繋ぐ愛
一週間の忌引き休暇が明け、静流は職場に復帰した。
「ハル君。先週頼んでおいたデータ、今日の夕方までにまとめておきなさい」
「……はい、承知いたしました」
彼女の姿は、以前と何一つ変わっていなかった。
完璧なメイク、一切の隙がないスーツの着こなし。そして、部下に対する容赦なく的確な指示。最愛のパートナーであった小夜を失った悲しみなど微塵も感じさせない、鉄壁のプロフェッショナルがそこにいた。
しかし、ハルだけは気づいていた。
彼女の黒髪の毛先に、恐ろしいスピードで「白濁」が広がっていることに。
(先輩は、わざと魔力を消費している……?)
通常、魔力は使わなければ緩やかにしか減らない。しかし、深い絶望や喪失感は、精神と直結している魔力の器に亀裂を入れ、命を急速に漏れ出させてしまうことがある。
今の静流は、まさにそれだった。彼女は仕事という鎧を纏うことで正気を保っているが、その内側では「小夜のいない世界で生きる意味」を見失い、無意識のうちに自らの命を削り捨てていたのだ。
数日後。
残業を終え、誰もいなくなった夜のオフィスで、静流が不意にデスクに突っ伏した。
「先輩!」
ハルが駆け寄ると、彼女の息は荒く、額には脂汗が浮いていた。そして何より、彼女の髪の半分以上が、すでにあの小夜と同じように真っ白に染まりきっていた。
「……触らないで、ハル君」
静流は震える手でハルを制止し、虚ろな目で宙を見つめた。
「大丈夫よ。ただ、少し魔力が……底をつきかけているだけ。小夜が亡くなる前、あの人が苦しまないように、私の魔力で痛みを和らげる魔法をずっと使い続けていたから……」
「そんな状態なのに、どうして休まないんですか! このままだと先輩まで……!」
「いいのよ、これで」
静流の口からこぼれたのは、いつもの厳しい叱責ではなく、ひどく諦めきった、静かな絶望だった。
「小夜がいない世界で、私だけが生き延びて何になるの? 男のあなたに抱かれて生き延びる?小夜との思い出を上書きしてまで生き長らえる?……そんな浅ましい真似、私にはできない。私は、あの人への愛と誇りを持ったまま、綺麗に終わりたいのよ」
それは、かつて小夜がハルに対して見せた「尊厳」と同じものだった。
静流は、己の命惜しさに男にすがるような獣にはならないと、最期まで気高くあろうとしていた。
しかし、ハルは強く首を振った。
「違います。それは『誇り』なんかじゃない。ただの逃げです」
「……何ですって?」
ハルの強い言葉に、静流がわずかに目を見開く。
「小夜さんは、あの日、俺を家に招いて手料理を振る舞ってくれました。それは単なる気まぐれじゃない。自分が死んだ後、一人残されるあなたが職場で孤立しないように、俺という後輩に『静流をよろしくね』って、あの食卓で頭を下げていたんじゃないですか!」
静流の肩が、ビクンと跳ねた。
「小夜さんは、あなたに生きてほしかったはずだ。俺に抱かれることが浅ましい? 思い出が上書きされる? 冗談じゃない。俺は、小夜さんへの愛を捨てろなんて一言も言ってない!」
ハルは、崩れ落ちそうになる静流の両肩をしっかりと掴み、その白濁した瞳を真っ直ぐに見据えた。
「小夜さんを愛したまま、生きてください。俺を道具として使っていい。俺があなたの魔力を満たし、命を繋ぎます。あなたが小夜さんのことを一生忘れないための『時間』を、俺が作ります。……だから、勝手に死なないでください」
ハルの声は、新人の部下としてのものではなかった。
一人の男として、そして、彼女たちの尊厳と純愛を誰よりも近くで見てきた理解者としての、血の通った叫びだった。
「ハル、くん……」
静流の瞳から、完璧な上司の仮面が剥がれ落ちた。
大粒の涙が、彼女の頬を次々と伝い落ちる。小夜が死んでから、誰にも見せなかった、そして自分自身にすら許していなかった「悲しみ」が、ついに決壊したのだ。
「……怖い、よ。小夜がいない明日が来るのが、怖いの……」
「俺がいます。明日も、明後日も、職場で生意気な部下として、ずっと隣にいますから」
静流は、すがるようにハルの胸に顔をうずめ、声を上げて泣き崩れた。
それは、愛する者を失ったただの一人の女性の、痛切な涙だった。
ハルは、彼女の冷え切った身体を強く抱きしめ返す。
誰もいない静寂のオフィス。それは決して、欲望や浅ましい生存本能による交わりではなかった。
小夜というかけがえのない女性の記憶を未来へ連れて行くための、祈りのような、神聖な命の儀式だった。
翌朝。
出社してきた静流の髪から、死を意味する白濁は完全に消え去っていた。
「ハル君。昨日のデータ、まだ提出されてないわよ。いつまで待たせる気?」
「す、すみません! 今すぐ出します!」
いつものように厳しい叱責。
しかし、彼女がふと見せた横顔は、以前の張り詰めたような氷の美しさではなく、どこか春の陽だまりのような、柔らかな温かさを帯びていた。
彼女の胸元には、小夜とお揃いで買った銀のネックレスが今も静かに光っている。
そして彼女の胎内には、ハルが繋いだ新しい命が、確かに息づいていた。
小夜との思い出を胸に抱きながら、静流はこれからも気高く、強く生きていく。
ハルは、そんな彼女の背中を眩しそうに見つめながら、今日もまた「生意気な部下」として、慌ただしくキーボードを叩き始めるのだった。
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