もう1人の女《ひと》
第二十の帖:誠実な告白と、途切れたシグナル
「……ええ。喜んで……っ。私を、あなたの奥さんにして……!」
静流の震える声と、腕の中に飛び込んできた確かな温もり。
ハルは、彼女の背中を優しく撫でながら、これ以上ないほどの幸福感に包まれていた。
もう、国の監視に怯える必要はない。堂々と彼女を愛し、共に子供を育てることができる。タアンプ大統領の理不尽な外圧がもたらした、奇跡のようなバグだった。
しかし、ハルの胸の奥には、たった一つだけ、どうしても拭い去れない感情の棘が残っていた。
彼が「影の恋人」として救い出した、あの不器用で寂しげな女性の顔だ。
ハルは、静流の肩からそっと身体を離すと、彼女の真っ直ぐな瞳を見つめ返した。
「静流さん。俺は、あなたにだけは絶対に嘘をつきたくありません。だから、正直に言います」
「……うん。どうしたの、そんな真剣な顔をして」
ハルは一度深く深呼吸をして、言葉を紡いだ。
「週末にデートを重ねていた、雪音さんのことです。俺は最初、彼女の魔力定着率を安定させて命を救うためだけに、あの偽造報告書を書きました。でも……彼女の心に触れて、一緒に太陽の下を歩くうちに、彼女にもう二度と、あの冷たいホテルの密室で絶望してほしくないと思うようになったんです」
静流は、黙ってハルの言葉に耳を傾けている。
「これから国がどうなるか、この『多妻結婚制度』がどんな混乱を生むかはわかりません。でも、もし許されるなら……俺は、彼女のことも見捨てたくない。彼女のことも、きちんと幸せにしたいんです」
それは、大和国の新しい法律から見れば「当然の権利」であり、男としての「義務」でさえある。しかしハルにとっては、愛する静流に対して他の女性を家族に迎え入れたいと乞う、身勝手で残酷な相談だった。
嫌われても仕方がない。軽蔑されるかもしれない。
ハルは拳を強く握りしめ、静流の審判を待った。
しかし、静流の表情は穏やかなままだった。
彼女はふっと小さく微笑むと、ハルの頬にそっと手を伸ばした。
「……本当に、あなたって人はお人好しで、不器用ね」
「静流さん……」
「知ってるわよ。あなたが彼女に向ける優しさが、ただの同情や義務感じゃないことくらい。報告書の裏で、あなたがどれだけ彼女の心を救おうとしていたか、ずっと見てきたんだから」
静流は、ベビーベッドで眠る我が子に優しい視線を向け、再びハルを見た。
「国が『多妻を持て』と騒ぎ立てる前から、あなたはそういう人だった。目の前で傷ついている人を、絶対に放っておけない人。……だから私は、あなたを好きになったの」
「……いいんですか? 俺は、あなたを傷つけているかもしれないのに」
「バカね。私の心がこれだけ満たされているのに、どうして傷つくのよ」
静流は、ハルの鼻先を指で軽く弾いた。
「連れてきなさい。この部屋は、もう隠れ家じゃないんだから。彼女が本当に安らげる場所を、今度は堂々と、一緒に作ってあげましょう」
その深い愛情と理解に、ハルは胸が詰まった。
「ありがとうございます……静流さん。俺、絶対にあなたたちを不幸にしませんから」
***
翌日の昼休み。
ハルは職場の屋上で、弾むような気持ちで支給端末を操作していた。
『雪音さん。突然ですが、良いニュースがあります。もうコソコソ隠れてデートする必要はなくなりました。直接会って、お話ししたいことがあります。今日の夕方、いつもの公園で待っています』
そうメッセージを打ち込み、送信ボタンを押す。
これまでは「心理的ペアリングの事前面会」という名目で、特務機関のシステムをハッキングしてようやく繋いでいた細い糸だ。だが今日からは、堂々と彼女を呼び出し、未来の話ができる。
しかし――。
『エラー:送信先のアカウントが存在しない、または凍結されています』
無機質なシステム音声と共に、画面に赤い警告マークが表示された。
「……え?」
ハルは眉をひそめ、もう一度送信ボタンを押した。
結果は同じだった。
(アカウントが凍結されている? なんでだ。彼女は国の管理下で、特務機関の保護対象になっているはずなのに)
嫌な予感がして、ハルは直接、通話アプリを起動した。
コール音すら鳴らない。「おかけになったIDは、現在使われておりません」という自動音声が、冷たく屋上に響くだけだった。
「どういうことだ……雪音さん?」
ハルは端末を見つめたまま、じわりと背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。
昨日、タアンプ大統領の号令によって「義務法案」が撤廃され、「多妻結婚制度」へと社会のルールが根底からひっくり返ったばかりだ。
その混乱の最中、98%の女性たちは「限られた男」を巡る、これまでとは違う殺伐とした競争に放り込まれている。
もし、雪音のように「特定の男と高い魔力同調率を記録している女性」が、新しい制度の中で何らかの政治的な取引材料にされたとしたら?
あるいは、ステイツの「男の威厳」を信奉する過激なマッチョイズムの信奉者たちが、国のデータにアクセスして彼女を……?
「……まさか」
ハルは屋上のフェンスを強く握りしめた。
太陽の下で笑う雪音の顔が、脳裏をよぎる。
コソコソ隠れていた昨日までのほうが、彼女を守れていたのだとしたら。
「合法」になったこの新しい狂った世界で、雪音の身に何かが起きている。
ハルは踵を返し、屋上のドアを勢いよく開けた。
「静流さん……! 頼む、力を貸してくれ!」
穏やかな幸せを手に入れたはずのハルの日常に、再び不穏な影が忍び寄っていた。途切れたシグナルの先にいる彼女を取り戻すため、ハルは走り出した。
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