本当の聖母
極限の飢餓と恐怖の中、麗華の美しい金髪はもはや見る影もなく、完全な「白濁」に染まりきっていた。
孤立無援の冷たい部屋。日々の食事すら具現化できなくなってきた彼女は、ついにある決断を下す。
一か八かのギャンブル――自身の魔力を削り切って行う、「子どもの具現化」だ。
それが成功すれば魔力は大きく回復する。だが、残量が足りなければ死ぬ。残酷なほどシンプルな世界の理だった。
「お願い……生きて、私を、救って……っ」
床に這いつくばり、最後の命の滴を振り絞って、麗華は祈るように魔法陣を描いた。
淡い光の粒子が集まり、宙に小さな赤子の輪郭を形作っていく。だが、光が脈打ったのはほんの数秒のことだった。
ピキリ、と。麗華の体内で、決定的な何かが割れる音がした。
「あ……」
魔力が、完全に尽きた。
具現化しかけた小さな命は、産声を上げることもなく光の塵となってふっと掻き消えた。同時に、麗華の心臓が不規則な痙攣を起こし、急速に体温が失われていく。
(ああ……終わるのね。誰からも愛されず、ひとりぼっちで……)
暗闇に沈みゆく意識の中。
死を待つばかりの冷たい身体が、ふわりと、何者かによって優しく抱き上げられた。
「……ハル……?」
目を開いて驚く力すら、もはや残っていなかった。
霞む視界の先にいたのは、自分から逃げ出し、自分が憎み、執着し、それでも世界で一番愛していた青年の顔だった。女性社会から完全に孤立し、狂気の果てに死にかけている麗華の現状を知り、彼はたった一人でこの部屋へ足を踏み入れたのだ。
ハルは、腕の中の麗華の身体の薄さに息を呑んだ。
信じられないほど軽かった。かつて絶対的な権力と魔力を誇り、世界を統べていた女王の身体は、魔力を使い果たし、ただの枯れ枝のように脆く、冷たくなっていた。
「……どう、して」
ひび割れた唇から、かすれ声が漏れる。
「私は、あなたを道具として扱った……私欲のために育てて、最後には、あなたのすべてを壊そうとした、最低の女なのに……」
「喋らなくていいです。魔力が、命が散ってしまう」
ハルは、かつての絶対者を、まるで傷ついた小さな子どもを扱うようにそっと胸に抱き寄せた。
「なぜここに来たのか。……あなたには、私欲があったかもしれない。権力への執着で、俺を独占しようとしていたこともわかってます」
ハルの声には、怒りも、軽蔑もなかった。ただ、深く静かな慈愛だけが響いていた。
「でも、俺が熱を出して泣いた夜、あなたは朝までずっと手を握っていてくれた。俺が悪いことをした時は、自分のことのように本気で叱ってくれた。時に厳しく、時に優しく……俺に、本当の『母の愛』を教えてくれたのは、他でもない麗華さんだ」
ぽつり、と。
ハルの目からこぼれた涙が、麗華の冷たい頬を濡らした。
「俺は、俺に愛を教えてくれた人を、どうしても見捨てられなかった」
その言葉が、麗華の胸の奥底で凍りついていた「病み」の呪いを、決定的に打ち砕いた。
自分が打算とエゴで注いでいたと思っていた愛情。その中にも、確かに純粋な温もりが混じっていたことを、この青年はずっと覚えていてくれた。自分の醜さも罪もすべて知った上で、それでも「あなたを助けたい」と泣いてくれている。
「ああ……あああ……っ」
枯れ果てていたはずの麗華の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。
後悔と、懺悔。そして何より、彼が自分を一人の人間として赦し、見つけてくれたことへの救済の涙だった。
ハルは、泣き咽ぶ麗華の身体を静かにベッドへと横たえ、自らの服を脱いだ。
魔法でも奇跡でもない。魔力を持たないただの普通の青年が、過ちを犯した一人の女性に命の熱を注ぎ込み、その絶望を終わらせるための、神聖で静かな夜だった。
それから、数ヶ月後。
世界共通の共済システム【揺籠】の施設内に、一人の女性職員の姿があった。
かつて誰もが平伏した豪奢なドレスや宝石は、身につけていない。支給された質素なエプロンを身に纏い、施設の廊下をモップで丁寧に磨き上げているその女性――麗華の髪は、あの死の淵の白濁が嘘のように、艶やかな黄金色を取り戻していた。
「麗華さん、そこのお掃除終わったら、子どもたちの絵本の時間、お願いできますか?」
「ええ、喜んで」
若い職員からの声かけに、麗華は穏やかな、嘘偽りのない微笑みで答えた。
彼女は、揺籠の幹部としての地位も、私利私欲で具現化した富もすべて揺籠に返した。
ハルに救われたあの日、彼女は自ら監査委員会にすべての罪を告白したのだ。そうして「一からの出直し」を自ら申し出て、揺籠の一般職員として、子どもたちの世話をする仕事に就くことを許された。
「……元気に育ってね。私と、あの人の大切な子ども」
誰もいない廊下で、麗華はふと手を止め、少しだけふっくらと膨らみ始めた自分のお腹を愛おしそうに撫でた。
彼女の内側には今、ハルが命がけで繋いでくれた「奇跡」が確かに息づいている。
彼女はもう、権力も、他人を見下す優越感も必要としていなかった。ただ、彼から貰ったこの命を大切に慈しみ、揺籠の子どもたちに本当の愛を注ぎながら、一人の平凡な女性として「初心」に帰り、生きていく。
窓から差し込む陽光に照らされた麗華の横顔は、かつての傲慢な絶対者ではなく、真の「聖母」のように、どこまでも清らかで美しかった。
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