人生初の授業に、いきなり検査官が入ってきた
その1「初出勤」
新たなアルジェリア生活が始まった。独身用住宅に入ったのが水曜日の午後。翌日の木曜・金曜の2日間は休みとなっている。ここイスラム教の国では、金曜が本来の休日。週休2日制のアルジェリアでは、木曜と金曜が休みになる。
そして土曜日。いよいよぼくの初授業だ。2日間の余裕があったとはいえ、授業の準備はほとんどできなかった。ぼくは教育学部出身でないし、教育実習を受けたこともない。そもそもの基本ができてない。
人生で初めて教師として教壇に立つ。しかもここは異国アルジェリア。ひとつ心配が浮かぶと、ウィルスが増殖するように頭の中を支配する。これじゃ金曜の夜は眠れない。こういうときこそ母の言葉を思い出したいが、何も思い出せない。
うつらうつらするうちに夜が明けた。
とにかく起床。朝食はあまりのどを通らない。車でトレーニングセンターに出勤、職員室に着いた。他の講師は足取り軽く、次々と教室に向かう。
「自分もやがてあんな風になれるんだろうか」
ぼくは足取り重く階段を上り、教室の前まで来た。ドアノブに手をかけたが動かせない。足もすくんで動かない。そのとき、母のことばを思い出した。
「深呼吸は、気分転換だけでなく運気も転換する」
ぼくは肩の力を抜いた。
「すーっ」
大きく息を吸い込んだ。
「げほげほげほ」
大きく咳き込んでしまった。学校もまた、空港と同じく民族独特の匂いがする。
その上に若い男の汗の酸っぱい匂いが混ざっている。さらにほこりっぽくもある。ここまで追い込まれると、逆に九州男児度が急上昇した。
「負けるわけにはいかんばい。心の阿蘇山は大噴火たい!」
勢いよくドアを開けた。
その2「初授業」
教室を見渡すと、日本の教室とはまるで違っていた。
日本のような制服は、もちろんない。ターバンを巻く者、髪の毛を伸ばし放題にしている者、スキンヘッドまでいる。
ところが全員ヒゲは生やしている。ヒゲだけ見れば、全員がぼくより年上に見える。イスラム教ではヒゲがなければ、男性として認められないからだ。しかし顔つきはやはり幼い。いかにも10代の眼をしている。
それより、なんせ準備ができてない。授業を先に進めることができない。だがそんなことがばれれば、たちまち生徒になめられてしまう。ここは、ある秘密作戦を実行した。
「きょうは最初なので、今までの復習をしよう」
ぼくは生徒をひとりずつ当てて、教科書を読んでもらうことにした。読み終わるとぼくも読んで、内容を解説する。
何のことはない。日本式授業スタイルをなぞっただけだ。ま、これなら1時間乗り切れるはず。まず教壇近くの、比較的大人しそうな生徒を指名する。ところがこれがいけなかった。
「ムッシュ・リョウイチ、どうして教科書を読まなければいけないんだ?」
あとで知ったが、アルジェリアでは授業中に教科書を読むことは禁じられているそうだ。そんなの、フォールもガリッグも忠告してないよ。
のちに経験したフランスの授業では、教科書を読む場面はなかった。教科書は使用せず、教師が用意したテキストや小説、市販の本が教材となっていた。
おそらくアルジェリアは、フランスの影響を受けているんだろう。
その3「検査官」
読む、読まないで生徒ともめていると、突然教室の後ろのドアが開いた。
いかつい男が入ってきた。
そういえば初日、ムッシュ・ガリッグがこういっていた。
「突然アルジェリア人の検査官が、教室に見学にくることがある。彼らは生徒から苦情を聞き出す。時には講師を解雇させることもある」
何も最初の授業から、こなくていいだろ! 検査官と生徒が会話している。なぜ教科書を読むのかと訊いているらしいが、すべてアラビア語。ぼくにはまったく理解できない。やがて検査官は、納得した表情で教室を出ていった。どうやら『1日目でクビ』だけは逃れられたようだ。
こうしてやっと初授業が終わった。廊下に出ると、ムッシュ・ガリッグが立っていた。
「検査官がきて驚いたろう? ワシが初めて赴任した時も、彼らは何かにつけて因縁をふっかけてきた。たとえば……」
彼はサービス精神旺盛なのはいいが、話が長い。ここは要約しよう。つまりこうだ。
フランス人はアルジェリア人から嫌われている。それは随所に嫌がらせとなって現れる。今回の見学もそうだ。検査官は気難しく、フランス人への不信感が高い。何人もの講師が帰された。教えかたの問題だけでなく、生徒との信頼関係から起きる問題もかなりある。植民地と非植民地の関係は、今でも心のしこりとなっている。
ぼくは、生徒の説明を聞いて検査官が帰ったことを話した。するとムッシュ・ガリッグはこういった。
「ワシが同じように教科書を読ませていたら、どんなひどいことを検査官にいいつけられたか、わからない。ムッシュ・リョウイチは東洋人だから、生徒が助けてくれたのかもしれないな」
その4「一体感? 連帯感?」
あの生徒たちが、ぼくを助けた?
授業中に生徒たちとの一体感なんて、これっぽっちも感じなかった。でも向こうは
「同じアジア人同士」
という連帯感をもっているのかもしれない。そう思うと、うれしさがこみ上げて来た。急に生徒たちが愛おしく思えて来た。こういうことが、教師という仕事の醍醐味かもしれない。第1日目でこんな満足感に浸れるなんて。
ぼくはムッシュ・ガリッグと別れ、ゆっくりと教室をあとにした。次の授業が楽しみになった。
「卒業式では生徒と抱き合い、眼には涙があふれているかもしれないな」
そんな先のことを考えながら、職員室へ戻った。
しかしそれは甘すぎる考えだった。涙が出そうになる出来事は、たくさん起こるんだけど……。




