初めての義務
指定された都内の高級ホテルの一室。
ハルが重い扉を開けると、そこには無機質な静寂と、ベッドの端に背筋を伸ばして座る一人の女性がいた。
年齢はハルと同じくらいだろうか。整った顔立ちには一切の感情が浮かんでいない。彼女はハルの姿を認めるなり、立ち上がり、事務的な手つきで自らのブラウスのボタンを外し始めた。
「早く終わらせてください。これは義務ですから」
冷たく、乾いた声だった。彼女の白い肌が露わになっても、そこに情欲や色気は微塵もなく、ただ「処理」を待つ機械のような虚無感だけが漂っていた。
ハルは小さく息を吐き、自分が着ていた上着を脱ぐと、彼女の華奢な肩にそっと羽織らせた。
「……何をするんですか」
彼女が初めて、微かな戸惑いを顔に浮かべた。
「部屋が、少し冷えますから」
ハルは温厚な笑みを浮かべ、部屋に備え付けられていたティーバッグで温かいお茶を二つ淹れた。一つを彼女の前に置き、自分は少し離れたソファに腰を下ろす。
「すぐに行為には移りません。もしよければ、少しお話ししませんか。あなたがこれまで、どんなふうに生きてきたのか。これから、どう生きていきたいのか」
彼女は信じられないものを見るようにハルを見た。
「なぜ、そんなことを聞くんですか? 意味がありません。私は義務を果たすためにここに来ました。受精し、子が産まれても、自分で育てる気はありません。すべて国営の『揺籠』に任せて、すぐに自分の仕事に戻ります。……そういう法律でしょう?」
まくしたてる彼女の言葉は、ハルに向けるというより、自分自身に言い聞かせるような響きだった。
ハルは彼女の言葉を否定せず、ただ静かに頷いた。
「ええ、そうですね。でも、僕たちは機械じゃありません。今日ここで交わるなら、せめてあなたの心を知りたい。……僕自身も、ただの『種』としてあなたに触れたくはないんです」
ハルは、自分がどんな職場で働き、どんなふうに不器用な日々を送っているか、ぽつりぽつりと話し始めた。同僚の淹れてくれるコーヒーが好きなこと。地方出張でひどい目に遭ったこと。自分の情けなさや、この世界に対するささやかな願い。
彼の声は、どこまでも穏やかで、嘘がなかった。
相手をコントロールしようとしない、底抜けのお人好し。そんなハルの言葉に耳を傾けるうち、女性の強張っていた肩の力が、少しずつ抜けていくのがわかった。
「……あなたは、本当に変わった人ね。国の資料には、そんなこと一言も書いていなかった」
彼女は渡されたお茶を両手で包み込むように持ち、初めて小さく笑った。
そして、ゆっくりと自分のことを話し始めた。仕事で責任ある立場にいること。魔力枯渇のサインが出始めた時、絶望よりも先に「まだやり残した仕事があるのに」と悔しかったこと。
いつしか、二人の間には、国が定めた「義務」とは全く違う、穏やかな時間が流れていた。
ふいに、彼女がティーカップを置き、ハルの隣へと座り直した。
そして、彼女の方からそっと、ハルの唇に自分の唇を重ねた。
「……本当は、死ぬのがとても怖かった」
唇を離した彼女の瞳からは、大粒の涙が溢れていた。
「でも、それ以上に……感情のない機械みたいに、ただ生き延びるためだけに行為をするのは、もっと嫌だった。自分の尊厳が、全部壊されてしまう気がして」
彼女はハルの胸に額を押し当て、子供のように泣きじゃくった。ハルは何も言わず、その震える背中を優しく撫で続けた。
「……でも、あなたとだったら」
涙に濡れた顔を上げ、彼女はハルを真っ直ぐに見つめた。
「あなたとなら、いいかなって思う。私を、抱いてください」
それは義務ではなく、一人の女性としての願いだった。
その夜、二人は互いの温もりを確かめ合うように、静かに、そして深く交わった。
そこに暴力的な支配や、機械的な冷たさは一切なかった。ハルは彼女の尊厳を何よりも大切に扱い、彼女もまた、ハルの優しさに全身で応えた。
翌朝。
朝日に照らされた部屋で、二人は穏やかな顔で身支度を整えていた。
「ありがとう。私、あなたに会えてよかった」
「僕もです。……どうか、元気で」
微笑み合い、ホテルの前で別々の方向へと歩き出す。
振り返ることは許されない。国のシステムが、特定の男女の継続的な関係を禁じているからだ。
彼女の心がどれほど救われたとしても。ハルがどれほど彼女の痛みに寄り添ったとしても。
二人はもう、二度と会うことはない。
朝の冷たい空気を吸い込みながら、ハルは立ち止まった。
胸の奥を満たしているのは、一人の人間を救えたという達成感よりも、決して交わることのない平行線を歩み続けるしかないという、どうしようもない虚しさだった。
ハルは、自分の手のひらに残る微かな彼女の感触を確かめ、ただ一人、灰色の街を歩き始めた。
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