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鬱病

最初は、気づかなかった。


報告をした。ガルシア王に、セラフィナに、状況を順番に説明した。骨の回収の手配をした。騎士団の再編成の話が始まり、サタンと禍兎への対処方針が議論された。リュートも参加して、必要な時は意見を出した。


全部、普通にできた。


だから気づかなかった。


変化は、少しずつだった。


まず、朝起きるのが遅くなった。いつもは夜明け前に目が覚めていた。でも気づけば、昼近くまで部屋にいることが増えていた。理由は分からなかった。ただ、起き上がる必要性が、頭の中で後回しになっていた。


食欲が落ちた。


食堂に行けば食べられた。でも、行くことを忘れる日が増えた。アランやケルビが呼んでから、そこで初めて気づいた、ということが何度かあった。


剣の訓練をしなくなった。


これは自分でも気づいていた。やろうとして、中庭まで行って、剣を抜いて、一合だけ素振りして、それで部屋に戻った。なぜそうなるのか、分からなかった。体が動かないわけではなかった。でも、続けることが、なぜか意味を見つけられなかった。


考えることも、変わった。


普段は何かを考えながら動いていた。次の手、次の問題、次にやるべきこと。でも、それが減っていた。考えようとすると、頭が別の方向に滑った。


セレナの声。


ティオの背中。


ヴァルドの「止まれない」という言葉。


三人の最後を、何度も頭の中でなぞった。なぞって、何も変わらないことを確認して、また別のことを考えようとして、また三人に戻ってくる。その繰り返しが、気づかないうちに続いていた。


アランが、最初に気づいた。


「リュート、なんか最近おかしくん?」


夕飯の時だった。三人で食堂に座っていた。アランがいつものようにトレーを持ってきて、隣に座って、リュートの皿を見て、それを言った。


「おかしい?」


「飯が減ってん。座ってけん十分経つとに、一口も食べてんじゃん」


リュートは自分のトレーを見た。確かに、手がついていなかった。


「ああ、考え事をしていたんだ」


「考え事って何を?」


「・・・いろいろ」


アランはリュートをしばらく見た。それから、何も言わずに黙った。


アランが黙るのは珍しかった。いつもは何か言ってくる。でも、この時は言わなかった。


向かいのケルビが、パンをちぎりながら、静かに言った。


「リュート、食べた方がいいよ」


「そうだな」


「飯は食べんと、他のことできんけん」


ケルビらしい言い方だった。理屈ではなく、ただ事実だけを言う。


リュートはスプーンを取った。スープを一口飲んだ。


「美味しいやろ?」


アランが言った。


「ああ、うまい」


「それでよか」


それだけだった。


アランもケルビも、それ以上は何も聞かなかった。三人でしばらく黙って食べた。


翌日の朝、アランがリュートより早く起きていた。珍しかった。アランは朝が弱い。いつも目覚まし音楽が流れても、しばらく唸ってから起きてくる。


でも、その朝は起きていた。


リュートが目を開けると、部屋のカーテンが少し開いていた。


「・・・アラン」


「あ、起きた。おはよ」


「お前が先に起きてるのは珍しい」


「たまにはね」


アランが伸びをしながら、何でもなさそうに言った。でも、リュートには分かった。意図して起きていた。


何も言わなかった。


「飯行こ」


「・・・ああ。とりあえず、ケルビ起こさな?」


「ケルビ!起きてー!」


「んー・・・」


ケルビが毛布をかぶったまま返事をした。


「起きてー!飯!」


「・・・」


「ケルビー!!!」


「うるさい」


ケルビがゆっくりと起き上がった。目が半分閉じていた。でも、起きた。


三人で食堂に向かった。廊下を歩きながら、アランがいつものようにしゃべっていた。今日の授業がどうとか、昨日見た夢がどうとか、特に意味のない話だった。


リュートは聞きながら歩いた。


意味がない話、というのが、今は少し楽だった。







一週間が経った。


ある休日の日、ルーベルトが遊びに部屋にやって来た。


「リュート、入っていい?」


「どうぞ」


ルーベルトが扉を開けた。部屋を見渡した。カーテンが閉まっていた。昼間だが、薄暗かった。リュートはベッドに座っていた。アランとケルビの姿はなかった。今日は二人とも、外出していた。


