法あれば対策あり
月曜日の朝、アラームの音が鳴り響いても、ハルは自室のベッドから身を起こすことができなかった。
具合が悪いわけではない。ただ、指一本動かす気力が湧かなかった。胸の奥がぽっかりと空洞になり、そこから冷たい風が吹き込んでいるかのように、心が死んでしまった感覚だった。
一瞬でも心と体を重ね、お互いの愛を確かめ合ったはずの女性と、翌朝には他人として別れ、二度と会うことも許されない。
「心を大切にする」と覚悟を決めて臨んだはずの義務が、皮肉にも、ハルの心を最も深く傷つけていた。消費されていく虚しさが、泥のように全身にまとわりついて離れなかった。
時計の針が始業時刻に近づく。ハルは震える手でスマホを取り出し、職場へ電話をかけた。
コール音が数回鳴った後、出たのは静流だった。
『はい、オフィス企画部です』
「……静流先輩、ハルです。すみません、今日……」
『ハル君? どうしたの、声が変よ』
いつもの冷静な、けれどハルを気遣う静流の声を聞いた瞬間、喉の奥が詰まった。
「……どうしても、今日、会社に行けそうにありません。申し訳ありません」
理由を上手く取り繕う頭も回らなかった。ただ「行けない」とだけ告げたハルに、静流は一瞬の沈黙の後、すべてを察したように静かに返した。
『分かったわ。有給扱いにしておくから、今日はゆっくり休んで。仕事のことは気にしなくていいから』
ブツリと通話が切れた後、ハルはスマホをベッドに放り出し、再び深い泥のような眠りへと落ちていった。うとうとと、ただ時間の感覚だけが消えていく。
どのくらい時間が経っただろうか。
――ピンポーン。
静まり返った部屋に、インターホンの電子音が鳴り響いた。
ハルは重い身体を引きずり、玄関のドアを開けた。そこに立っていたのは、コート姿の静流だった。手にはコンビニの袋を提げている。
「静流、先輩……どうして」
「顔色が最悪ね。……大丈夫?」
その真っ直ぐな瞳に見つめられた瞬間、ハルの中で張り詰めていた何かが、音を立てて弾け飛んだ。
ハルは言葉を返す代わりに、静流の身体にすがりつくように抱きつき、その胸に顔を埋めて子供のように声をあげて泣き出した。
静流は驚いたように一瞬身体を硬くしたが、すぐにすべてを受け入れるように、ハルの背中に優しく手を回した。何も聞かず、ただハルが泣き止むまで、静かにその震えを抱きしめ続けた。
リビングのソファに座り、ハルは先週末に起きた「初めての義務」のことを、隠さず正直に静流に話した。
部屋に入ってきた女性が怯えていたこと。機械のようになろうとしていたこと。話し合ううちに心を通わせ、最後は温もりを分け合って別れたこと。そして、もう二度と会えないこと。
「……無理です、先輩。こんなことを毎週、違う相手と続けるなんて、僕には耐えられない」
ハルは自分の両手を見つめ、絶望を吐き出した。
「いっそ……あの白い部屋の男たちみたいに、薬で強制的に勃起させられて、自我を失ったまま行為をさせられる方が、まだマシです。心があるから、こんなに苦しいんだ……!」
ハルの悲痛な叫びが、静かな部屋に響く。
その時、静流がハルの両頬を強い力で包み込み、自分の方を向かせた。彼女の瞳には、怒りと、それ以上の深い悲しみが宿っていた。
「ハル君、二度とそんなこと言わないで」
静流の声は震えていたが、確かな芯があった。
「私と、あなたとの子供を置いて……そんな風に自分を諦めるなんて、私のわがままだけど、嫌だわ」
ハッとして、ハルは目を見開いた。
静流の言葉が、冷え切っていたハルの心臓にドクンと熱を吹き込む。
そうだ。自分には、守るべき日常がある。この世界で、自分が人間として心を通わせ、命を繋いだ静流という女性がいて、その間には新しい命が育まれているのだ。自分がここで心を殺して「機械」になってしまえば、彼女たちとの大切な絆まで失ってしまう。
「……ごめんなさい、先輩。俺、どうかしてました」
「……あなたは優しすぎるの。だから、相手の絶望まで全部一人で背負い込んじゃう」
静流はふっと表情を和らげ、ハルの額に自分の額をそっと合わせた。
「世界は残酷で、あの人権を無視した法案を、私たち個人の力でなくすことは無理かもしれない。でもね、ハル君。国が定めたやり方そのものを変えることはできなくても、『現場での形』を少しずつ、心を大切にする方向に変えていく余地はあるんじゃないかしら」
「形を、変える……?」
ハルの脳裏に、事務的に送られてきたあの「業務命令書」が浮かぶ。
国家は、ただ効率的に男の種を採取し、女の魔力を回復させること、人口を増やすことしか考えていない。だからこそ、その運用の隙間に、人間としての「心」を介在させるシステムを作ることはできないだろうか。
特務機関や国の上層部に対して「感情のケアを伴う運用のほうが、結果的に魔力の回復効率が良い」というデータを突きつけ、法案の運用ガイドラインを書き換えることができるかもしれない。
「今はどうすれば良いかわからないけど……やってみようと思います」
ハルは、静流の手をしっかりと握り返した。
世界を壊すことはできない。滅びゆく未来を止めることも、2%の男の運命を変えることもできない。
けれど、法という冷たい檻の中で、これから出会う女性たちと、そして自分自身の「心」を少しでも守るために。
ハルの瞳に、絶望ではない、静かで現実的な「灯火」が再び宿り始めた。




