取締役が、鍋の注ぎ口をこっそり逆に付け替えた
50歳を過ぎているが、俳優のようなイケメン男。それが、ぼくらの重役ドルフ・シュネットラーグだ。
体格から、明らかにスポーツマンだとわかる。彼は、いつもフランスとアルジェリアを往復している。こちらにいて休日を迎えると、スカッシュなどの球技をして過ごす。ヤイを誘ってテニスに興じることもある。
ある日ぼくがローラースケートをしていると、彼が話しかけてきた。
「ムッシュ・リョウイチ、あなたは前にしか滑らないのかい?」
「後ろ向きに滑れるんですか?」
「こうすればいいんだ」
彼は丁寧に教えてくれた。取締役の彼が、下請け社員のぼくにだ。いつ会っても前向きなドルフ氏から、後ろ向きの滑りかたを教わった。貴重な体験だった。
あるとき、ガリッグ夫妻が休暇でフランスに帰った。その間、代わりにドルフ氏が1週間ほど彼らの家に泊まった。彼の昼食は、ぼくが作ることになった。といっても、ガリッグ家ではいつも4、5人で昼食をとるのが、習慣となっている。いつもの人数に1人増えただけだ。
ある日、いつものように食後のコーヒーを沸かしていた。それをカップに注ごうとしたら、みんながいっせいに笑い出した。
「どうしたんだ? なんでみんな笑うんだ?」
「わっはははは! 信じられないよ」
誰もが腹を抱えて笑っている。ドルフがこういった。
「お前さんがもっている鍋をよく見てみな」
「えっ、鍋? 別に何の変哲もない。毎日使っている鍋だよ」
「ひっひひひひ! いやあ、おかしい」
ドルフがまた話しだす。
「その鍋の注ぎ口を見てみなよ」
「注ぎ口?」
「お前さんは左利きだから、いつも左で鍋をもつだろ。反対側にある注ぎ口で、毎日やりにくそうにコーヒーを注いでいる。だから注ぎ口を換えてやったんだ」
よく見ると、逆の方向に注ぎ口が取り換えられている。
「ムッシュ・ドルフ、確かにそうなっている」
「そしたら、どうだ。お前さんは、いったんは左手でもった。ところが、わざわざ右手に持ち替えたんだぜ」
「何でだろう? 自分でもよくわからない」
「その窮屈な持ちかたが、習慣になっているからさ」
「そ、そうかも」
「また以前と同じく、やりにくそうにコーヒーを注いでいる。だから、みんなで笑ったのさ」
鍋は、スズでできている。そんな細工は簡単だ。しかし彼らが、そんなイタズラをするとは思わなかった。しかも音頭を取ったのは、取締役である。親切心からだろうが、黙ってぼくの反応をながめていたのは、やはりイタズラに近い。
その後この話は、あちこちで語られた。ぼくが初めて会った人に、こういわれたこともある。
「ああ、注ぎ口の人ですね。取締役から聞いています」
名刺代わりの失敗となった。