「・・・いつからカーテン閉めてたの?」


「さぁ」


「部屋、片付いてないね」


「そうか」


「食事、今日してる?」


「してない」


ルーベルトは少しだけ黙った。それから、カーテンを開けた。光が入ってきた。リュートは少しだけ目を細めた。


「必要なことがあるなら言えばよかったのに」


「必要なことは特にない」


「でも、食事してない」


「空腹は感じていない」


「空腹を感じなくなるのは、もうだいぶまずい状態だよ」


リュートは答えなかった。


ルーベルトが椅子を引いて、向かいに座った。


「リュート」


「何だ」


「交渉がしたい」


「・・・交渉?」


「そう。お互いに条件を出して、合意できるかどうか話し合う。それだけ」


リュートは少しだけルーベルトを見た。


「何の交渉だ」


「リュートが今後も生きることを選ぶかどうか、について」


部屋が静かだった。


「そんな交渉は必要ない。死ぬつもりはない」


「今は死ぬつもりがなくても、このまま続けば死ぬことになる可能性がある。食事をしない、寝起きができない、訓練をしない。それが続けば、体が先に終わる。だから交渉する必要がある」


「大袈裟だ」


「一週間で食欲と睡眠と意欲が落ちてるのは、大袈裟じゃない。本当のことだ」


リュートは少しの間、黙った。


ルーベルトが正確なことを言っている、ということは分かっていた。一週間、自分がどう過ごしていたか、自分でも把握していた。ただ、それを問題として扱う気力が、なかった。


「交渉の条件を聞かせてくれ」


ルーベルトが言った。


「リュートが今感じていることを、正直に話してほしい。それが僕側の最初の条件だ」


「正直に話したところで、何かが変わるわけじゃない」


「変わらないかもしれない。でも、聞きたい。リュートが今何を考えているか、僕は知りたい」


「なぜ」


「リュートは僕の友人だから」


「友人が死にそうな状況でも、のんびり交渉形式にするのか?」


「のんびりじゃない。リュートに、感情に流されずに考えてほしいから、こういう形にしてるだけだよ」


リュートは少しだけ止まった。


確かにそうだ。感情的に「大丈夫か」と聞かれたら、「大丈夫だ」と返して終わる。でも交渉なら、条件を並べて考えないといけない。


「分かった。話す」


「聞く」


「セレナが死んだ。ティオが死んだ。それが頭から離れない。何度もなぞる。なぞっても何も変わらない。でも止まらない」


「それは当然だと思う」


「当然だとしても、止まらないのは問題だろ」


「問題というより、まだ終わっていないんだと思う」


「終わっていない?」


「三人が死んで、リュートの中でそれがまだ終わっていない。終わっていないのに、次に進もうとしているから、頭が動かなくなってる。そういう状態だと思う」


リュートは少し考えた。


「終わらせる方法は」


「分からない。でも、終わらせようとしなくていいと思う。今は」


「終わらせなければ、ずっとこのままか」


「ずっとではないと思う。でも、今すぐ終わらせようとする方が、長引く気がする」


「根拠は」


「根拠はない。でも、リュートが今やっていることを見ると、早く終わらせようとして、なぞることを繰り返してる。なぞることで終わらせようとしてるのかもしれないけど、逆に深くなってる気がする」


リュートは窓の外を見た。


光が入ってきていた。さっきまで薄暗かった部屋が、少し変わっていた。


「では、お前の条件は分かった。俺の条件を言う」


「どうぞ」


「一つだけだ。今の状態を、問題として扱わないでくれ」


ルーベルトが少しだけ黙った。


「どういう意味?」


「セレナとティオとヴァルドが死んで、今この状態になっているのは、問題ではなく、そうなって当然だと思う。問題として扱われると、早く解決しないといけない、という方向に動く。それが辛い」


