隣の部屋の少女
朝は静かに訪れた。
カーテンの隙間から差し込んだ日差しが、アパートの床に広がっていく。
午前七時。
アラームが鳴った。
僕は手を伸ばしてスマートフォンを手に取り、アラームを止めると、そのまま天井を見つめた。
また一日が始まる。
数秒間、僕は動かなかった。
そして、警察署で待っている事件のことを思い出した。
「……そうだ。仕事か」
重い身体を起こし、ベッドから出た。
顔を洗い、手早くシャワーを浴びて、いつもの服に着替える。簡単な朝食を用意し、スマートフォンを確認して、必要なものをまとめた。
何も変わったことはない。
いつもと同じ、ありふれた朝。
少なくとも、そのときの僕はそう思っていた。
⸻
アパートのドアに鍵をかけ、鍵をポケットにしまった。
振り返ると、隣の部屋が目に入った。
ドアの前には、まだ段ボール箱がいくつか置かれている。
まだ荷解きが終わっていないのか。
僕は何気なくドアを見つめた。
中から小さな物音が聞こえた。何かを床に置いたような音だった。
バッグの位置を直し、立ち去ろうとした、そのとき。
隣のドアが開いた。
「あ、あの!」
振り返る。
ドアの向こうには、一人の少女が立っていた。
僕と同じくらいの年齢だろうか。長い黒髪に、少し緊張したような表情。
彼女は両手で小さな紙袋を持っていた。
「おはようございます」
「ああ。おはよう」
一瞬、沈黙が流れた。
彼女は紙袋に視線を落とし、それから再び僕を見た。
「あの……隣に住んでいる方、ですか?」
僕は自分の部屋のドアをちらりと見た。
「うん。そうだけど」
「あっ! やっぱり!」
彼女は小さくうなずいた。
「昨日、引っ越してきたんです。これからお隣さんになります」
「そうなんだ。段ボールが置いてあったから、気づいてたよ」
「えっ……見えてました?」
「まあ、あれだけ置いてあればね」
彼女は少し恥ずかしそうに笑った。
「すみません。まだ片付けが終わってなくて……」
「いや、別に気にしなくていいよ」
再び沈黙。
彼女は何か言いたそうにしていたが、なかなか言葉が出てこないようだった。
僕は少し首を傾げた。
「どうかした?」
「あっ! いえ、何でもないです!」
彼女は姿勢を正し、持っていた紙袋を差し出した。
「実は、これを渡したくて」
僕は紙袋に目を向けた。
「これ?」
「クッキーです」
「クッキー?」
「は、はい。昨日作ったんです」
彼女は紙袋をもう少し前に差し出した。
「昨日、荷物を運ぶのを手伝ってくださったお礼です。別にそこまでしていただかなくてもよかったのに……でも、何かお礼をしたくて」
僕はしばらく紙袋を見つめた。
それから、それを受け取った。
「ああ。そんなの気にしなくてよかったのに」
「分かってます。でも、私が渡したかったんです」
「ありがとう。わざわざ悪いね」
彼女は少しだけ頭を下げた。
「気に入ってもらえると嬉しいです」
「食べてみるよ。ありがとう」
彼女の顔に、小さな笑みが浮かんだ。
控えめだったけれど、確かに笑っていた。
引っ越してきたばかりだからだろうか。近所の人と話すことに、少し緊張しているように見えた。
まあ、僕だって決して話しかけやすい人間ではないけど。
「そういえば、僕はカズキ。中村カズキ」
彼女は顔を上げた。
「私は、彩伊呂波です」
「イロハ?」
彼女はうなずいた。
「よろしく、イロハさん」
その表情が、少しだけ柔らかくなった。
「こちらこそ、よろしくお願いします。中村さん」
腕時計に目を向ける。
「……やば。遅刻する」
「あっ! すみません! 私、引き止めちゃって……!」
「いや、大丈夫。そろそろ行こうと思ってたし」
僕は軽く会釈した。
「じゃあ、また。イロハさん」
「は、はい! いってらっしゃい!」
階段へ向かって歩き始めた。
「中村さん!」
もう一度振り返る。
彼女はまだドアの近くに立っていた。
「改めて、ありがとうございました!」
僕は紙袋を少し持ち上げた。
「どういたしまして」
そう言って、階段を下りていった。
⸻
電車はいつもより混雑していた。
僕はドアの近くに立ち、片手に紙袋を持ちながら、スマートフォンで最新のメッセージを確認していた。
