想定外の強襲(1)
街道は、静かだった。
王都の城壁が遠ざかっていった。振り返れば、まだ見えた。石造りの壁が、朝の光を受けて白く輝いていた。あの上に、三人がいた。もう見えないだろうが、見送ってくれていた。
ヴァルドは前を向いた。
街道は真っ直ぐに伸びていた。帝国まで、何日かかるかはまだ分からない。でも、急ぐ旅ではない。急ぐ必要が、もうなかった。
レティシアのことを考えていた。どんな顔をするだろう。何を言うだろう。怒るかもしれない。呆れるかもしれない。それでも、会える。それだけで十分だった。
「ねぇねぇ、ヴァルド、今何考えてたの?」
「別に何も。」
「うっそ。レティちゃんのこと考えてたでしょ?」
「・・・何故分かった?」
「だって、顔赤いもん」
「顔は赤くない。」
「赤いよ〜。ほら、見て、ティオ」
ヴァルドは隣を歩くセレナから顔を背けた。街道の向こう、地平線のあたりに視線を固定した。ティオは少し遅れてついてきていた。荷物を背負い直しながら、ちらりとヴァルドの横顔を見た。
「・・・確かに、赤いな」
「そこまで確かめなくてもいいだろ。」
「事実をいっただけだが、悪かったか?」
セレナがくすくすと笑った。朝の街道に、その音だけが響いた。鳥の声もなく、風もなく、彼等の足音と、セレナの笑い声だけがあった。
「でもさ、レティちゃん、喜ぶよ、きっと」
「どうだろ。喧嘩をしてから、ずっと、会いに行かなかったから」
「喜ぶよ。絶対」
ヴァルドは何も言わなかった。
「ね、ティオ、そう思わない?」
アリスはしばらく考えるように黙っていた。それから、静かに言った。
「・・・以外と泣くかもな」
「泣く?」
「嬉し泣きなら?」
「あぁ~それならあるかも」
ヴァルドはまた前を向いた。街道はまっすぐに続いていた。遠く、木々の緑が霞んでいた。
隊列が進んだ。馬蹄の音が街道に響いていた。騎士団の旗が風に揺れていた。セレナが隣を歩いていた。ティオが少し前を歩いていた。
オルディナシスが、小さくなっていた。城壁の輪郭が、地平線に溶け始めていた。
「・・・え?」
その時、誰かがそう呟いた瞬間、最前列の騎士団が消えた。
消えた、という言葉しか合わなかった。馬車ごと、馬ごと、騎士ごと、何かに掴まれるように、まとめて上空に打ち上げられた。音もなく。悲鳴が上がる間もなく。ただ、いなくなった。
セレナが空を見た。ティオが剣に手をかけた。上空に、何かがいた。翼があった。巨大な翼だ。一つではなかった。何十、何百。上空を埋めていた。
ドラゴンだった。
大きさが、見たことがなかった。街道の幅を超える体長のものが、複数いた。翼を広げれば、建物一棟を覆えるほどのものもいた。その群れが、上空から降下してきた。
最前列に打ち上げられた騎士たちが、空中で捕まえられた。音が来た。骨が折れる音ではなかった。もっと大きな音だった。一瞬で何かが終わる音だった。
「逃げろ!!!」
誰かが叫んだ。騎士団が慌てて盾を並べ、槍を構えたが、既に遅かった。彼らは散らされ始めた。
ドラゴンの影が大地を覆う。
次の瞬間、上空から巨大な爪が鉄の雨のように降ってきた。鋭い鉤爪が騎士の肩口に突き刺さり、鎖帷子ごと肉を抉りながら引き裂いた。
肩から腰まで一直線に裂けた体が、血と臓物を撒き散らしながら宙を舞い、隣の騎士の頭部は爪の先端に串刺しにされ、兜の中で脳漿が弾け、目玉が飛び出した。
巨大な翼が薙いだ。
鋼の風圧が肉を抉り、骨をへし折る。数人の上半身が綺麗に刈り取られ、切断面から噴き出す鮮血が弧を描いた。腸が地面に落ち、騎士たちの足に絡みつく。
そして炎が来た。
業火が一瞬で騎士たちを包み込んだ。鎧が溶け、肉が焼ける嫌な音が響く。皮膚が黒く炭化し、目が煮えて白く濁り、口の中の舌が泡立って溶けた。
何人かがまだ生きていて、焼けただれた喉から獣のような叫びを上げたが、それはすぐに途切れた。喉が塞がり、肺が焼け、声にならない断末魔だけが残った。
血の臭いと、焼けた肉の臭いが混じり合い、街道は一瞬にして地獄と化した。
セレナは目を逸らさなかった。ティオも逸らさなかった。ヴァルドも、逸らさなかった。逸らしても何も変わらないからだ。
「・・・セレナ、ティオ」
ヴァルドが言った。
「分かってる」
セレナが杖を構えた。ティオが剣を抜いた。
