顔のない名前
はじめまして。アキラ・リュウセイ(Abishik)です。
この物語は、連続殺人事件を追う若き刑事・カズキを主人公とした、心理ミステリーです。
事件を追うたびに浮かび上がる矛盾。
少しずつ明らかになる真実。
そして、誰も疑わなかったはずの存在。
果たして、目に見えるものだけが真実なのでしょうか。
何気ない会話や小さな違和感が、後になって思いもよらない意味を持つかもしれません。
どうか、登場人物たちの言葉を信じすぎないでください。
そして、最後まで真実を見届けていただければ幸いです。
それでは、『KENZØ』の世界をお楽しみください。
東京は、本当の意味では眠らない。
夜明け前から街は動き出し、地下では電車が轟き、コンビニの明かりが闇に浮かぶ。誰にとってもただの朝。けれど警視庁にとっては、答えのない、また新しい一日だった。
僕の名前は中村和樹。二十四歳。警視庁の刑事だ。
「その歳で刑事なんて、若すぎる」
そう言われるのには慣れている。先輩の教えは単純だ。まず聞け。次に見ろ。口を開くのは、言う価値のあることがあるときだけ。
ただ、ひとつ問題があった。
ここ五日、毎晩のように殺人の夢を見ている。
しかも、その細部を、少しずつ思い出し始めている。
最初の夜は気にも留めなかった。二日目は睡眠不足のせいにした。三日目には、言い訳をやめた。夢は、他人の顔や、忘れた記憶や、気づかなかった音を勝手に借りてくる。証拠として扱う理由なんて、ない。
少なくとも、そう自分に言い聞かせて、僕はシャツのボタンを留めた。
鏡の中の目は、今週ずっと見てきたのと同じ、疲れた目だった。
家を出ると、朝の空気は思ったより冷たかった。開店したばかりのパン屋の前で、年配の女性がカートを段差に引っかけて困っている。僕は荷台を持ち上げて手を貸した。
「ありがとうねぇ、お兄さん」
「いえ。段差、気をつけてくださいね」
ごく普通の、何の変哲もない朝だった。
この朝が、のちに僕が一生忘れられない朝になるなんて、そのときは思っていなかった。
*
「遅いぞ、中村」
署に着くなり、守田さんがコーヒーから目も上げずに言った。
「会議は七時半からです」
「七時に来られただろ」
「その三十分で、僕は何をするんです?」
「仕事」
「想像力に感服します」
守田大地。三十代後半。人類に何度も失望させられてきた男の顔をしている。それでも腕は確かな、僕の相棒だ。
部屋の奥のボードには、四枚の写真が貼られていた。
新宿のマンションで見つかった経営者。練馬の立体駐車場にいた大学生。池袋の貸し部屋の元会社員。そして昨夜見つかったばかりの、新井俊一、四十一歳。
年齢も、職業も、住む街も違う。共通の知人は、まだ見つかっていない。
「ボードに向かって、自白でも期待してるのか」
「してくれたら助かるんですけど」
神田警視正が入ってきて、スクリーンに新井の部屋が映し出された。争った形跡のない、普通の夜が途中で断ち切られたような部屋。
その写真の端、テーブルの陰に、腕時計が写っていた。
ガラスにひびが入っている。
理由はわからない。けれど視線が吸い寄せられて、写真が切り替わっても、僕はその小さな割れた円を見つめ続けていた。
会議の終わりに、僕は手を挙げた。
「被害者四名の、死亡前二十四時間を比較させてください。履歴書にも戸籍にも載らない繋がりが、あるかもしれません」
腕を組んでいた刑事が言う。
「あるかどうかもわからない繋がりのために、膨大な作業をしろってことか」
「はい。そうなります」僕は答えた。「ですが、背景が違うからと無関係と決めつければ、見落とすものがあるかもしれません。駅、コンビニ、飲食店。誰も、わざわざ訊かれなければ口にしないような、ありふれた場所です」
神田警視正は、しばらく僕を見てから言った。
「承認する」
守田さんが小声で言った。
「悪くない。慣れるなよ」
*
正午、守田さんと新井の部屋を訪れた。
