The Advent of the Lazy King(two)
【ルグ・ハルフェン】
戦闘が始まった。
エルンストが最初に動いた。隠密を行い、隠れて展開した魔法が木々の間を走る。高密度の魔力を圧縮した、単純だが威力の高い攻撃魔法だった。エルンストの戦い方は、こちらが把握している限り、こういう真っ直ぐな組み立てをする。
その魔法が、空を切った。
悪魔が、魔法の着弾点から半歩ずれた位置に立っていた。避けたのではない。最初からそこにいなかった。魔法が来ると分かっていて、来る前に位置を変えていた。
ルグは右側から回り込んだ。短刀を逆手に持ち、踏み込みの速度を最大にして間合いを詰める。エルンストの魔法を囮にして、その隙に懐に入る。連携として悪くない動きだ。
刃が届く、と判断した瞬間に、その存在が振り向いた。
振り向いただけだった。それだけで、ルグの踏み込みのラインが完全に読まれていた。体を半歩引いて、刃が空を切った。
「オッソイナ……」
その存在が気怠そうに言った。
戦闘中の声とは思えないトーンだった。本当に退屈しているのか、あるいはそれも演技なのか。どちらかは判断できなかった。
エルンストが別の魔法を展開した。範囲を絞った拘束系の魔法だ。対象の動きを一時的に封じることを目的としている。
その存在が、展開の瞬間に動いた。魔法が完成する前に、範囲の外に出ていた。展開にかかる時間を、目視で計算していた。あるいは魔力の流れを感知して、完成のタイミングを先読みしていた。
「ソウイウ系ハ通ジナインダヨネ……」
また気怠そうに言った。
ルグは短刀を持ち直した。
この存在の動き方には特徴がある。攻撃を避けることに特化している。こちらが何かを仕掛けると、それに対して最小限の動作で対処する。無駄がなく、消耗がない。長期戦に持ち込めば持ち込むほど、こちらが先に限界を迎える構造になっている。
そして、反撃がない。
こちらの攻撃を捌きながら、自分からは動かない。仕事の邪魔だから帰ってくれ、と言っていた言葉が、戦闘の形として出ていた。倒したいのではなく、さばければいい。それが今の相手の目的だ。
ならば、こちらは・・・
ルグはエルンストに目を向けた。短い視線だけのやり取りで、互いに確認した。
一つだけ、試してみる価値のある手がある。
エルンストが大きな魔法を展開し始めた。範囲が広く、対象を中心に、周囲全体を巻き込む形の魔法だ。発動までに時間がかかる。その間、ルグが対象の注意を引きつける。
ルグは踏み込んだ。今度は速度を落とした。あえて読まれやすい動き方をする。対象が対処する。その間に、エルンストの魔法が進む。
三合、四合。
短刀が空を切り続けた。対象はそれを最小限の動作でさばきながら、エルンストの魔法の展開にも注意を向けていた。
視野が広い。二人を同時に把握しながら対処している。
五合目で、エルンストの魔法がほぼ完成した。
その瞬間、対象が止まった。
「……最後ニモウ一回ダケ言ウケド」
気怠そうな声だった。ただ、さっきとは少し違うトーンだった。
「帰ッテクレルト、助カルンダケド・・・」
エルンストが魔法を解かなかった。
ルグも下がらなかった。
「ソウカ・・・」
その存在が、小さく息を吐いた。
次の瞬間、視界から消えた。
消えた、というより、速度が桁違いに上がった。音がした。空気が割れるような、鋭い音だ。