ヴァルドの両脇にいた騎士が、顔を見合わせた。判断する時間はなかった。騎士の一人が、手錠の鍵を出した。
「・・・非常事態だ。一時的に解放する。だが、指示には従ってもらう」
「分かった」
手錠が外れた。ヴァルドが手首を一度握った。それから、剣を手に取った。
三人は最前列に向かった。ドラゴンが降下してきていた。炎が飛んだ。セレナが障壁を展開した。炎が壁に当たって散った。ティオが横に動きながら一体の爪を剣で弾いた。
最前列まで来た。そこに、何かがいた。
立っていた。人の形をしていた。でも、人ではなかった。肌が黒かった。輪郭がぶれていた。光の当たり方がおかしかった。目が光っていた。白く、光っていた。
クロカワを殺した悪魔とは、違う個体だった。気配が違う。でも、重さが同じだった。段階が同じだった。人間の強さとは、別の軸にある何か。その重さが、同等だった。
「・・・また悪魔か」
セレナが言った。声が、少しだけ硬かった。
悪魔は三人を、それから周囲に散らばる騎士団の残りを、ゆっくりと見渡した。
視線が、値踏みするように動いた。品定めをしているような目だった。怒りでも嫌悪でもない。ただ、測っていた。
「・・・弱イ、弱イ、」
声が来た。人間の声に近かった。でも、共鳴するような何かが混じっていた。低く、重く、空気を揺らすような声だった。
「何百イテモ、弱イ…力ガナイ者ガ、力ガアル者ノ前二立ツ。ソノ行為ガ既二、私ニハ理解デキナイ、ソレドコロカ、怒リサエ覚エテシマウ!!!!」
誰に向けた言葉かは分からなかった。騎士団全体に向けていたのか、三人に向けていたのか。ただ、聞こえた。
騎士団の一人が、前に出た。
「・・・仲間を、返せ」
震えた声だった。でも、剣を構えていた。悪魔は、その騎士を見た。
「返スサ、話二ナラナイホド弱イカラサ」
「本当か?」
「『アクセサリー』トシテ加工シヤスイヨウ二、骨トシテ。」
音のない笑いが来た。
騎士が動いた。剣を振った。悪魔が一歩も動かなかった。剣が当たった瞬間、騎士が吹き飛んだ。壁のように何かに押し返されて、街道の端まで転がった。立ち上がれなかった。
別の騎士が、また前に出ようとした。ティオが前に出た。
「退いていろ」
短く言うと、騎士が止まった。ティオは悪魔を見た。
「弱い者が力ある者の前に立つことが理解できない、と言ったな」
「ソウ言ッタガ」
「なぜ戦う。目的は何だ?」
悪魔が、ティオを見た。
白く光る目が、少しだけ動いた。
「目的?」
「そうだ。何のためにここに来た。何のために騎士団を殺した」
「目的ガ必要ナノカ?」
「普通は必要だ。目的なく動く人間も魔物もいない」
「・・・面白イコトヲ言ウネェ」
悪魔が少し首を傾けた。
「私ハ憤怒ダ。怒リ其ノモノダ。怒リニ目的ガ必要カ? 火ガ燃エル時二、燃エル理由ガ必要カ? 嵐ガ来ル時二、来ル理由ガ必要カ?」
「それは理由だ。目的とは違う」
「同ジダ」
「違う。理由は過去から来る。目的は未来に向かう。お前が今ここにいるのは、何かに向かっているからのはずだ」
悪魔はティオを見た。少しの間、何も言わなかった。
「・・・オ前ハ、私二問答ヲ挑ンデイルノカ?」
「話が通じるなら、話す方が早い」
「話ガ通ジルカドウカハ、オ前ガ決メルコトデハナイガ?」
「では、お前が決めろ」
悪魔が、また笑った。
「話ス価値ガアルカドウカヲ、私ガ決メル。ソノ前二、オ前タチニ一ツ聞ク」
「何だ?」
「今コノ場デ、私ヲ止メラレル者ガイルト思ウカ?」
ティオは答えなかった。
答えられなかった、ではない。答える必要がなかったからだ。
悪魔が、それを見た。
「答エナイ。正直ダナ。力ノ差ガ分カッテイル。ナノ二立ッテイル。ナノ二剣ヲ構エテイル。ソコダケハ、評価スル」
「評価はいらない」
「ソウカ。デハ、何ガ欲シイ」
「時間だ」
悪魔が少しだけ止まった。
「時間?」
「そうだ。お前が何者で、何をしようとしているか。それを把握する時間だ。分からないまま戦っても、意味がない」
「時間ヲ稼イデ、誰カヲ呼ボウトシテイルノカ」
「違う。今いる俺らと数名のだけだ。今は、他を呼ぶつもりはない」
「何故?」
「呼べる状況ではないからだ。そして、呼んだところで、今すぐ来られる人間もいないし」
