逃走
「いやあ、ハルさん! うちの町へようこそ! 都会からわざわざ来てくれたんやから、今夜はとことん飲み明かして、仲良くしていこやないか!」
ハルは会社に命じられて、とある地方都市に来ていた。
顧客である地元の有力者・大前は、顔を真っ赤にしてハルの肩を叩いた。二泊三日の地方出張。その初日の夜、ハルは料亭の広い個室に連れ込まれていた。目の前に高級な酒とご馳走が並ぶ。
「大前さん、お気遣いありがとうございます。ですが明日も朝から説明会がありますので……」
「固いこと言うなや! この町じゃあ、遠くから来た客人を手厚うもてなすんが一番の徳なんよ。遠慮せんと!」
そうこうしているうちに大前が『パンパン』と手を叩くと鳴らすと、地元の女性たちが現れ、ハルを囲んだ。
「あらーっ、ほんまに男やわ!」「都会の男ってどんな感じなん?」「この町には男はみんなの共有財産なんよ。サービスするさかいな、あんた今日は寝かせへんで?」
ハルは背筋が凍った。彼女たちが口にするのは、愛ではなく「生存のための配分」だ。この町では、男は「誰の所有物にもなってはならない」という国家のルールを逆手に取り、町全体で男を消費する「共有財産」として扱っていた。
(ここで争えば、この町の人々との関係が壊れる。でも、これを受け入れれば自分はただの家畜になる……)
ハルは、自分がどんなに抗おうとも、この狂ったシステムという巨大な壁の前ではちっぽけな存在に過ぎないことを痛感していた。誰も傷つけず、誰にも所有されず、ただ静かに日常を維持したいと願う自分の願いが、どれほど贅沢なものか。
「さあ、まずはうちから、あとは順番や!」
「あかん、うちが一番最初や!」
猛獣のような熱気が迫る。ハルは隙を見て、開いていたふすまから飛び出した。
「おい! 待て待て、逃げるなハルさん! お前、今夜は町の宝なんやぞ!」
「宝なら、もっと大切に扱ってください!」
夜の港町を全力疾走し、暗闇の中に身を隠す。
息を切らしながら、ハルは海を見つめた。都会で静流と交わした優しい関係。あの温もりと、この町の執拗な欲望。同じ「女たちの情愛」でありながら、そのあまりの落差に、ハルは自分が生きる世界の危うさを再確認する。
(俺ごときに、この巨大なシステムを壊す力はない。滅びゆく未来を止めることもできない。……それでも)
もし明日、この町が滅びるとしても、今日自分がここで誰かを傷つけることを拒んだなら、それは「人間としての尊厳」を少しだけ維持できたことになるのではないか。
ハルは、スマホで早朝の特急券を予約しながら、静かに呟いた。
「俺は、俺のやり方で日常を守るしかないんだ」
誰のものにもならず、どこにも染まらず、ただ誠実に、目の前の誰かが笑える時間を一日ずつ繋いでいく。
それは、世界を変えるような英雄の戦いではない。しかし、紫苑が愛した海のように、誰かの人生を少しだけ凪がせるような、ささやかな抵抗。
「二度と来るか、このド田舎!」
ハルは夜風に吹かれながら、そう言って笑った。それは弱気な逃走ではなく、自分の尊厳を守り抜くための、撤退だった。
明日は、都会に戻って出社して事情を説明して、プレゼンができなかったことを報告しよう。その日常こそが、ハルが身を守れる唯一のものなのだから




