていた人間の顔。
それ以上考える前に、俺は視線をそらした。
*
その日の勤務時間が終わるまで、捜査に役立つ情報は何一つ得られなかった。
被害者同士の確かなつながりはない。
信頼できる目撃証言もない。
防犯カメラの映像にも、突破口は見つからなかった。
森田と警視庁を出る頃には、空が深いオレンジ色に染まり、帰宅する人々で街が賑わい始めていた。
森田が両腕を頭上に伸ばす。
「腹減った」
「今日はサンドイッチを二つ食べただろ」
「あれは生存するための食料だ。夕飯とは別だろ」
「好きにしろ」
「よし、じゃあお前のおごりな」
俺は足を止めた。
「何でだよ」
「親友だから」
「お前に電話を返す友達が俺しかいないだけだろ」
「そう! つまり、希少で価値のある関係ってことだ!」
俺は森田を見つめた。
森田も俺を見つめ返す。
「……分かった。ただし、割り勘だ」
森田が舌打ちした。
「ひどい。あまりにもひどい仕打ちだ……」
*
俺たちは警視庁から数本離れた通りにある、小さなラーメン屋に入った。
そこは、何年経っても変わらないような店だった。長年使い込まれた木製のカウンターには無数の傷があり、隅に置かれたテレビでは夕方のニュースが流れている。
店主は森田を見るなり、まるで戦場から帰還した常連客を迎えるように声をかけた。
俺たちはラーメンを二杯と餃子を一皿注文した。
しばらくの間、心地よい沈黙の中で食べ続けた。
やがて、森田が箸を置いた。
「なあ、中村」
「ん?」
「ちょっと真面目な話をしていいか?」
俺は疑わしげに森田を見た。
「会計の話か?」
「違う。今回は本当に真面目な話だ」
「それはそれで不安になるな」
森田が身を乗り出した。
「なあ……お前、いつになったら彼女を作るんだ?」
俺は麺を噛むのをやめた。
それから、再び食べ始めた。
「今、食事中なんだけど」
「見れば分かる」
「なら食べさせてくれ」
「俺は本気で聞いてるんだぞ!」
「俺も本気で食べてる」
森田は、人生の重大な局面で裏切られたかのような顔をした。
「俺たち、もう二十四歳だぞ」
「おめでとう」
「仕事もしてる。金も稼いでる。親の許可を取らなくても、自分で部屋を借りられる年齢だ」
「それで?」
「なのに、俺たち二人とも彼女がいない!」
俺は店内を見回した。
「声を落とせ」
「恥ずかしいのか?」
「いや。お前の悲惨な恋愛事情を、店中に知られたくないだけだ」
「俺の恋愛事情は至って普通だ!」
「なら、どうして叫んでるんだ?」
森田は口を開いた。
閉じた。
そして箸を俺に向けた。
「話をそらすな!」
「そもそも、話なんてあったか?」
「最後にデートしたのはいつだ?」
俺は考えた。
「一度もない」
森田が固まった。
知り合ってから今まで、こいつが本気で言葉を失う姿を見たのは初めてだった。
ゆっくりと箸を下ろす。
「……待て。マジで?」
「ああ」
「一回も?」
「一回も」
「文化祭でデートしたことも? 映画に行ったことも? 道を尋ねてきた女の子に告白だと勘違いして、逆に振っちゃったことも?」
「道を尋ねながら告白する人間がいるのか?」
「そういう話じゃねえんだよ!」
隣のテーブルに座っていたカップルが、ちらりとこちらを見た。
森田は声を落とした。
「なあ……つまり俺たち、二人ともまだ独身で、恋愛経験も実質ゼロってことか?」
俺は再びラーメンに目を落とした。
「そういうことになるな」
森田は背もたれに寄りかかり、天井を見上げた。
「信じられねえ……」
「お前が聞いてきたんだろ」
「お前には、せめて秘密の恋愛遍歴くらいあると思ってたのに」
「どうして?」
「だって、お前は無口だろ! 無口な男には謎めいた過去があるものなんだよ!」
「人間はそんな仕組みでできてない」
「じゃあ人間はどういう仕組みなんだよ?」
「家で食べればよかったと、今まさに思い始めてる」
森田がうめき声を上げた。
俺たちは再び食事を続けた。
