当たり前のこと、気高く生きること
「ハル君。この書類、フォーマットの指定が前回のままよ。修正して午後一番までに再提出しなさい」
「はい、申し訳ありません!」
新しい事業所に赴任して数週間。
ハルは今日も、直属の上司である静流から容赦のない叱責を受けていた。
彼女は仕事に対して一切の妥協を許さない、厳格で誇り高い女性だ。
かつて、この世界の男女比はほぼ拮抗していたという。
それが崩れたのは、遠い昔、ある研究者が「魔力」という万能の力を発見したことが発端だった。思考を現実に変える神の如き力。しかしそれは、なぜか女性の肉体にしか宿らなかった。
圧倒的な力を欲した当時の為政者たちは、魔力の保有量を国力とするため、あえて女性が多く産まれるように狂った制度や法律を制定していったのだ。
それが、果てしない呪いの始まりだった。
『希望を語る絶望』――歴史書にはそう記されている。
万能の力による永遠の繁栄という希望を追い求めた結果、女性たちは「魔力の枯渇=死」という呪いに縛られ、社会構造は完全に歪んでしまった。
男の数が極端に少なくなる過程では、男を巡る浅ましい奪い合いやハーレムが築かれた暗黒の時代もあったという。しかし、男の存在がいよいよ「少数を通り越して希少」なレベルにまで達した現代において、その状況は変化した。
命を繋ぐための奇跡の存在であるからこそ、男を大切にしつつも、過度にチヤホヤするような文化は完全に消滅したのだ。
さらに現代では、魔力を用いれば女性同士でも肉体的な繋がりを持ち、深く愛し合うことが可能である。ゆえに、この時代において女性同士がパートナーとして共に人生を歩むことは、ごく当たり前の常識となっていた。
だからこそ、静流のような誇り高い女性たちは、相手が希少な男であろうと一切甘やかさない。一人の人間として、プロフェッショナルとして、厳しくも筋の通った指導を徹底しているのだ。
その日の午後、トラブルは突然起きた。
部署で扱う重要な契約書に、どうしても今日中に静流の直接の押印が必要になったのだ。しかし、静流はその日、午後から「家庭の事情」でテレワークに切り替えて自宅に戻っていた。
「ハル君、悪いけどこれ、静流さんの自宅まで届けてもらえる? 電車で三駅だから」
「わかりました。すぐに向かいます」
先輩に頼まれ、ハルは急いで静流の自宅マンションへと向かった。
インターホンを鳴らすと、少ししてドアが開いた。
「はい。……あら、あなたがハル君ね。静流からいつも話を聞いているわ」
出迎えたのは、静流ではなく、柔らかな微笑みを浮かべた見知らぬ女性だった。
「初めまして。パートナーの小夜です。静流は今、本社とのオンライン会議中で……立ち話もなんだから、中へ入って待っていて」
「あ、いえ! 書類をお渡しするだけなので……」
遠慮するハルだったが、小夜の「少しだけだから」という優しい押しに負け、玄関を上がることになった。
リビングに通されたハルは、お茶を出してくれた小夜の姿を明るい部屋で見て、息を呑んだ。
彼女の髪は、その半分以上が真っ白な「白濁」に染まりきっていたのだ。
彼女は生まれつき魔力の器が小さく、すでに命の砂時計が最後の数粒にまで減り、死期を迎えようとしているのは明白だった。
(……まさか)
ハルの背中に、冷たい汗が流れる。
仕事に対して誰よりも厳格な静流が、今日に限って急にテレワークにしたこと。そして、自分が書類を届けることになった状況。
もしかして、静流先輩はパートナーの命を救うために、意図的に自分をこの家に呼び寄せたのだろうか。
「男」を自宅に招く。その行為が意味するものを考え、ハルの心に一気に緊張が走る。
けれど、ハルは誰に請われようと安易に身を捧げるような、節操のない人間ではなかった。
美月や八重を救ったのは、彼女たちを心から大切に思い、生きてほしいと強く願ったからだ。もし、静流が自分を単なる「治療の道具」として利用しようとしているのだとしたら、ハルはそれを拒絶するだろう。