悪魔が、ティオとセレナとヴァルドを順番に見た。
「・・・正直ダナ」
「嘘をついても意味がない相手だろ、お前は」
「ソウダ。私ニハ嘘ガ通ジナイ。人間ノ感情ノ揺レハ、全テ見エル。オ前達ガ恐レテイルノモ、ソレデモ立ッテイルコトモ、全部見エル」
「見えているなら、話してくれ」
「何ヲ?」
「お前が何者か。何のためにここに来たか」
悪魔は、少しの間、黙っていた。
その沈黙は考えているわけではなかった。値踏みの続きだ。話す価値があるかどうかを、まだ測っていた。
「・・・」
その時、後方から音が来た。
地鳴りのような音だった。
振り返った。
街道の後方、地平線の端まで、虹の並みが埋め尽くしていた。
魔物だ。
数が分からなかった。一万か、十万か、それ以上か。地平線が見えなくなるほどの密度で、こちらに向かってきていた。それだけの数になれば、もはや個別の魔物の集団ではなく、一つの巨大な意思として動き始める。
そして、その群れの中心に、兎がいた。
だが、普通の兎とは違った。体格だけの話ではない。気配が違った。周囲の魔物やドラゴンが、その一体を中心に動いていた。前方のドラゴン、後方の魔物の群れ、全てがその一体から糸を引かれるように動いていた。
魔物を操っている。
セレナがそれに気づいた。
「・・・あの兎が、全部を動かしてる…」
「ドラゴンも?」
ティオが言った。
「そうよ。あれだけの種類の魔物を、同時に、同じ方向に動かせる。普通の兎じゃない・・・」
魔物使い、という言葉がセレナの頭に浮かんだ。生物が魔物を意のままに動かす能力。理論上は人間以外にも存在するとされていたが、実際に見たのは初めてだった。
それだけではなかった。
その兎が、何かをしていた。目を閉じた。一瞬だけ、完全に静止した。それから、目を開けた。何もなかったように、また動き始めた。
「・・・今のは?」
セレナが言いかけた。
騎士団が、後方から飲み込まれていった。悲鳴が上がった。すぐに止まった。虹の波が来て、引いた後には、石畳の上に白い骨だけが残っていた。
前のドラゴン。後ろの魔物。両側から、何もかもが消えていった。ヴァルドは剣を構えたまま、前の悪魔を見た。
悪魔が、口を開いた。
「お前ガ言ッタ。何者カヲ話セ、ト」
「そうだ」
「デハ、話ソウカ。価値ガアルト判断シタカラナ」
人間の声に近かく、そして人間と会思えないほどの狂気さの声で悪魔は紹介を始めた。
「私ハ破滅級ノ魔物、憤怒ノ『サタン』」
それだけ言って、少し間を置いた。
「ソシテ」
視線が後方に向いた。魔物の中に、あの一体の兎が立っていた。生物としての別格の気配を放っていた。ドラゴンの群れも、魔物の波も、その一体の意思の下で動いていた。
「向コウノ可愛イ可愛イ兎チャンハ、破滅級ノ魔物、禍イ兎ト書イテ、禍兎」
骨が散らばった街道に、静けさが来た。
ドラゴンが上空を飛んでいた。禍兎の波が、じりじりと近づいていた。禍兎の名を持つ兎は動かなかった。ただ立っていた。配下の魔物が全て動いているのに、自分は動かなかった。それが余裕からくる静けさなのか、それとも別の何かなのか、セレナには判断がつかなかった。
騎士団は、もういなかった。三人だけが、街道に立っていた。
「名乗ッタ。コレデ十分カ?」
憤怒のサタンが、ティオを見た。ティオは剣を構えたまま答えた。
「目的はなんだ?」
「・・・私ハ憤怒ダ。目的ヲ持ッテ動ク存在デハナイ」
「それが答えか?」
「ソレガ答エダ。オ前ガ欲シガッテイタ、目的トヤラヘノ答エダ。私ニハ目的ガナイ。怒リガ在ルカラ在ル。燃エルカラ燃エル」
ティオが少し黙った。
会話が通じていない。
「・・・分かった」
「分カッタカ?」
「お前と話し合える余地はない、ということは分かった」
セレナが杖を強く握り直した。ティオが息を整えた。ヴァルドは前を向いた。
「・・・話があるなら聞く。ないなら始めろ」
憤怒のサタンは、答えなかった。ただ、笑った。音のない笑いだった。口の端だけが動いた。
「ア、ソーダ。オ名前聞イトカナイトネ、デ、名前ハ?」
「銀白の旅団のセレナ・ローゼン」
「銀白の旅団、ティオ・ブライト」
「不落の剛刃とも呼ばれた、ヴァルド・ハウルス」
「アラ、一人ダケ仲間外レ。可哀想ニ…」
憤怒のサタンは嘲笑うかのように喋った。