痛みが走った。
右腕。
肩から先が、なかった。
理解するのに、一瞬かかった。ルグは自分の右肩を見た。断面が見えた。それを認識した瞬間、痛みが遅れて来た。膝をついた。地面に血が落ちた。
「ルグ」
エルンストの声がした。落ち着いているが、鋭い声だった。
飛んだ腕がエルンストの魔法で宙に浮いて、回収された。次の瞬間、回復魔法が展開された。熱い感覚が右肩を包んだ。骨と肉と血管が、強制的に繋ぎ合わされていく感触がある。完全な回復ではないが、腕が元の位置に固定された。
「動くな。つないだだけだ。回復魔法もそんな万能じゃない」
「分かった、ありがとう」
対象は動いていなかった。切断した後、また元の位置に戻って、腕を組んでいた。
気怠そうに、こちらを見ていた。
「痛カッタ?」
「……少し」
「ソリャソウカ。マァ、殺サナカッタダケ感謝シテホシイケド」
「感謝する気はありませんよ」
「ソッカ」
その存在がため息をついた。
「ジャア、名前教エテアゲル。セッカクダシ」
エルンストが構えを解かなかった。ルグも短刀を持ち直した。右腕に力が入りにくかったが、動かないよりはましだ。
「俺ノ名前ハベルフェゴール。ソッチノ世界デ言ウト、破滅級ノ魔物ウチノ一体ダ。面倒クサい事ガ嫌イデ、仕事モ嫌イダケド、シナイトモット面倒ナコトニナルカラ仕方ナクシテル」
「怠惰・・・」
エルンストが低く繰り返した。
破滅級。
その言葉が意味することを、ルグは知っていた。憤怒のサタンと同格の存在。意思のある、世界を脅かす厄災。
今夜、あの戦闘でこちらが受けた損害が右腕一本で済んだのは、ベルフェゴールが本気を出していなかったからだ。それ以外の理由がない。
「仕事の内容は言えないし、もう帰るから。次は殺すかもしれないんで、追いかけてこないでほしいね」
ベルフェゴールが体を起こした。その時、ルグは念話を繋いだ。
ルグ(リュート。対象の正体が判明した。破滅級の魔物、怠惰のベルフェゴールだ。施設の防衛を——)
念話の途中で、何かが割り込んだ。
割り込んだ、という感覚は正確ではなかった。繋いでいた念話の経路に、別の何かが触れた。糸を誰かに掴まれたような感触だった。
ベルフェゴールが、少しだけ首を傾けた。
「ア、念話カ」
気怠そうな声だった。
「逆探知、デキルンダヨネ。面倒クサイケド」
その存在の視線が、施設の方向に向いた。
「……其処カ」
ルグが立ち上がろうとした。右腕が痛んだ。
「待て!」
エルンストが前に出た。展開していた魔法を再び動かした。
ベルフェゴールがそれを横目で見ながら、動き始めた。施設の方向に向かって、歩き始めた。速度は遅い。急ぐ様子はない。
「別二戦イニ行クワケジャナイカラ、ソンナ構エナクテイイヨ」
「止まれ」
「嫌ダネ。チョット話シカケルダケダカラ」
「許可できません」
「許可トカ要ラナインダヨネ、俺ニハ」
ベルフェゴールがエルンストの魔法を、また最小限の動作で回避した。足を止めずに、歩き続けた。
ルグはエルンストに念話を繋いだ。
ルグ(先に伝える。リュートへの念話が途中で干渉された。おそらく内容は伝わっていない)
エルンスト(把握した。リュートの防衛能力は——)
ルグ(高い。が、それは普通の生徒と比較した話だ。相手が破滅級。今の状態で単独は——)
エルンスト(追う。君は施設まで来られるか?)