川辺で並んで笑う、兄弟らしき二人の写真。丁寧に畳まれた毛布。小さな暮らしの痕跡のなかで、僕は低いテーブルの前に立った。
「あの腕時計は、押収されましたか」
立ち会いの警官が手帳を確認する。
「はい。ただ、ガラスが破損していて、事件より前に止まっていた可能性もあります。鑑定結果待ちです」
事件とは無関係かもしれない。わかっている。わかっているのに、テーブルの横から動けなかった。
そのとき、ほんの一瞬だけ――この部屋を前にも見たことがある気がした。
写真ではない。報告書でもない。どこか、別の場所で。
テーブルに落ちる光を見ていると、胃のあたりが締めつけられた。瞬きをすると、その感覚は消えていた。
「中村?」
「今行きます」
既視感は証明にならない。人の頭は、説明が欲しいとき、空白を埋めるのが驚くほど上手い。
僕はそう信じて、午後の仕事に戻った。
*
午後五時四十分。神田警視正が、短い会議を開いた。
「報道が、被疑者に呼び名をつけ始めた。繰り返すが、我々に被疑者はいない。動機も確定していない。世間が欲しがるからといって、確信を捏造するわけにはいかん」
誰も口を開かない。神田警視正は、後方の席の刑事に視線を向けた。
名前を告げた刑事が、咳払いをする。
「――KENZOです」
その名前が、部屋に降り積もった。
空調の音も、電話の音も、遠のく。
胸の奥が、かすかに締めつけられた。僕は、その名前を聞いたことがある。
……いや、ないのかもしれない。
喉まで出かかっているのに、掴もうとするたび、指の間から滑り落ちていく。
「中村、意見はあるか」
「……呼び名が仮説にすり替わらないよう、注意すべきです」
答えた声は、ちゃんと落ち着いていたと思う。
会議のあと、守田さんが言った。
「あの名前が出たとき、お前、黙ったな」
「この呼び名が捜査に与える影響を考えていました」
「それだけか?」
「もっと謎めいた理由のほうがお好みですか」
「俺は、次のコーヒーをお前が奢ってくれるほうが好みだ」
彼が離れてから、僕は手元のノートに目を落とした。
無意識のうちに、書いていた。
――KENZO。
その文字だけが、周りよりも強く、紙に食い込んでいた。
*
夜の街を歩きながら、四人の被害者のことを考えた。
彼らも死んだ日、こんな通りで、コーヒーを買い、メッセージに返信し、週末の予定を立てたのだろうか。その翌日が、いつもと変わらない日になると、信じていたのだろうか。
コンビニの店員に礼を言って、水を受け取る。ありふれたやり取り。ありふれた人生。
駅前の時計塔の下で、足が止まった。
鐘が八つ鳴る。数え終えて腕時計を見ると、針は八時三分を指していた。時計塔は八時を打ったのに、だ。
ガラスを指で叩く。秒針は動き続けている。
「……またか」
何週間も前から、この時計は調子が悪い。秒針が引っかかり、数秒止まってからまた動き出す。買い替えるべきなのだろう。でも、役に立たなくなっても、持ち続けてしまうものがある。
僕は袖を引いて、腕時計を隠した。
ひび割れた時計と、止まりかけの自分の時計。なぜ今、その二つを並べて考えているのか、自分でもわからなかった。
*
その夜、夢が戻ってきた。
窓も扉もない、青白い部屋。中央の木のテーブルに、腕時計が置かれている。
ガラスにひびが入っていた。針は止まっている。
十一時十七分。
「見ていたのか。何が起きたのかを」
背後から声がした。振り返っても、誰もいない。
「誰を探している?」
「……わからない」
考える前に、答えが口から出ていた。
ひび割れたガラスに指が触れた瞬間、頭の中で何かが閃いた。白い天井。黒い影。誰かが呼ぶ声。そして、恐怖なのか、悲しみなのか、罪悪感なのか、判別できないほどの感情。
時計が滑り落ち、床で砕ける音がした。
喘ぎながら目を覚ます。午前三時十七分。
ノートに、覚えていることを書き留めた。
――青白い部屋。ひび割れた腕時計。十一時十七分。
少し迷って、もう一行だけ、付け加えた。
――どれだけ覚えているのか、と訊く声。