「分かった」


「それだけで十分か」


「十分だよ。リュートがそう感じているなら、そうする」


「・・・あっさりしてるな」


「交渉だから。条件が合意できれば、それでいい」


リュートは少しだけ、口の端を動かした。


笑った、とは言えなかった。でも、何かが動いた。


「続きを聞いていいか」


「どうぞ」


「リュートが今後も生きることを選ぶための条件を、リュート側から出してほしい。それが本来の交渉の目的だ」


リュートは少しの間、考えた。


今後も生きることを選ぶ条件。


「一つある」


「聞く」


「セレナとティオとヴァルドの死が、何かに繋がること。無意味だったで終わらないこと。それが条件だ」


ルーベルトは少しだけ黙った。


「無意味じゃなかった、と俺が言っても、信じられない?」


「信じられない、じゃなくて、それだけでは足りない」


「じゃあ、何があれば足りる?」


「サタンと禍兎がまだいる。あいつらが引き起こしていることは、今日も続いている。止めることができれば、三人が死んだことが、その結果に繋がる」


「繋がる保証はないよ」


「保証はない。でも、可能性はある。可能性がある限り、動く理由になる」


「・・・それって、セレナさんたちの死を理由に動く、ということ?」


「そうだ」


「それ、しんどくない?」


「しんどい。でも、他に動く理由が今見つからない」


ルーベルトはしばらく、何も言わなかった。


窓から入ってくる光が、部屋に広がっていた。


「分かった」


ルーベルトが言った。


「合意できる?」


「できる。条件は二つ確認した。リュートの状態を問題として扱わないこと、と、三人の死が何かに繋がる可能性に向けて動くこと。どちらも、今日から始められる」


「今日から、か」


「今日から。まず、飯を食べよう。それだけで十分だ」


「それだけでいいのか」


「今日はそれだけでいい。明日は明日で考える」


リュートは立ち上がった。


少しだけ、頭が動いた。ほんの少しだった。でも、さっきまでと違った。


「部屋、片付けるか」


「片付けよう」


「カーテン、開けてくれたな」


「うん」


「ありがとう」


「どういたしまして」


ルーベルトが立ち上がった。


二人は部屋を片付け始めた。


窓から入ってくる光が、部屋の端まで届いていた。


外から、王都の音がしていた。人の声、馬車の音、遠くの鐘。それだけのことが、少し遠かった場所から、少し近くなっていた。


全部が解決したわけではなかった。


三人が死んだことは、変わらなかった。


でも、今日の残りに、やることが一つできた。


それだけで、今日は十分だと思うことにした。


---


朝が来た。


カーテンを開けた。


王都の朝の光が、部屋に入ってきた。それだけのことが、少し前より普通にできるようになっていた。


鏡を見た。顔色が、少し戻っていた。一週間前と比べれば、明らかに違った。


アランとケルビを見た。二人はまだ寝ていた。


アランが、いびきをかいていた。


口を縫い付けてやろうか、と少し思った。それから、そんなことを考えていることに気づいた。


少し前まで、そういうことを考える余裕がなかった。


「・・・」


何かが、少し戻ってきていた。


歯を磨いた。制服に着替えた。鞄を持った。部屋を出た。


廊下に出ると、中庭の方向から声が来た。


「おはよう、リュート」


ルーベルトだった。制服姿で、鞄を持っていた。


「おはよう」


「今日から、普通の授業だね」


「そうだな」


「感想は?」


「特にない」


「ほんとに?」


「・・・少し、楽しみかもしれない」


ルーベルトが少し口の端を動かした。


「それでいいと思う」


リュートは自分の状態を確認していた。


肩は、完全に治っていた。あれだけの戦闘を経て、時間はかかったが、医師が驚くほど綺麗に回復した。体の動きは、戦闘前と変わらない。むしろ、代行思考機構(プロキシ・マインド)が動いた後から、何かが少し変わった気がした。うまく言えないが、以前より体の内側が、静かだった。


頭の中は、まだ三人のことが残っていた。


消えていない。でも、さっきより遠くなっていた。正確には、見える場所にあるが、常に前に来るわけではなくなった。それだけでも、今は十分だ、とルーベルトとの交渉で決めていた。


食堂に入った。


朝の時間帯だ。生徒がいた。テーブルに人が座っていた。食器の音がしていた。話し声がしていた。


当たり前の光景だった。


でも、久しぶりだった。戦争の前後、しばらくこういう場所から遠ざかっていた。こんなに普通の音がある場所に、久しぶりに来た気がした。


「何食べる?」


ルーベルトが聞いた。


「何でもいい」


「それはだめ。ちゃんと選んで」


「なぜ」


「選ぶ習慣を取り戻してほしいから」


「・・・パンと卵料理にする」


「よし」


ルーベルトが二人分のトレーを取った。


並んでいる料理を見ていると、後ろから肩を叩かれた。


「リュート!!!」


アランだった。制服がまだ少し乱れていた。走ってきたらしく、息が少し上がっていた。その後ろにケルビがいた。こちらは相変わらずぼんやりした顔をしていた。


「なんで走ってるんだ」


「いや、お前が先に出たけん心配で」


「心配?」


「最近ちょっとおかしかったやろ。だけん」


アランがぽりぽりと頭をかいた。照れているのか、それとも気まずいのか、よく分からない顔だった。


「昨日より顔色よくなっとるじゃん」


「そうか」


「うん。なんかあったと?」


「ルーベルトと話した」


「ああ、そっかぁ」


アランがルーベルトを見た。ルーベルトが少し頷いた。


「よかった。ほんとよかった」


アランがトレーを取った。ケルビもその後ろに続いた。ケルビが静かに言った。


「飯、美味しそうだね」


「そうだな」


「それだけでいいんだよね、朝は」


ケルビらしい言い方だった。


四人で食堂のテーブルに座った。


アランが食べながらしゃべり始めた。今日の授業がどうとか、昨日外出した時に見た珍しい魔物がどうとか、特に意味のない話だった。ケルビが時々一言挟んだ。ルーベルトが笑った。