ルグ(行く)
右腕が痛んだ。つないだだけで固定はできていない。動かすたびに断面に負荷がかかる。それでも、動けないよりはましだ。
ルグは立ち上がった。
ベルフェゴールが木々の間を歩いていた。月明かりの中で、その背中は相変わらず気怠そうだった。
施設が、その先にある。
【リュート・アルス】
念話が切れた。繋がっていた糸が、途中で断ち切られたような感触。ルグからの念話が、内容の途中で消えた。
聞こえた部分は、ここまでだ。
対象の正体が判明した。破滅級の魔物、怠惰のベルフェゴール。
それだけだった。
破滅級。憤怒のサタンと同格として、分類される存在だ。今夜、施設の周囲を感知していた中で、あの反応がそれだった。隠密を維持しながら、その場に留まっていた。
その存在が、今、施設に向かって来ている。
走査を一周させた。
北北東から、あの異質な反応が動いていた。ゆっくりだ。急いでいない。その後ろで、エルンストとルグの反応も動いていた。追っているが、距離が縮まらなかった。
縮まらない、というより。
ベルフェゴールの速度が、こちらが把握できる範囲で、二人の速度と完全に合わせていた。追いつかれない距離を正確に保ちながら、歩いている。
意図してやっている。
追われていることを把握した上で、追いつかれない速度で移動している。追い払う気もなく、捕捉される気もなく、ただ目的地に向かっている。
目的地はここか。
施設の入り口から、一歩下がった。
魔力感知を維持しながら、アイテムボックスを開いた。剣を取り出した。音を立てないように、ゆっくりと。
「リュート君」
後ろから声がした。
振り返るとクラウスだった。一人で廊下の端に立っていた。
「外の様子が分かりますか?」
「・・・近づいてくる存在がいます」
「敵ですか?」
「確認中だ。中にいてくれ」
「……」
クラウスが少し黙った。
「クラウス様今、中に入って生徒を集めてほしい。一か所に固めておいた方がいい。できますか?」
クラウスがリュートを見た。少しの間、何かを考えていた。
「……分かりました」
「頼む」
クラウスが廊下の奥に消えた。リュートは再び入り口を向いた。
走査が一周した。
距離が縮まっていた。100mを切っていた。エルンストとルグとの距離は変わらない。依然として追いつけていない。
70m
50m
木々の端が見えた。月明かりの中に、人影があった。
気怠そうに歩いていた。腕を組んで、特に急ぐ様子もなく、こちらに向かってきた。人間に近い外見だった。ただ、月明かりの中でも目の色が鮮やかすぎた。
施設の前で、ベルフェゴールが止まった。
「ヤア」
気怠そうに言った。
「話シカケルダケダカラ、剣構エナクテイイヨ。疲レル」
「聞いてから判断する」
「ソウカイ」
ベルフェゴールが、リュートを上から下まで一瞥した。感知するような目だった。
「聞イテイイ?」
「答えるかどうかは、内容次第だが」
ベルフェゴールが少し首を傾けた。
「傲慢ノ気配ガアルカ確認シタカッタンダ。貴方ニ」
「傲慢?」
「ソウ。傲慢ノ気配ヲ持ツ人間ガコノ辺リニイルッテ報告ガアッテ、仕事デ確認シニ来タンダヨ。面倒クサイケド」
リュートは少しの間、黙った。
傲慢。それは七つの大罪の一つだ。憤怒のサタン、怠惰のベルフェゴール。七つの大罪に対応する破滅級の悪魔が、この世界に存在している。
「傲慢の悪魔がいるのか・・・」
「イルヨ。コッチハ怠惰担当ダカラ、傲慢ハ別ノ奴ノ管轄ダケド、確認ダケ頼マレタ。面倒クサイ仕事ダ」
「俺に傲慢の気配があるかどうかを確認しに来た、ということか」
「ソウ」
「答える前に一つ聞く。確認してどうするつもりだ」
「報告スルダケ。此処デ何カスルツモリハナイ。面倒クサイカラ」
その言葉が本当かどうかは分からなかった。ただ、嘘をついている雰囲気もなかった。この存在は面倒なことを嫌がっている。余計な動きをする気がない。
リュートが答えようとした、その瞬間だった。
空気が変わった。
変わった、という言葉では足りなかった。
何かが来た。
殺気だった。
ただの殺気ではない。リュートの体が、判断より先に動いた。足が半歩後退した。思考が止まった。体の芯から何かが冷えた。ヴァルドと戦った時とも、サタンと遭遇した時とも違う。もっと根源的な、存在そのものから発せられる何かだった。
ベルフェゴールが動きを止めた。
腕を組んだまま、固まっていた。気怠そうな表情が、初めて別のものに変わった。
「……ヤベェノガ来タワ」
低い声だった。さっきまでとは全く違うトーンだった。
施設の横の木々の影から、人影が出てきた。
白かった。
長い白髪が月明かりに映えていた。蒼の和服。顔には般若の仮面をつけていた。背中には、布に包まれた細長いものが括りつけられていた。
日本刀。
人影はリュートとベルフェゴールの間の少し前に立った。
殺気が、その存在から出ていた。絞っているわけでも、広げているわけでもない。ただ、在るままに滲み出ていた。それだけで、周囲の空気の質が変わった。
ベルフェゴールが、その人影を見ながら言った。
「此奴ガイルカラ、此処ニハ来タクナカッタンダヨナ……」
疲れた声だった。
人影が動いた。
背中の刀を右手で取った。鞘から抜いた。
刃がない?
