この世界で最も重い罰
この世界において、「魔力」という概念は、ゲームのステータス画面のように明確な数値として視覚化されているわけではない。
それは極めて生理的で、曖昧な、本人にしかわからない「感覚」でしかない。
例えるなら、それは「満腹感」や「空腹感」に似ている。
「お腹がいっぱいだから、もうこれ以上は食べられない」「うーん、少し小腹が空いたな」。人間が自身の胃袋の限界をその程度の解像度でしか把握できないように、女性たちも自身の魔力の残量を「なんとなく、これくらい」としか感じ取ることができないのだ。
だからこそ、魔法を使うことは常に命を賭けたロシアンルーレットとなる。
例えば、今月どうしても生活費が苦しいからと、軽い気持ちで「十万円の現金」を具現化しようとしたとする。ある女性にとってはそれが「食後のデザート」程度の消費で済むかもしれないが、別の女性にとっては限界を超えた消費となり、十万円が空中に現れた瞬間に心臓が停止して死ぬかもしれない。
フードファイターが常人離れした量を平然と胃袋に収める一方で、少食の人間が驚くほど少しの量しか食べられないのと同じだ。魔力の最大値と消費の感覚は、完全に個人の素質によって異なる。
さらに残酷なのは、満腹までご飯を食べても時間が経てば自然に空腹になるように、何もしなくても魔力は勝手に目減りしていくという法則だ。
唯一の救済は、数少ない「男」との交わりによる受精か、莫大な魔力を前払いして行う「子の具現化」という死のギャンブルのみ。
ゆえに、この世界における一般的な常識と倫理を持つ女性たちは、極力魔法を使わず、魔力の消費をコントロールして、それぞれ仕事につき、その対価を得て、それでもって生活するのが「普通」なのだ。
希少な社会資源である男を独占して己のだけの物とし、そのことによって得られる魔力をひけらかし、私欲のために魔法を乱用する者は、同性社会から「強欲なサイコパス」として忌み嫌われ、激しく軽蔑される。
かつて揺籠の最高幹部として君臨していた麗華は今、その女性社会における最悪の罰――を受けていた。
***
カタン、と。
誰もいない豪奢なダイニングルームに、銀のフォークが皿に当たる虚しい音が響いた。
テーブルの上に並べられているのは、一流シェフが作ったような極上のフレンチのフルコースだ。しかし、それを前にした麗華の頬はげっそりとこけ、その瞳には血走った狂気が宿っていた。
ハルに対する過度な執着と独占、そして暴走が監査委員会に露見したあの日。
幹部の座を追われた彼女には具体的な罰則は何も下されなかった。下されたのは、物理的な投獄ではなく、女性コミュニティ全体からの問わず語りの社会的な抹殺だった。
誰も彼女と口を利かない。
街を歩いても、全員が彼女を「透明な空気」として扱う。
スーパーのレジに商品を置いても店員は目を合わせず、金を受け取ることすら拒絶する。インフラの契約も打ち切られ、水の一滴、パンの一切れすら、他者から買うことも譲り受けることもできなくなった。
それはすなわち、生きるための食事から、雨風を凌ぐ環境の維持に至るまで、日常生活のすべてを「自身の魔力による具現化」だけで成立させなければならないという、緩やかな死刑宣告だった。
「……こんなもの。私には、ハルが何年も注いでくれた無尽蔵の魔力があるのよ。下等な女たちの助けなんて、最初から必要ないわ……っ」
麗華は震える手でフォークを握り、具現化させた高級な肉を口に運んだ。
味は完璧だ。しかし、喉を通るたびに、得体の知れない恐怖が胃の奥から這い上がってくる。
(今の一口で、私の寿命は何秒縮んだ?)
(この部屋の空調を維持するために、何ミリリットルの命が減っている?)
わからない。
正確な魔力の総量は、誰にも測れないのだ。
いくら自分が「まだまだ余裕がある(満腹だ)」と思っていても、思っていたより減っていて、ある時突然死ぬかもしれない。その見えない砂時計の恐怖が、24時間、絶え間なく彼女の精神を削り落としていた。
「ああ……ああああっ!」
麗華は突然、テーブルの上のフルコースを両腕でめちゃくちゃに薙ぎ払った。
ガシャアン! と音を立てて、具現化された幻の皿やグラスが床に散乱し、光の粒子となって消えていく。
彼女の莫大な魔力を使えば、自分を無視する街の女たちを洗脳し、言いなりにさせて奴隷のように扱うこともできる。
しかし、洗脳という高度な魔法を維持するためには、食事を具現化する以上の莫大な魔力を【持続的】に消費し続けなければならない。そんなことをすれば、あっという間に自分の命が尽きてしまう。
彼女が欲しいのは、一時的な奴隷ではない。
自分の命の砂時計を永遠に満たし、この狂おしい恐怖から救い出してくれる「絶対的な存在」だ。
「ハル……ハル……っ」
血のにじむような声で、彼女はただ一人の男の名を呼んだ。
魔力で女を操ることはできても、彼女が世界で一番操りたい、言いなりにさせたい男には、自分の万能の魔法が一切通用しない。
結界を張ろうが、魅了の魔法をかけようが、彼はただの幻のようにそれをすり抜けて、別の女の元へと歩いていってしまうのだ。
圧倒的な力を持っているのに、一番欲しいものには絶対に手が届かない。
命を削って魔法を使わなければ生きられず、魔法を使えば使うほど死が近づいてくる。
「私だけを見て……私だけを愛してよ……っ! 私には、私にはもうあなたしか……!」
ガリガリと、麗華は自身の美しい金髪を掻き毟った。
その毛先に、ほんのわずかだが、真っ白な「白濁」が混じり始めていることに、彼女自身はまだ気づいていない。
誰もいない冷たい部屋の中で、元・絶対者の孤独な発狂だけが、虚しく響き渡っていた。
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