森田からだった。
森田: 今日こそ遅刻するなよ。
僕: してない。
森田: お前はいつも遅刻してるだろ。
僕: だったら、なんで毎回聞くんだよ。
森田: 奇跡を信じてるからだ。
僕はスマートフォンの画面を消した。
まったく、馬鹿な奴だ。
次の駅に到着し、何人かの乗客が乗り込んできた。
ふと、手元の紙袋に目を落とす。
クッキーか。
平日の朝から、こんなものをもらうとは思ってもいなかった。
紙袋の口を少し開けてみる。
中には、小さなクッキーがいくつか綺麗に並べられていた。
手作りらしい。
一つ手に取り、口に運ぶ。
「……悪くないな」
いや、普通に美味しい。
残りを紙袋に戻し、口を丁寧に折りたたんだ。
残りは仕事が終わってから食べよう。
⸻
「おっせーぞ!!」
職場に入った瞬間、そんな声が飛んできた。
森田がコーヒーを片手に、僕のデスクの横に立っていた。
時計を確認する。
「二分前だけど」
「気持ち的には遅刻だ」
「何だよ、それ」
「俺の深い名言に疑問を持つな」
バッグを置く。
すると、森田の視線が僕の手にある紙袋へと移った。
「ん? それ何?」
「クッキー」
森田は僕を見つめた。
「……クッキー?」
「そう言っただろ」
「お前、いつからクッキーなんか買うようになったんだ?」
「買ってない」
森田は目を細めた。
「じゃあ、どこで手に入れた?」
僕は紙袋を開き、中を見せた。
「新しい隣人からもらった」
森田の表情が変わった。
「新しい隣人?」
「ああ。隣の部屋に誰か引っ越してきたんだ」
森田が身を乗り出す。
「待て。誰かって?」
「女の子」
言った瞬間、しまったと思った。
「お、女の子!?」
「声がでかい」
「おいおいおい!」
「森田」
「お前、ずっと女の子の隣に住んでたのか!?」
「昨日引っ越してきたんだよ」
「しかもクッキーをもらったって?」
「ああ」
「手作り?」
「らしいな」
森田は紙袋を見て、それから僕の顔を見た。
そして、ゆっくりと妙な笑みを浮かべた。
嫌な予感しかしない。
「何だよ、その顔」
「いや、別に?」
「だったら、その顔やめろ」
森田はニヤニヤしながら背もたれに寄りかかった。
「ようやくお前にも春が来たのかもしれないな」
「ただのクッキーだ」
「すべてはそこから始まるんだよ、相棒」
「いいから仕事しろ」
森田は笑いながら自分のデスクへ戻っていった。
僕は呆れて首を振った。
まったく、こいつは……。
紙袋からもう一つクッキーを取り出した。
⸻
その後は、いつも通りの一日だった。
報告書、事情聴取、そして五人目の被害者についての再度の話し合い。
黒田達也。
彼の身元や過去については、現在も調査が続いている。
しかし、彼とこれまでの被害者たちとの関係は、依然として不明なままだった。
夕方になる頃には、ほとんど進展がないことに気づいた。
僕は椅子の背もたれに身体を預け、目を閉じた。
五人の被害者。
五つの人生。
そして、そのすべての話題の裏側に、何度も浮かび上がる一つの名前。
KENZŌ。
目を開ける。
まだ仕事は残っている。
机の上に置かれた報告書に手を伸ばした。
その隣には、クッキーが置かれていた。
ほとんど空になった紙袋を見つめる。
「……今度、ちゃんとお礼を言わないとな」
そんなことを考えたのも束の間。
僕は再び仕事に戻った。
⸻
家に帰り着いた頃には、午後八時を過ぎていた。
廊下は静まり返っている。
隣の部屋のドアは閉まっていて、以前置かれていた段ボール箱もなくなっていた。
僕はその前で少し立ち止まった。
どうやら、荷解きはほとんど終わったらしい。
しばらく眺めた後、ポケットから鍵を取り出した。
自分の部屋に入ろうとした、その直前。
もう一度だけ、隣のドアに目を向けた。
「イロハさん、か……」
小さく名前を口にする。
そして、軽く肩をすくめた。
クッキーをもらったくらいで、友達になったわけでもない。
鍵を開け、部屋の中へ入った。
また、いつもと変わらない夜。
いつもと変わらない一日。
少なくとも、そのときの僕はそう思っていた。
そう……
彼女は、ただの新しい隣人だった。
そして、僕もそれで十分だと思っていた。