鍔と柄だけだ。刃の部分がない。
だが次の瞬間、周囲の魔力が動いた。
感知が一気に乱れた。半径二十メートルの範囲の魔力が、その刀に向かって収束し始めた。コルネットの木々に満ちていた魔力、空気中の魔力、地面の魔力。それが流れ込んで、刃の形に固まっていった。
銀色の刀身が、形成された。
人影が踏み込んだ。
速かった。音が来る前に、刀が動いていた。ベルフェゴールに向かって、一直線に斬りかかった。
ベルフェゴールが防御魔法を展開した。
展開した瞬間、斬撃がそれを無視して通り抜けた。
防御魔法を貫通した。物理的に切り裂いたのではなく、あるいは別の理屈で、障壁そのものが機能しなかった。斬撃がベルフェゴールの体に届いた。
「ッ……!」
ベルフェゴールが後退した。気怠そうな姿勢が崩れた。体を押さえた。初めて、この存在が声にならない反応をした。
人影が次の一手を構えた。
その瞬間、別の気配が来た。
速い。ベルフェゴールの真横に、何かが現れた。人の形をしていたが、先ほどとは別の存在だった。肌が黒く、目だけが白く光っていた。
「イヤァ、参リマシタネ本当二。マサカコンナ形デ介入サレルトハ思ッテイナカッタワケデスヨ。僕ノ計算デハ、コノ場ニコノ手ノ存在ガ来ルトハ・・・想定外トイウノハイツデモ発生スルモノデシテ、ソレニ対シテ適切二対処スルノガ仕事トイウモノナンデスガ、今夜二限ッテ言エバ、コレハ完全二予測不能ノ事態デシテネ」
長い。にしても、聞いたことのある声だ・・・気のせいだろうか・・・
その存在が、人影の斬撃の軌道に手を差し込んだ。
魔力が弾けた。斬撃と何かがぶつかって、相殺された。銀色の刀身が、その瞬間だけ揺れた。
「ベルフェゴール、今夜ハココマデニシマショウ。継続ハ得策デハナイカト。本当二残念デハアリマスガ、アノ刀ニハ僕モ全力デ当タリタクナイワケデシテ」
「……ソダナ。面倒クサクナッタシ」
ベルフェゴールが後退した。その存在が並んだ。
二つの気配が、木々の中に消えた。
気配が遠ざかった。走査が一周した。二つの反応が、感知範囲の端に向かって速度を上げていた。エルンストとルグの反応が後を追ったが、またすぐに距離が開いた。
静かになった。
コルネットの虫の音が戻ってきた。月明かりが変わらず広場を照らしていた。
リュートは人影を振り返った。
「あの・・・」
白髪も、般若の仮面も、銀色の刀身も、何もなかった。気配もなかった。魔力感知を走査しても、その存在の反応が拾えなかった。
礼を言おうと思っていたが、言えなかった。
リュートは剣を下ろした。少しの間、人影が立っていた場所を見た。地面に、かすかな痕があった。足跡だった。草が少し踏み折られていた。
念話が来た。
エルンスト(対象が撤退した。其方の状況は?)
リュート(こちらも撤退を確認しました。別の存在が介入して、ベルフェゴールを傷つけた後、二体とも逃げました)
エルンスト(別の存在?)
リュート(白髪に般若の仮面、蒼の和服。刀を持っていました。今は既にいません)
少し間があった。
エルンスト(……把握した。施設に戻る。ルグの状態が良くない)
リュート(ルグ先生に何かありましたか)
エルンスト(詳しくは戻ってから話す)
念話が切れた。
リュートは施設の入り口を向いた。廊下の奥から、クラウスの声がした。生徒を集めている声だった。
あの黒い存在の話し方が、頭の中に残っていた。
長い。異様に長い。
コルネットの夜が、静かに続いていた。