「静流先輩は、そんな不条理なことをする人ではないはずだ」
そう信じたい自分と、小夜の髪の「白濁」が突きつける死の現実に、ハルはどう振る舞えばいいのかわからず、小さく身構えた。
「会議、長引いちゃってごめんなさい。……って、小夜。ハル君になんてことさせてるの」
振り返ると、仕事用のブラウスを着た静流が呆れたような顔で立っていた。
視線の先には、小夜に手伝わされて、なぜかエプロン姿でお皿を運んでいるハルの姿があった。
「だって、ちょうどお昼時だったから。わざわざ遠くまでお使いに来てくれたんだもの、お昼くらいご馳走してあげないと」
「……仕事中よ、彼は」
「いいじゃない。ねえハル君、食べていけるわよね?」
小夜の穏やかな笑顔と、それに毒気を抜かれて小さくため息をつく静流。
「……午後一の会議は終わったわ。一時間だけ休憩にしてあげるから、食べていきなさい」
ハルは、おそるおそる食卓についた。
何を言われるのか。どんな話を切り出されるのか。新社会人らしい緊張を張り詰めさせていたハルだったが、その予感は再び、心地よく裏切られることになる。
「美味しい……!」
「ふふ、よかった。具現化の魔法に頼るより、自分で出汁をとった方が美味しいのよ」
食卓に並んだのは、小夜が丁寧に時間をかけて手作りした温かい料理だった。
会話は終始、仕事のことで終始した。新しい職場でのハルの失敗談を静流がいつも通り厳しく、しかしどこか温かく笑い飛ばし、小夜がそれをなだめる。
そこには、魔力や死の気配を感じさせるような重苦しい空気は一切なく、ただただ純粋な「温かい日常」の時間が流れていた。
ハルを試すような視線も、哀願するような言葉も、静流からも小夜からも、ただの一度も発せられなかった。
食事が終わると、静流はハルから受け取った書類に手際よく印を押し、
「これで完了よ。残りの仕事も、サボらずにしっかりやるのよ」
と、いつもと変わらないオフィスでの上司の顔で、ハルをあっさりと玄関で見送った。
帰り道、ハルは自分の邪推が恥ずかしくなると同時に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
(本当に……ただの、温かい歓迎だったんだな)
新人の自分を気遣ってくれた先輩の優しさに感謝しつつも、あの小夜の白濁した髪だけが、静かにハルの心に引っかかっていた。
それから、一週間後。
週明けの朝礼で、室長から静流が【忌引き休暇】をとることが伝えられた。
パートナーの、小夜が亡くなったのだという。
ハルは自分のデスクで、頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けていた。
あの日、彼女たちはすでに小夜の死期が数日後に迫っていることを、間違いなく悟っていたはずだ。そして、大切な最期の時間の中に、自分という後輩を迎え、手料理を振る舞ってくれた。
ハルという「男」が目の前にいた。
生き延びたいという本能や欲望に従えば、手段を選ばずにハルに縋りつくことだってできたはずだった。
それでも彼女たちは、愛し合った女性同士のパートナーとしての【純潔】と、一人の人間としての【尊厳】を最後まで守り抜いたのだ。
自分の命惜しさに、後輩を都合の良い道具として利用するような真似は、決してしなかった。
「……先輩」
誰もいない給湯室で、ハルは堪えきれずに目元を拭った。
死の恐怖すらも超えて、ただ一人の相手を愛し抜き、どこまでも人間らしく、気高く散っていった女性の姿。
ハルは悲しみと共に、静流と小夜という二人の女性の誇り高さに、心からの哀悼と深い敬意を捧げるのだった。
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