しばらくして、森田の表情が少し和らいだ。
声も静かになった。
「……でもさ。マジな話、寂しいって思うことはないのか?」
俺の箸が、口元まで運ばれる途中で止まった。
店の窓の外を自転車が通り過ぎた。カウンターの向こうでは、店主がテレビを見て笑っている。
俺は、その質問について考えた。
もちろん、寂しさを感じたことはある。
仕事を終えてアパートに帰り、職場の人間以外とは誰とも話していなかったことに気づく夜もある。
朝、疲れ切った状態で目を覚まし、何を夢に見たのかさえ思い出せないまま、何か大切なものを忘れてしまったような嫌な感覚だけが残ることもある。
けれど、寂しさというものは説明しにくい。
特に、自分に何が欠けているのかさえ分からないときは。
「……時々はな」
俺は正直に答えた。
森田は冗談を言わなかった。
「ああ……俺もだよ」
珍しく、俺たちの間に流れる沈黙が違うものに感じられた。
だが、森田はすぐに新しい餃子を箸でつまんだ。
「でも、もし俺たちが結婚したら、俺が独身だったのはお前のせいだって嫁に言ってやるからな」
俺は森田を見た。
「俺は、お前のほうから先に俺にプロポーズしてきたって言ってやるよ」
森田が危うく餃子を喉に詰まらせかけた。
「お前……!」
「声を落とせ」
森田は口を押さえ、拳に向かってせき込んだ。
俺は笑った。
自分でも驚いて、途中で笑うのをやめてしまうほどだった。
森田がこちらを見る。
「何だよ?」
「別に」
「お前、今笑っただろ」
「苦しんでるときに笑うな!」
俺は首を振り、再び食事に戻った。
ほんの少しの間、連続殺人も、捜査資料も、KENZŌという名前も、遠くに感じられた。
ほんの少しの間だけ、俺はただの二十四歳の男だった。
馬鹿な友人とラーメンを食べている、どこにでもいる男。
それだけで、十分だった。
*
アパートに戻ったのは、午後十時近くだった。
廊下は静まり返っていた。
階段を上りながら、シャワーを浴びて、ベッドに倒れ込むことばかり考えていた。
だが、そこで足が止まった。
隣の部屋の前に、段ボール箱がいくつも積み上げられていたのだ。
俺はそれらを見つめた。
一つには「本」と書かれていた。
別の箱には「キッチン用品」。
さらにもう一つは、まるで中身を絶対に逃がすまいとするかのように、テープが何重にも巻かれていた。
……中身は無事に届いたんだろうか。
俺は隣の部屋のドアに目を向けた。
誰か引っ越してくるのか?
そういえば、誰かが引っ越していくところも見た覚えがない。
もっとも、俺は近所の住人に注意を払うような人間でもなかった。
肩に掛けたバッグを持ち直す。
男だろうか。それとも、女だろうか。
二秒ほど考えた。
そして、ため息をついた。
「……ま、どうでもいいか」
俺には関係のないことだ。
鍵を開け、自分の部屋に入った。
いつもと変わらない静けさが俺を迎えた。鍵をテーブルに置き、楽な服に着替え、冷蔵庫に残しておいた夕飯を食べる。
歯を磨いてから、スマートフォンを確認した。
返信する必要のあるメッセージはない。
事件に関する新しい情報もない。
明日の朝まで待てないような用事は、何一つなかった。
照明を消し、ベッドに潜り込む。
明日もまた、殺人事件を調べることになる。
新しい報告書を読むことになる。
長い一日が、また始まる。
俺は布団を頭まで引き上げた。
「……もう、疲れた」
目を閉じた。
――うるせえええええ!!
……何だ、この音。
ガタッ。ゴトッ。
ドンッ。
「……ああ、そうか」
新しい隣人。
「……ん?」
俺は薄暗い天井を見つめた。
……何なんだよ、いったい。
廊下では、段ボール箱が相変わらず隣の部屋の前に積み上げられていた。
俺は、それ以上考えないことにした。
誰が引っ越してきたのか。
どんな人間なのか。
知る由もなかった。
そして正直なところ――
今の俺には、そんなことを気にする余裕など、これっぽっちもなかった。




