人としての尊厳
「……おはようございます、ハル君」
会社のフロアに入ると、いつも通り完璧なメイクと笑顔を作った先輩社員が声をかけてきた。
その瞳の奥に、隠しきれない怯えと、祈るような切実さが揺れているのを、ハルは見逃さない。
「おはようございます、美月先輩」
ハルは、微かに声のトーンを落として穏やかに微笑み返した。
ハルは今度、近所の事業所への異動が決まっていた。そのため連日、今の職場で自分の業務を引き継ぐ作業に追われている。美月は、ハルが新人の頃から隣の席で二人三脚で業務をサポートしてくれた恩人であり、頼れる戦友だった。
どんなトラブルも涼しい顔で処理し、後輩のミスもさりげなくカバーする。彼女は誰もが憧れる、完璧な大人の女性だ。
だからこそ、彼女は誰にも言えなかったのだ。
自分の命の砂時計が、最後の数粒にまで減ってしまっていることを。
その日の夜。
終業時刻をとっくに過ぎ、静まり返ったオフィスには、ハルと美月の二人だけが残っていた。
「ハル君、この顧客データの移行手順だけど、ここのシステム照合が少し複雑でね」
モニターの青白い光に照らされながら、美月は丁寧に説明を続ける。しかし、ハルの視線は画面ではなく、彼女の横顔に釘付けになっていた。
タイピングをする彼女の指先が、微かに、しかし確かに震えている。そして、耳元で揺れる艶やかな黒髪に、命の枯渇を示すあの残酷なサイン――「白濁」がいくつも混じり始めている。
「先輩……少し休憩しませんか。顔色、悪いです」
「大丈夫よ。あなたが安心して新しい部署に行けるように、今日中にこの引き継ぎだけは完璧に終わらせておきたいの」
美月は気丈に微笑み、再びキーボードに向かおうとした。
その時だった。
「あっ……」
美月の手がガクリと落ち、マウスを床に落とした。
同時に、彼女の細い身体が糸の切れた操り人形のように傾く。ハルは咄嗟に立ち上がり、床に崩れ落ちそうになった彼女の肩を強く抱き留めた。
「先輩!」
「ごめんなさい……ちょっと、目眩が……」
ハルの腕の中で、美月の身体は氷のように冷え切っていた。呼吸も浅く、命の灯火が今にも消えようとしているのは誰の目にも明らかだった。
「……システムのエラー、ですよね」
ハルは、震える声で呟いた。
「先月から続いていた、うちの部署の大規模なシステム障害。室長は『自然に復旧した』と言っていましたが、違った。先輩が……自分の魔力を使って、誰にも気づかれないようにデータを繋ぎ止めていたんだ」
美月は、はっと息を呑み、力なく目を伏せた。
会社やチームの深刻なミスをカバーするため、彼女は自らの命を削っていたのだ。それが、この世界においてどれほど絶望的な行為かを知りながら。
「離して、ハル君……」
美月は、冷え切った両腕でハルの胸を押し返そうとした。しかし、抵抗する力など全く入っていない。
「もう魔力が限界なら、どうして俺に……誰かに言わなかったんですか!」
「言えるわけ、ないじゃない……!」
静かなオフィスに、美月の悲痛な声が響いた。
彼女の目から、隠し続けてきた大粒の涙が溢れ出す。
「私だって、死ぬのは怖い……! あなたが隣で笑うたびに、押し倒してしまいたい衝動に何度も駆られたわ……! でも、そんなの……私が私じゃなくなってしまう。私は最後まで、あなたの頼れる先輩でいたかった。自分の命惜しさに浅ましい獣にはなりたくなかったのよ……!」
それは、プロフェッショナルとしての意地と、一人の人間としての強烈な尊厳の叫びだった。
ハルは、美月の頬を伝う冷たい涙を親指でそっと拭い、その崩れ落ちそうな身体をしっかりと抱きしめ直した。
「先輩は、獣なんかじゃない。誰よりも責任感が強くて、優しくて……俺が一番、尊敬している女性です」
「ハル、くん……?」
「俺の引き継ぎは、業務だけじゃない。先輩が一人で抱え込んでいたその命の重さも、俺に引き継がせてください」
ハルのまっすぐな言葉に、美月の瞳が大きく揺れた。
社会に出たばかりの、まだ未熟だと思っていた後輩の青年。彼が見せた大人の男としての覚悟が、尊厳の鎧で覆われ、凍りついていた彼女の心を温かく溶かしていく。
「……馬鹿ね。後輩の分際で、先輩にそんな口を利くなんて」
「生意気で、すみません」
美月は泣き笑いのような表情を浮かべ、ハルの背中にそっと、すがるように腕を回した。
夜のオフィスで、誰にも知られることなく。二人は上司と部下という仮面を外し、命を繋ぐための静かで神聖な夜を迎えた。
***
数日後。
ハルは、新しい事業所への初出勤の朝を迎えていた。
前の職場で引き継ぎを終えた日、美月の髪から白濁は完全に消え去っていた。
彼女は、内側から発光するような、今までで一番美しい笑顔で「いってらっしゃい」とハルを見送ってくれた。新しい命が宿った彼女は、もう死の恐怖に怯えることなく、これからもあの職場で誇り高く生きていくだろう。
一つの命を救った。一人の女性の人生を背負った。
その覚悟の重さを静かに噛み締めながら、ハルは自宅である古びたアパートの扉を開ける。
この狂った世界で、ただの平凡な青年である自分にできること。
ハルはネクタイを締め直し、新しい職場へ静かに歩き出した。
お読みいただきありがとうございました。
もし「面白かった!」「続きが読みたい!」と思っていただけましたら、ページ下部にある【ブックマークに追加】や、【☆☆☆☆☆】の評価を押して応援していただけると、今後の執筆の何よりの励みになります!
次回もどうぞよろしくお願いいたします。




