確かにある希望
紫苑が亡くなってから数日間。ハルは、まるで見えない重力に押しつぶされるように、ただ淡々と仕事をする日々を送っていた。
あの水族館で、魚たちを見上げながら彼女が笑った顔。あどけない少女のような好奇心。そして、死を悟りながらも明日を夢見ようとしたその健気さ。
すべてが、ハルの心の中で「失われた約束」として重く沈んでいた。
そんなある日、ハルのもとに一通の封筒が届く。差出人は、特務機関の遺品整理部署からだった。
中には、一枚の短い手紙とロッカーキーと思われる鍵が一つ入っていた。
『ハルへ。
あの日のデート、本当に楽しかった。
もし、もしも、次の休日の朝、私が現れなかったら、水族館の出口近くのロッカーへ行って。
そこに、あなたに渡したかったものを預けてあるの。
もし私が死んでしまっていても決して悲しまないで。
あなたの幸せを願っているわ。——紫苑より』
ハルは、胸を締め付けられるような思いで、あの日二人で歩いた水族館へと向かった。
指定されたロッカーを開けると、そこには一冊の「古いノート」と、小さな「標本」が入っていた。
ノートには、彼女が観測所で働いていた頃から書き溜めていた「海と生命」の研究記録が記されていた。
そこには、魔力という呪いに支配された世界で、それでも健気に生きる小さな生き物たちの生態が、彼女の温かい視点で綴られていた。
そして、最後の方のページには、こんな一文があった。
『魔力は確かに命を削るけれど、この水族館を見ていて思ったの。
循環さえあれば、命は形を変えて続いていく。
ハル、あなたが誰かの命を救うとき、それはただの延命じゃない。
あなたが繋いだ命が、いつかまた、誰かの心を動かす光になる。
だから、あなたのその優しさを、どうか忘れないで』
そして、小さな標本箱。
そこに入っていたのは、あの日水族館で彼女が「一番好きだ」と言っていた、小さくも力強く泳ぐ深海魚の鱗だった。
ハルは、その鱗をそっと握りしめた。
紫苑は、自分が死ぬことを知っていた。だからこそ、ハルが自分を失った絶望の中で「自分の優しさが無意味だった」と思わないように、あの日、彼に希望という名の「未来の記録」を託したのだ。
その夜、ハルは職場の静流先輩を誘い、ささやかな食事をとった。
紫苑の話はしなかった。ただ、二人で静かに食事をし、言葉を交わした。
静流先輩の、授かった命を守るのだという決意の強い瞳。ハルが救った、今を生きる命。
(彼女たちが必死に生きようとした時間は、決して無駄じゃない)
ハルは、紫苑が遺したノートを胸に抱いた。
彼女が救えなかった命も、彼女が懸命に紡いだ記憶も、こうして自分の手の中に残っている。自分がこれから誰かの命を繋ぐとき、その温もりは紫苑が教えた海の色のように、誰かの明日を照らすはずだ。
「……ありがとう、紫苑」
ハルは、夜空を見上げた。
街の光に隠れて星は見えないけれど、あの日の水族館の水槽のような、どこまでも深く静かな青い光が、彼の心の奥底で確かに灯っていた。
ハルは、明日もまた、生きる。
希少な種として、あるいはただの人間として。この残酷な世界で、途方もなく過酷な戦いを続けるために。
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