果たされなかった約束
政権の中枢が集まる地区、『枢機街』。
古びた石畳と高層の行政庁舎が並ぶこの街で、ハルは許認可の申請という慣れない手続きに油汗をかいていた。ようやく申請が通った時には手間取ったせいで正午を過ぎている。空腹と気疲れを感じたハルは、庁舎の裏路地にある小さな定食屋へ足を踏み入れた。
店内の隅、窓際の席に一人の女性が座っていた。
ハルは心臓が跳ね上がった。先日の監査官、紫苑だ。
咄嗟に踵を返そうとしたが、入り口の店員に「いらっしゃい、お一人様? そこの空いてる席へどうぞ」と明るく促され、無情にも紫苑のすぐ隣の席へと案内されてしまった。
逃げられない。ハルは極力目立たぬよう、メニューに目を落とした。
しかし、紫苑の方から先に口を開いた。
「あら、先日はどうも。奇遇ですね、今日はどうなさったの?」
驚いたことに、彼女の声はあの日の氷のような冷たさを微塵も感じさせない、春の日差しのような明るさに満ちていた。
「……紫苑さん? あの日の……」
「あれは仕事ですから。ごめんなさいね、怖がらせてしまって」
屈託のない笑顔。その後、二人は自然と世間話をする流れになった。仕事の厳しさからは想像もつかない、ウィットに富んだ語り口。彼女は信じられないほどチャーミングで、楽しい人だった。
会話の途中で彼女がふと髪をかき上げたとき、ハルは息を呑んだ。
耳の後ろ、隠れていた数本の髪が、雪のように真っ白に濁っていた。
あの冷徹な監査官もまた、この世界の理から逃れられない「一人の女性」なのだ。ハルは震える声で尋ねていた。
「……名前を、教えてくれませんか」
「私? 紫苑よ。……どうして、そんなことを?」
彼女の顔色が、わずかに影を落とす。ハルは、喉元までせり上がってきた衝動を抑えきれなかった。
「今日、僕と寝てくれませんか」
紫苑の表情が、一瞬にして凍りついた。食堂の空気が張り詰める。
ハルは顔を真っ赤にしながら、畳みかけるように口説いた。
「……すみません、今の言葉は忘れてください。ただ、あなたという人に、純粋に惹かれてしまったんです。……まずは、デートしていただけませんか?」
世慣れない男性の無骨な誘いに、
紫苑は、呆然とした顔のまま、やがて小さく吹き出した。
「……ふふ、あなた、変わった人ね。いいわ、非番の日に付き合ってあげる」
約束の非番の日。
二人は水族館にいた。大型の水槽を泳ぐ魚たちを眺めながら、紫苑はこれまでの人生を、まるで遠い異国の冒険談のように面白おかしく語った。
「私、実はこう見えて、以前は砂漠の観測所にいたのよ。そこでね……」
彼女は本当にチャーミングだった。仕事中の鉄の仮面など、最初から存在しなかったのではないかと疑うほど、彼女の隣にいる時間は楽しかった。
夜、食事を終えた帰り道。ハルは意を決して言葉を紡いだ。
「僕と交際してください。あなたをもっと知りたいんです」
「……嬉しいわ。あなたのような男の子にそう言われるなんて」
紫苑は優しく頷いた。
「でも、今日すぐ返事というのは早すぎるわ。次の休日、またデートしましょう。それで……その時に、答えを出すわ」
それが、最後の約束になった。
次の休日の朝、ハルが約束の駅で待っていても、彼女は現れなかった。
昼過ぎ、ハルの端末に庁舎からの事務的な通知が届いた。
『特務機関所属、紫苑。魔力欠乏による急逝につき、本日付で退職』
ハルは、人通りの多い駅前で、ただ立ち尽くしていた。
彼女は死んでいた。
世界にとってそれは『魔力欠乏による死】として処理されるに過ぎない。しかし、ハルにとっては、デートで水族館で隣で笑っていたかけがえのない存在だった。
どれほど人間らしく、どれほど美しく心を寄せ合っても、この世界は、残酷に生命を奪う。
そして、普通の恋愛という、本来誰にでも許されているはずの幸福すら、突然ふつりと途切れる。
ハルは、彼女と見た魚たちの泳ぐ青い光を思い出しながら、どうしようもない絶望を感じていた。知らずに涙が溢れて止まらない。好きだった、守りたかった、そして自分の手のひらからこぼれ落ちていった。
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