滅びへの日常
地方出張から戻った翌朝。ハルは、心身にまとわりついていた港町の潮風と、あの異様な熱気を洗い流すように、冷たいシャワーを浴びて出社した。
重役室に呼ばれたハルは、出張を命じた上司に顛末を説明し、職務を遂行できなかった事について形だけ頭をさげた。
上司はそれこみでハルを地方に出張させ、あわよくば太客になってもらおうという思惑があったが、面だってはそんな事は言えず、ハルを労って、この事は先方にも抗議しておくからと、ハルを重役室から解放した。
オフィスに入ると、いつものように静流が書類を整理している。
「お帰りなさい、ハル君。……少し、顔色が悪いわね」
静流は、ハルが何かを隠していることを、鋭い洞察力で見抜いていた。ハルは「少々、地元の……おもてなしが激しすぎまして」と苦笑いで濁す。彼女はそれ以上問い詰めることはせず、ただ静かにコーヒーカップを差し出した。
「淹れたてよ」
その温もりに触れた瞬間、ハルは昨夜の港町での出来事を思い出した。「町の宝」として貪り食われそうになったあの場所と、今、こうして静かに仕事ができるこの場所。同じ世界にいながら、これほどの落差がある。
(自分ごときに世界を救う力なんてない。滅びの時計は止まらない。……それなのに、なぜ自分は、こんなにもこの『日常』を守りたいんだろう)
ハルは、自分が抱く無力感を噛み締めた。
世界を根本から変えるような大きな力は持っていない。自分の身体は、法の上では「誰の所有物にもなれない」という制約の中で、システムに利用されるだけの存在に過ぎない。
だが、あの夜、あの田舎町で全力で逃げ出した時、ハルは悟ったのだ。
自分の尊厳を、そして誰かとの誠実な関係を守り抜くこと。それこそが、この滅びゆく世界で彼が成し遂げられる、唯一の「戦い」なのだと。
「……静流先輩」
「ん?」
「いえ、なんでもありません。コーヒー、とても美味しいです」
ハルは、カップ越しに広がる静流の柔らかな微笑みを見た。
この先、世界がどうなろうと、今日この瞬間の静流の穏やかな表情を守るために、自分はここにいる。システムがどれほど強大でも、自分という小さな存在が、誰か一人に対して誠実であり続ける限り、世界は完全に壊れてしまったわけではないはずだ。
「さあ、仕事に戻りましょう。溜まっている案件、今日中に片付けないと」
ハルは気持ちを切り替え、キーボードに指を置いた。
世界を変えることは不可能かもしれない。けれど、このひび割れたコップのような世界の隅っこで、一杯のコーヒーを美味しいと思える時間を維持すること。
それは、滅亡の物語において、ハルが選んだ、あまりにささやかで、それでも誰にも奪えない唯一の「幸福」という名の抵抗だった。
ハルは、明日もまたオフィスに来るだろう。
この狂った日常を、一日でも長く繋ぎ止めるために。
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