タイムリミットは午前零時、モロッコ横断六百キロ
その1「最後の試み」
翌日、午前6時00分。今朝は早く起きた。気合いが入っている。ホテルの朝食を食べ終わると、荷物を車に積んだ。冷凍庫と冷蔵庫から、豚肉とハムを取り出すことも忘れない。フロントで勘定を済ませると、ガレージへ。愛車には4日ほど前に乗ったばかりなのに、ずいぶん久しぶりな気がした。
「いよいよ最後の国境越えだ」
ハンドルを握る手が汗ばんでくる。国境を目指して急いだ。
午前8時16分。入国管理事務所の前は、相変わらず旅行者でごった返していた。よく見ると、旅行者でも、事務所の人間でもなさそうな一団が、ウロウロしている。荷物はもっていないし、制服も着ていない。ぼくは旅行者のひとりに聞いてみた。
「あの人たちは何ですか?」
「ありゃ、入国手続きを手伝う業者だよ。業者といっても、実態は観光客相手の便利屋だがね。あんたも慣れてないなら、自分で手続きするより彼らを使ったほうがうまくいくよ」
こりゃしめたものだと思い、さっそくひとりに手続きを頼んだ。何とか最初のステップは越えた。
午前9時13分。係官がやってきた。
「荷物を調べるからもってこい」
「車一杯の荷物をどうやって?」
と、思わず口に出かかった。しかしここで反論しようものなら、またどんな意地悪をされるかわからない。
午前9時50分。まずは本を詰めた箱を2、3個もっていった。係官は本をざっと見た。
「他は? 次もってこい」
なんだかつまらなそうだ。
「そうか、彼らの興味のなさそうな物を見せればいいんだ」
カセットデッキや電化製品は後回し。衣類の入った箱を運ぶことにした。
午前10時21分。案の定、係官はひどくつまらなそうだ。そりゃ、箱にぎっしり詰まった男の下着を見て、楽しいわけがない。
「もういい」
半分ほど調べたところで、ぼくは係官から解放された。意外にあっけなかったので拍子抜けした。しかし、いつ彼らの気が変わるかわからない。早々に荷物を積み直し、その場をあとにした。
午前11時00分。無事国境を通過。だが安心してはいられない。次の難題が待っている。モロッコを600キロ横断し、その日のうちにアルジェリアに入国しなければならない。そうしないと、ビザの期限が切れてしまう。タイムリミットは午前零時。これじゃ、ハンドルを握ったシンデレラだ。
午後1時00分。やっとモロッコに入る。以前書いたように、スペインでは1時間の夏時間、それに元来の時差を足すと、2時間の時差になる。すでに120分のロスだ。地図を買い、ルートを検討する。どうも地中海に沿って北部の海岸線を走るほうが、近道のような気がした。
あとでわかったが、実はこれが大きな間違いだった。いったん南下し、モロッコ北部を横断する幹線道路を利用すべきだった。道も広く、整備されていて、ずっと速く走れたらしい。人に聞けばよかったが、そんな気は起こらなかった。ここ数日のたび重なる苦難で、頼れるのは自分だけだと信じていた。
その8「モロッコ横断へ」
午後1時08分。走り始めて間もなく山道の連続となった。道路はでこぼこ、車体がピョンピョン跳ね上がる。何度も頭が天井にぶつかりそうになった。
時間は刻々と過ぎていく。しかし曲がりくねった道のため、スピードは出せない。おまけに目一杯の荷物を積んでいるので、加速も思うにまかせない。
午後3時13分。まだ山道は始まったばかりだ。このままじゃ、間に合いそうにない。ぼくはあせった。
「えい、無理にでも速度を上げて……」
アクセルを思い切り踏む。スピードメーターの針は、時速100キロ近くを指した。次のカーブを曲がろうとしたら、突然対向車が現れた。どでかいトレーラーだ。
「危ない!」
思わずハンドルを切り、ブレーキを踏む。後ろに乗せた荷物の一部が、前の座席まで倒れてきた。
よく見ると前方に道がない。降りて確かめてみる。車体が3分の1近く、崖からはみ出していた。荷物が重過ぎたから、後ろに重心が残ったらしい。それで助かったようだ。下のほうから川のせせらぎが聞こえる。あやうく谷底に落ちるところだった。もう少しで、あの交通標語
『せまい日本 そんなに急いで どこにいく』
ではなく
『広いモロッコ そんなに急ぐと あの世いく』
になっていた……。
その9「ガソリン危機」
午後4時03分。ガソリンが残り少なくなってきた。しかしすでに200キロメートル走っているが、ガソリンスタンドはひとつも見ていない。
「ひょっとしたらこの先ずっとないのかもしれない。どうしよう、このままガス欠で立ち往生するんだろうか……」
いよいよあせってきた。とにかく今は走り続けるしかない。ところがいくら進んでも、町や村どころか家1軒見かけない。他の車も見かけない。
「うわっ、カーブだ!」
「うわっ、崖だ!」
「うわっ、危ない! 木が倒れてる」
「うわっ、何か動物が飛び出した!」
そうこうするうち、景色が少し変わってきた。険しい山道から少し平坦な道となる。地名の書かれた看板が立っていた。聞いたことのない町だ。
「この小さな町にガソリンスタンドがなければ、もうアウトだ」
ほどなくして、それは見つかった。さっそく車を停めた。店の奥から、背の高い年配の店員がゆっくりと出てきた。
「満タンにしてくれ」
「それはダメだ。5リットルまでだ」
「どうして?」
「そういう決まりだから」
5リットルじゃ、せいぜい5、60キロしか走れない。あと400キロはあるというのに。
「そこを何とか、お願いします」
「そんなことをいわれてもな」
「満タンとはいわない、せめて倍の10リットルでも……」
