帰るべき家
日曜日の夜。
雪音との「白昼のデート」を終え、ハルは指定された自身の居住区の監視網を密かに抜け出し、都内の外れにあるマンションの一室へと身を寄せていた。
「ただいま」
「おかえりなさい、ハル君。……静かにね、やっと寝付いたところだから」
ドアを開けると、薄暗いリビングでパソコンの画面を見つめていた静流が、唇に人差し指を当てて出迎えた。
彼女の視線の先、部屋の隅に置かれたベビーベッドの中では、小さな命が穏やかな寝息を立てている。ハルと静流の間に生まれ、彼女がその手で愛情深く育てている我が子だった。
この国では、出産した子供を国営の『揺り籠』に預けるか、自分自身で育てるかを選択できる。静流は迷わず手元で育てることを選んだ。それ自体は合法だ。
しかし、この部屋には国家システムに対する重大な違反(犯罪)が隠されている。それは男であるハルが、特定の女性の家に通い詰め、家族として同棲しているという事実だ。
「特定の女が男を独占してはならない」というルールがある以上、男がどこかの家庭の「父親」や「夫」の座に収まることは許されない。
それでも静流は、特務機関のオフィス企画部という自身の権限と情報網をフルに悪用し、ハルの位置情報データを偽装。監視システムの死角を縫って、この部屋に誰にも知られない「家族の日常」を作り上げていた。
ハルは上着を脱ぎ、ベビーベッドの横にしゃがみ込んで、我が子の柔らかい頬を愛おしそうに見つめた。
週末は、女性たちを外の世界へ連れ出し、抱き、当たり前の幸福を提供する「影の恋人」。
そして平日は、この秘密の部屋で、静流と共に親として生きる「ただの男」。
それが今のハルの、危うくも確かな二重生活だった。
「ご苦労様。今日の相手……雪音さんだったかしら。事後報告書のデータ、さっき私の端末に同期されたわ」
静流はブルーライトの光に横顔を照らされながら、キーボードを素早く叩く。
「ありがとうございます、先輩。……通りますか?」
「ええ。でもハル君、あなたがでっち上げた『心理的ペアリングのための野外活動費』の申請、さすがにこのままだと特異点としてAIの監査に引っかかるわ。私が他の部署の無関係な経費データの中に分散させて、ダミーの暗号を噛ませておく。あなたの今の『偽装位置情報』と一緒にね。これで来月までは誤魔化せるはずよ」
静流はこともなげに言うが、ハルを独占してかくまい、さらに国の経費データを改ざんする行為は、発覚すれば国家反逆罪に等しい。
ハルが現場で法の穴を突き、静流が裏で帳尻を合わせる。二人はこの狂った世界の中で、システムを欺き続ける「共犯者」だった。
「いつもすみません。俺のわがままに、先輩まで巻き込んで……」
「今さら何を言ってるの。私が好きでやってることよ」
静流はパソコンを閉じると、ふうっと息を吐き、ハルの隣に腰を下ろした。
至近距離に座った瞬間、ハルのシャツから、微かに甘い香水の匂いが漂った。今日一日、雪音と共に過ごした証だ。
静流の瞳が、ほんの一瞬だけ揺れる。
「……楽しかった?」
その声のトーンの変化に気づき、ハルは肩をビクッと跳ねさせた。
「あ、いや、そういうんじゃなくて! 彼女が少しでも人間らしい心を取り戻せるように、ただ真剣に話を聞いて、普通のデートのように振る舞っただけで……!」
慌てて弁解しようとするハルの口を、静流の柔らかい手がそっと塞いだ。
「冗談よ。……ううん、嘘。ほんの少しだけ、妬けるわね。あなたが週末ごとに、別の誰かにその底抜けの優しさを向けていると思うと」
静流は自嘲するように微笑み、眠る我が子の小さな手をそっと握った。
「でも、不思議と不安はないの。私には、あなたと繋いだこの子がいるから」
静流の言葉は本心だった。
かつての彼女なら、愛する男が別の女に優しくすることに耐えられなかったかもしれない。しかし今の彼女には、ハルと共に命を育んでいるという、何よりも揺るぎない確かな絆がある。魔力枯渇の恐怖に怯えることもない、穏やかで満たされた心。
そして何より、静流は誰よりも深く理解していた。ハルが他の女性たちを抱き、デートをするのは、決して快楽や浮気心からではない。彼が自分の心を削りながら、システムにすり潰されそうになっている命と尊厳を一つ一つ掬い上げていることを。
かつて、ハルが静流自身の心を救ってくれたように。
「あなたは、そういう人だもの。法の上では誰の所有物にもなれないけれど……誰よりも誠実で、優しい。だから私は、あなたを信じてる。あなたが救いたいと思う人たちを、私も一緒に守るわ」
「静流……」
ハルは、静流のその気高さと深い愛情に胸を打たれ、彼女の肩をそっと抱き寄せた。
静流もまた、ハルの肩にゆっくりと頭を預ける。
「でも、忘れないでね」
静流は目を閉じ、ハルの温もりを確かめるように呟いた。
「あなたが外の世界で誰とどれだけ『恋人』を演じても……あなたが帰ってくる本当の場所は、私とこの子のいるここだけよ」
「もちろんです。俺の日常は、ここにしかありませんから」
窓の外では、無機質なディストピアの夜景が冷たく輝いている。
狂った法律も、恐ろしい監視網も、この部屋の温もりを奪うことはできない。
ハルと静流は、小さな命の寝息をBGMに、静かな戦いを続けるための鋭気を養うように、ただ深く、互いの存在を抱きしめ合っていた。
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