卒業するという選択
この世界において、「魔力」とは命の砂時計である。
何もしなくても勝手に目減りしていくその残酷なシステムには、『副産物』があった。
――女性は、自らが望んだ時期から、外見的に一切歳を取らなくなるのだ。
魔力が細胞の劣化を完全に防ぐため、外見が女子高校生にしか見えなくとも、実年齢は八十歳を超えているというケースもある。そして、命の砂時計が完全に落ち切らない限りは、何歳であろうと妊娠し、出産することが可能だった。
だからこそ、この世界の街角ですれ違う女性たちの「本当の年齢」や「背負ってきた時間」を、見た目だけで推し量ることは意味がない。
ハルが新しい職場に赴任して、しばらくの時間が経っていた。
厳しい上司である静流の元での仕事は激務だが、彼には日々のささやかな楽しみがあった。それは、安くて美味しいと評判の社員食堂で昼食をとることだ。
そこには、小柄で可愛らしい女性店員がいた。
おさげ髪に、あどけない笑顔。どう見ても高校を卒業したばかりか、あるいは高校生のアルバイトにしか見えない。
「あ、ハルさん! 今日もお疲れ様です。今日の唐揚げ、一つおまけしておきますね!」
「いつもすみません。ありがとうございます」
彼女の接客はとても感じが良く、ハルは希少な「男」なのに、過剰な媚びを売ることもなく、ただの一人のお客さんとして温かく接してくれた。二人は顔を合わせれば、他愛のない挨拶を交わす顔見知りになっていた。慣れない職場で気を張っているハルにとって、彼女の無邪気な笑顔は確かな癒やしだった。
しかし、ある日のこと。
いつものように食堂へ向かうと、彼女の姿がなかった。
「あの子? ああ、先週で辞めちゃったのよ」
別の配膳スタッフに尋ねると、あっさりとした答えが返ってきた。
事情はわからないが、あの眩しい笑顔が見られなくなったことに、ハルは少しだけ残念な気持ちを抱いていた。
それから数週間後の、ある休日のこと。
ハルは気分転換に映画でも見ようと、賑わう街へと出かけていた。
休日の喧騒の中、交差点で信号待ちをしている時だった。ふと、見覚えのある小さな背中が目に入った。
「あ……」
食堂で働いていた、あの可愛らしい女の子だ。
声をかけようと一歩踏み出したハルは、しかし、彼女の横顔を見て思わず息を呑み、立ち尽くした。
日に透けるようだった彼女の髪は、その半分以上が真っ白な「白濁」に染まりきっていたのだ。
それは、彼女の魔力が底をつき、死期が目前に迫っていることを示す残酷なサインだった。
「あの……!」
気づけば、ハルは彼女の前に立っていた。
「あら、ハルさん。奇遇ですね。お休みですか?」
彼女は食堂にいた頃と変わらない、無邪気で可愛らしい笑顔を浮かべた。しかし、その顔色は透けるように白く、今にも消えてしまいそうに儚い。
「髪、それ……もう、命の限界なんじゃないですか」
ハルは言葉を濁さず、切実な思いで問いかけた。
「俺でよければ、力になります。あなたには、食堂でたくさんおまけしてもらった恩があるから。もし、よければ……」
それは、ハルが自身の身体を捧げ、彼女に命(子ども)を宿すことで魔力を完全回復させるという、明確な救済の申し出だった。希少な男であるハルにしかできない、この世界における最大の奇跡。
彼女はハルの言葉に少しだけ目を丸くした後、ふわりと、心底嬉しそうに微笑んだ。
しかし、その笑顔は、もはや「高校生の少女」のものではなかった。
まるで、すべてを包み込むような、底知れぬ深さと優しさを持った『成熟した大人』の微笑みだった。
「ふふ。ありがとう、ハルさん。とっても嬉しいわ」
彼女は、ハルの申し出を優しく手で制した。
「でも、お気持ちだけいただいておきます。もう、大丈夫なの」
「大丈夫って……でも、このままじゃ死んでしまう!」
「ええ。でもね、私、こう見えてもう九十歳なのよ」
ハルは言葉を失った。
九十歳。目の前であどけなく笑う少女が、ハルが生まれるずっと前からこの残酷な世界を生き抜いてきたというのか。
「私にもね、昔は心から愛した人がいたの。寿命を削って子どもを具現化して、必死に育て上げたこともあった。食堂の仕事もね、ただ若い子たちと一緒に働くのが楽しくてやっていたのよ」
彼女は、自分の白く染まった髪を愛おしそうに指で梳いた。
「十分すぎるくらい、生きたわ。美味しいものも食べて、悲しいことも、嬉しいことも経験した。だからね、ハルさん。私、そろそろこの人生から『卒業』してもいいかなって思っているの」
ハルの胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
魔力が枯渇すれば死ぬ。だから皆、死の恐怖に怯え、必死に生き延びようとする。ハル自身も、そうやって生きたいと願う女性たちを救ってきた。
しかし、目の前にいる女性は違った。彼女は死に怯えているのではなく、己の長い旅の終着点を、自らの意志で静かに受け入れようとしていたのだ。
ここで無理に命を繋ぐことは、彼女が九十年かけて積み上げてきた「人生の完成」を、否定することになってしまう。
「あなたのその真っ直ぐで優しい好意、忘れないわ」
彼女は背伸びをして、ハルの頭を優しく撫でた。
「さようなら、ハルさん。あなたがこれから歩む道に、たくさんの幸せがありますように」
少女の姿をした老女は、ハルに頭を下げると、人混みの中へと静かに歩き出していった。
ハルは、彼女の小さな背中を引き留めることができなかった。
(生き延びることだけが、救いじゃないんだ……)
休日の喧騒の中、ハルは一人立ち尽くしていた。
どれほどの奇跡の力を持っていようと、個人の「気高い決断」の前では意味がないこと。そして、この狂ったシステムの中で、人間が自らの意志で人間らしくあろうとすることの、途方もない業の深さ。
ハルは、彼女が最後にくれた温かい手の感触を思い出しながら、この残酷で美しい世界の重さを、改めてその身に刻み込むのだった。
お読みいただきありがとうございました。
もし「面白かった!」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、ページ下部にある【ブックマークに追加】や、【☆☆☆☆☆】の評価を押して応援していただけると、今後の執筆の何よりの励みになります!
次回もどうぞよろしくお願いいたします。