なぜ、この時刻だけこんなにはっきり覚えているのだろう。写真を見たからだ、と僕は思おうとした。夢は、その日の断片を借りてくるものだから。
その説明にしがみついたまま、ノートを閉じた。
翌朝届いた報告書には、こう書かれていた。
〈回収された腕時計一点。ガラス破損。回収時の表示時刻は信頼性なしとする〉
あの時計が何時で止まっていたのか、誰も確認していない。
それなのに僕は、その時刻を、まぶたの裏に書かれていたかのようにはっきり見た。
「ひどい顔してるぞ」
デスクに来た守田さんが、二つ持っていたコーヒーの片方を置いた。
「寝ました」
「どのくらい」
「十分に」
「答えになってない」
夢の話をしたら、彼はきっと、寝る前にその写真を見たのかと訊くだろう。そして話は、そこで終わる。
夢を捜査に持ち込む理由はない。そう思って、黙っていた。
けれど、言えなかっただけなのかもしれない。
鑑識への質問リストを書こうとして、ペン先が止まった。次に何を書くつもりだったのか、数秒間、思い出せなかった。
*
その夜――東京
路地には、雨と、煙草の煙と、錆の匂いが漂っていた。
一人の男が、よろめきながら後ずさり、背中をレンガの壁にぶつけた。口の端から血が流れている。
「……頼む」
数メートル先、頼りない街灯の下に、黒いコートの男が立っていた。顔は影に隠れたまま。指の間で、煙草の火種が赤く灯る。
「金ならある。誰にも言わない。家族がいるんだ」
「……いるのか」
影の男が、静かに言った。
「お前が決断を下したとき、その二人のことは考えたのか」
負傷した男の表情が変わった。
殴られることへの恐怖ではない。正体を、見抜かれることへの恐怖だ。
「何の話か、わからない」
「お前たちはいつも、そう言う」
「俺は何もしてない!」
「面白いことを言うな」
影の男は煙草を吸い、火種が闇に赤く灯った。
「真実を話す機会は、いくらでもあったはずだ」
「俺は本当のことを言った!」
「違う」
たった一言。静かで、確信に満ちた声。
「お前が話したのは、自分を守るための『真実』だ」
「なんとかする! チャンスをくれ!」
「お前が奪ったものを、取り戻せるのか」
負傷した男の口が開く。何も出てこない。
影の男は、灰の溜まった煙草に目を落とした。
「なあ……俺は最近、『KENZO』と呼ばれているらしい」
男の目が、大きく見開かれた。
「お前は、誰なんだ!」
答えはなかった。弾かれた煙草が水たまりに落ち、小さな音を立てて火を消した。
「妙な名前だろう」
路地の向こうで、時計が零時を打ち始める。
影が、一歩、近づく。
八時間前、この街は鐘の音に耳を傾けていた。
今、二つのビルの間の狭い暗闇で、一人の男が命乞いをしている。
それでも、東京は、眠り続けていた。
――第一話 完
『KENZØ』を読んでくださり、本当にありがとうございます。
すべての謎には、始まりとなる問いがある。
そして、一つの答えが見つかれば、また新たな謎が生まれる。
時には、最も危険な真実ほど、私たちが目を背けたくなる場所に隠されているのかもしれません。
『KENZØ』は、謎と人間の本性、そして真実と欺瞞の曖昧な境界線を描く物語です。
けれど、それ以上に――人が何を信じ、何を信じたくないと願うのか。その選択を描く物語でもあります。
ここまで読んでくださった皆様に、心から感謝いたします。
物語はまだ始まったばかりです。
少しずつ明らかになる真実と、深まっていく謎。その先に何が待ち受けているのか、これからも見届けていただけたら嬉しいです。
もし本作を楽しんでいただけたなら、評価や感想、ブックマークなどで応援していただけると、大きな励みになります。
それでは、また次のエピソードでお会いしましょう。
どうか、目を離さないでください。
なぜなら――
真実は、必ずしも影の中に隠れているとは限らない。
時には、それはあなたの目の前に立っているのだから。
アキラ・リュウセイ(Abishik)