リュートは食べながら、聞いていた。


答えた。時々、答えた。


それだけのことが、今日はできた。


---


一時間目の授業が始まった。


教室に入った時、数人がこちらを見た。噂は広まっていた。戦争があったこと、騎士団が被害を受けたこと、冒険者が動いたこと。詳細までは伝わっていないが、何かが起きたことは生徒たちも知っていた。


アランとケルビは知っていたが、気にしていなかった。二人ともリュートの席に近い場所に座りながら、いつも通りだった。


リュートは自分の席に座った。視線が来ても、特に何も思わなかった。


先生が入ってきた。


魔法理論の授業だった。今学期の最初のテーマは、属性干渉の理論だという。複数の属性が同じ空間で展開された場合、どのように相互作用するかを学ぶ内容だ。


リュートは少しだけ、前のめりになった。


興味があった。


四属性でプラズマ放電を実現した計算の過程で、属性同士の干渉については独自に考えていた。でも、理論的な裏付けは自己流だった。正式な理論を学べば、あの計算の精度が上がるかもしれない。


板書が始まった。リュートはノートを開いた。筆を走らせた。


「ねえ、リュート」


前から声がした。同じクラスの生徒だった。名前は確か、エルナという。魔法系の成績が良い生徒だ。


「何だ」


「今の板書、意味分かった?」


「完璧に分かった」


「まじか」


「同じ空間に複数の属性が存在する場合、属性同士のエネルギー密度が一定の比率を超えると、干渉ではなく融合が起きる。その閾値(しきいち)が属性ごとに違う、という話だ」


エルナが少しだけ目を丸くした。


「それ、先生がまだ説明してない部分じゃない?」


「板書に書いてある」


「何処?」


「三行目の数式の右辺が、それを表してる。記号の定義は最初の板書に書いてあった」


エルナが板書に目を戻した。少しして、「あ」と言った。


「本当だ。見えてなかった」


「慣れれば見えるようになる」


斜め後ろからアランの声がした。


「何ば話しとーと?」


「板書の解説をしてた」


「あー。リュートって、こういう系得意やんね。魔法全然使われんくせに」


「使うと疲労がやばいからな。だから、理論の方を詰めてる」


「なん効率よかね。」


アランが自分のノートに視線を戻した。


授業が再開した。


リュートはノートに視線を戻した。板書を写した。数式を確認した。先生の説明を聞きながら、頭の中で昨夜の計算式と照らし合わせた。


ずれている部分があった。正確には、自分の計算式が近似だった箇所が、理論的に補完された。


計算式が、少し精度が上がった。


それだけのことが、少し嬉しかった。


後ろでアランがこっそり「意味わからん」と呟いていた。ケルビがアランのノートを指で指して、「ここ違う」と静かに伝えていた。


普通のことだった。


でも、それが今日は十分だと思えた。


---


昼休みになった。ルーベルトが走ってきた。


「リュート、昼飯一緒にどうぞ?」


「どうぞ、って変な言い方だな」


「文法はともかく、一緒に食べる?」


「食べる」


「俺らも行くけん」


アランが横から入ってきた。ケルビがその後ろにいた。


四人で食堂に向かった。途中で、別のクラスの生徒に声をかけられた。


「あ、ルーベルト。新しい呪文の転写、まだしてないんだけど、昼休み頼めるかな」


「ちょっと待って、今日は昼飯の後でいい?」


「了解。じゃあ後でね」


アランがルーベルトを見た。


「相変わらず頼まれ事が多いな」


「ルーベルトが断らないからだろ」


「まあね。でも、頼まれるのは嫌いじゃないから」


アランが「えらいね〜」と言いながら食堂の扉を開けた。


食堂についた。トレーを取った。


「リュートはどう?頼まれ事」


ルーベルトが聞いた。


「基本的に断る」


「知ってた」


「なんでそこ被るんや二人とも」


アランが笑った。ケルビが「そうだね」と小さく言った。


四人でテーブルに座った。


窓から昼の光が入ってきていた。話し声が聞こえた。食器の音がした。誰かが笑っていた。それが、今日は少しだけ近かった。


「リュート、今日どうだった?」


ルーベルトが聞いた。


「悪くなかった」


「よかったやん」


アランが言った。特に深い意味のない言い方だった。でも、それでよかった。


全部が終わったわけではなかった。


レインはまだ消えたままだ。サタンの言った傲慢の意味も、まだ分からない。サタンと禍兎が引き起こしていることは、今日も続いている。


でも、今日の昼はここにある。


食事を食べた。アランが今日あった話をした。ケルビが一言ずつ返した。ルーベルトが笑った。リュートは聞いた。時々、答えた。


普通のことだった。


でも、普通のことが、今日は十分だと思えた。


昼休みが終わった。午後の授業が始まった。


リュートは教室に戻りながら、少しだけ思った。


明日も、これくらいでいい。


それだけが、今日決まったことだった。

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