ここでしくじったら、もうあとがない。
そう思うと、目に熱いものがあふれてきた。今にもこぼれそうだ。まぶたは涙で満タン。東洋人の必死の訴えに、店員もついに折れてくれた。
「わかったから、もう泣くな。10リットルだけ入れてやる」
なんだか、米びつにお米が半分ほど入ったような充足感がした。少し余裕が出てきた。涙も出てきた。今度はうれし涙だ。
その10「アルジェリア国境へ」
午後5時21分。それから数十キロ走ると、道はさらに平坦となった。ぽつぽつ家も見かけるようになった。ガソリンスタンドがいくつもある。だんだん市街地に向かっているようだ。もう心配ない。ここまでくると、ようやく先が見えてきた。あと200キロも走れば、幹線道路と合流する。思えばきょうはホテルで朝食を取ったきり、何も口にしていない。しかし今そんな余裕も暇もない。すでに夕暮れが迫ってきている。
「とにかく急がなければ!」
と思うと、なぜか空腹も感じなかった。
午後8時42分。小さな町ウジュダ付近を走行中だ。何の変哲もない殺風景な所だ。でもこの町が、国境にいちばん近い。わずか5分でウジュダを通過、あとは国境に向かって突っ走るだけだ。
午後10時44分。近いといっても国境へは、さらに2時間かかった。夜中にやっとアルジェリアの国境にたどり着く。そこにはそれぞれの国の警備兵がいて、入国管理事務所があった。その間は数百メートル離れていて、緩衝地帯となっている。国境という長い帯の両側に、兵隊と建物が存在するわけだ。この間にも1時間の時差がある。つまりモロッコでは午後11時前でも、アルジェリアではもうすぐ午前零時というわけだ。
「早く、早く……」
と心の中ではあせりながらも、表情には出さずモロッコでの出国審査を終える。
午後10時52分。通行ゲートから緩衝地帯へ。まだここで、あわててはいけない。もし急発進でもしたら、たちまち疑われる。ややゆっくりめの速度で車を走らせる。
午後10時57分。ようやくアルジェリア側に着いた。こちらでは、ほとんど12時。ようやく間に合った。だけど、まだ難関は残っている。アルジェリアの税関だ。ここは、今まで何度となく通った。しかし今回は、いつもと違う。車一杯の荷物がある。大型のラジカセやポケットコンピューターもある。しかも、それぞれ2台ずつ。
「問題にならなければ、いいが……」
この数日間さんざんイヤな目にあったので、作戦をふたつ立てることにした。うまく隠す作戦か、係官を懐柔する作戦だ。
まずはモロッコで使った、大事な物はうまく隠す作戦を実行する。最初は本の詰まった箱を、係官に見せる。商売や密輸をするたぐいの人間でないことをアピールした。真面目な正直者と思わせる。
「次もってこい」
今度は、日用品雑貨や衣類だ。
「次は何だ?」
係官は少々うんざりしている。真夜中だし、集中力が落ちてきているようだ。
ここでラジカセの出番だ。といっても、そのまま丸ごと見せるわけにはいかない。幸いにもこのラジカセは、2台とも本体とスピーカーが分離するタイプ。別々に見せていく。タイミングもずらして間に普通の荷物もはさんで見せる。係官は普通の機械の一部品とでも勘違いしたのか、興味を抱かなかった。
さらにポケットコンピューターも、うまく通過させた。いくつもの段ボール箱や、数多くの荷物の中に混じらせる。バラバラに入れて隠したので、係官は気づかない。
「もういい。通れ」
結局半分ほど荷物を出したところで、許可が下りた。モロッコの場合と同じだった。思った通りだ。
午前零時35分。あと残るのは、通貨の両替だけ。社会主義国の多くは、自国通貨の持ち出しを禁止している。たとえ持ち出せたとしても、ドルや円のように、西側の国の通貨とは交換できない。もちろん西側では使えない。闇市や闇ルートは存在する。しかし交換レートが悪く、見つかったときの罰は重い。
ただし出国するときは、税関にアルジェリア通貨のディナールを預けていける。そこで渡されるのが、引換証だ。入国時にそれを見せれば、お金を引き出せる。ぼくもその引換証で、お金を受け取った。もうそんなに急がなくていい。あとはオランまで走るだけだ。
その11「デンマーク人と税関員」
午前零時46分。出発しようと車に乗り込むと、何やら人の声がする。一段落着いた余裕からか、好奇心がわいてきた。車を降りて、声のするほうに近づいてみた。係官とヒッチハイカーふたりがもめている。話の内容からすると、彼らはデンマーク人らしい。
「国境から街にいくまでの交通手段がないんだ」
「だったら、明日もう一度出直してこい」
ぼくは、彼らがかわいそうになった。ついさっきまで自分も同じような立場だっただけに、何とかしてやりたくなった。ぼくは、彼らに呼びかけた。
「よかったら、ぼくの車に乗っていくかい?」
うれしそうな顔をするデンマーク人。しかし……
「それはダメだ。そんなのはアンタの問題ではないだろう」
税関員に止められた。正確には入出国管理官というらしい。胸のプレートに書いてある。彼はぼくに近づき、耳元でささやいた。
「あのデンマーク人たちは、一銭もお金を交換しなかった。つまり彼らはすでにどこかの闇ルートで通貨を交換し、持ち込もうとしているんだ。アンタは犯罪者の片棒をかつぎたいのか?」
そこまでいわれると、ぼくも引き下がるしかない。デンマーク人もあきらめて、モロッコ側に帰っていった。
午前零時58分。車に戻ると、重要なことに気づいた。あんなえらそうにいったけど、すでに車は荷物でいっぱいだ。もし彼らを連れてきていたら、乗せる場所はひとつしかなかった。それは、屋根の上……。




