思想の終戦
「・・・はぁ、今思えば、私は何故悪魔を追ってるんだか」
レインはルーベルトを取り戻すため、ルーベルトと1対1で話すため、ユリウスの警告を無視し、セレナやティオやクロカワ、強いてはヴァルドと軽いかかわりを持った。
だが、今はクロカワを殺した悪魔の捜索。面倒この上ないな。
しかし、悪魔の足跡はほとんどないな。
レインは窓から外に出た直後から気配を辿っていた。足音がなくて、魔力の揺れもない。ただ、空気の質が少しだけ違う方向があった。国の女王としてではなく、暗殺者として長く生きてきた体が、その微細な差を拾っていた。その方向に向かって走った。
王都の路地を抜け、市場の裏手を通り、広場を横切った。気配を追いながら走り続けた。追えている、と思っていた。
気配が薄れたのを感じた。その為、一度立ち止まった。路地の行き止まりに近い場所だ。人が来ない時間帯のせいか、周囲に民衆はいない。おまけに、建物が密集していて視界が狭い。
だが、この場所にレインは異常を感じた。
足跡も、臭いも、魔力の残滓も。まるで最初からいなかったように、空気が平静に戻っていた。これほど完全に消えた気配は、今まで追ったどんな人間にもなかった。
見失ったことは過去にもある。でも、ここまで綺麗に消えるのは違う。単純に速い、というだけでは説明がつかない。空間そのものから消えたような感触だった。
何かが来るとしたら、こちらが動いた時だ。
そう判断して、レインは周囲を歩き始めた。見失った地点から半径を広げながら、地面を見て、壁を見て、上を見た。建物の陰に入っって、路地を折れたが、手がかりになるものは何もなかった。
もう一度折れると、路地の突き当たりまで来た。
何もないな、そう思ったレインは後ろに振り返ろうとした、その瞬間だった。
背中に、何かが当たった。衝撃ではなかった。熱くもなかった。ただ、内側に押し込まれるような感触だけがあった。普通の攻撃ではない。体の外側ではなく、もっと奥に触れてくるような何かだった。
壁に手をついて振り向いた。
あの悪魔がいた。白く光る目がこちらを見ていた。何も言わなかった。ただ見ていた。罠だ。追っていたのではなく、引き込まれていた。
短剣を抜いた。距離は近い。踏み込めばすぐに届く。でも、この存在が近距離でどう動くかがまだ分からなかいな。分からないまま待つより動いた方がいい。
そう判断して踏み込んみ、短剣を振った。悪魔が半歩引いたため、刃が空を切った。引いた動きに合わせてもう一度踏み込み、振った。
今度は当たった。でも、刃が通らなかった。金属が何かに弾かれる音がした。皮膚ではなく、もっと硬い何かだ。人間の体の硬さではない。恐らく、骨よりも固い。剣でも傷がつかない可能性がある。そう理解して、距離を取った。
悪魔が動かなかった。ただ、手を上げた。右手を胸の前に持ってきて、指を揃えた。親指と中指を合わせた。
「堕チロ、絶望ヘと」
指が鳴った。
「・・・これは・・・?」
光が消えた。一瞬だけ、何もない場所にいた。音も、感触も、何もなかった。
それから、別の光が来た。赤い光だった。次の瞬間、熱が来た。肌を焼くような、息をするのも苦しくなるような熱が。そして遅れて、煙の匂いが鼻をついた。
目を開けると、立っていた。足元を確認した。黒くて細かい粒が固まった、この世界の石畳ではない素材の地面だ。踏んだ感触が石畳と違う。少し柔らかい。跳ね返りがある。
顔を上げた瞬間、言葉を失った。建物がものすごく高かった。
見上げた。どこまで見上げても建物が続いていた。壁のような建物が、空に向かってそびえていた。ガラスのような透明な素材が割れていた。灰色の棒のような素材が曲がっていた。何かが崩れ落ちていた。石造りではない。木造でもない。
見たことのない素材で作られた、見たことのない形の建物が、左右に何十も並んでいた。塔ではない。縦に細長いのではなく、縦にも横にも大きい。箱を積み重ねたような形をしていた。
道が広かった。この世界の石畳の何倍も広い鼠色の道が、燃えていた。建物が燃えていた。あちこちに火があった。
何処だ、此処は。こんな場所は知らない。どの国にも、どの街にも、こういう形の建物は存在しない・・・はずだ。建物の表面に、看板のようなものが貼ってある。文字のようなものが書いてあるが読めない。この世界の文字ではないのか?
幻覚か?
自分の腕に手を当てた。熱を感じて、鼻に煙が入ってきた。足元を踏んだら、地面の感触が返ってきた。本物だ。幻覚ではない。なら、此処は何処だ。悪魔が指を鳴らして、自分をどこかに飛ばした。この場所は、自分が知っているどこでもない。
周囲に人が倒れていた。いや、人だったものが倒れていた。動いていなかった。燃えていた。この光景を見ても、何も感じなかった。感じている余裕がなかった。今は悪魔の気配を探すことが先だ。
そう判断した瞬間だった。胸に、何かが入ってきた。
前からではなかく、後ろからだった。後頭部から背中、胸を突き抜けて、前に何かが出てきた。レインはその部分を見下ろした。胸から、黒い手が出ていた。右胸と左胸の間を、正確に貫いていた。
「あの悪魔か・・・」
痛みは、一瞬遅れてやってきた。声が出なく、足の力が抜けて膝から崩れた。手が胸から引き抜かれた。倒れながら、まだ考えていた。
あえて外したのか、心臓を貫通してはいなかった。でも、この出血量では長くない。それに、逃げる手段がない。飛ばされた先がどこなのかも分からない。選択肢が、一つも浮かばなかった。
地面に顔がついた。黒い地面の感触が頬に来た。燃えている建物の間から、空が見えた。赤かった。燃えているのか、もともとこういう空なのか、分からなかった。
寒い。こんなに熱い場所にいるのに、体の内側から寒くなっていく。
頭上に気配が来た。あの悪魔とは、別の悪魔が、立っている。顔が近づいて、口が大きく開いた。逃げられない。それは分かっていた。
でも、意識がある間は考えていた。ルーベルトは今頃どこにいるんだろう、と思った。あの子は、無事でいるだろうか。
「・・・目撃者は殺さないといけないんだ。だから、頂くね?」
「!・・・その声・・・お前・・・何故…其処にいる…」
その声を最後に、レインの意識は消えた。
【リュート・アルス】
中庭にしばらくの沈黙が続いていた。
ヴァルドはまだ膝をついていた。体の震えは収まってきていたが、立ち上がる気配はなかった。リュートはその前に座ったまま、何も言わなかった。
セレナが傍に、ルーベルトが、ティオが来た。誰も余計なことを言わなかった。しばらくして、ルーベルトが静かに口を開いた。
「・・・レインさん、まだ戻ってないね」
リュートは少しだけ周囲を確認した。中庭の入口。北棟の廊下。門の方向。
いない。
「レイン・・・あぁ、あの人か。そんで、何処に行ったんだ?」
「悪魔を追いかけに行ってたよ」
「だが、一時間は経ってるんだよな?・・・とりあえず、探しに行くか」
「今すぐは無理よ、ティオ。外の状況がまだ落ち着いていない。ヴァルドの組織の残りの動向も、まだ把握できていない」
「だが・・・」
「だが、は分かってる。だけど、今動けない理由も事実だよ」
セレナが少しだけ声を落として言った。リュートはその会話を聞きながら、中庭の石畳を見ていた。
レインが消えた。追いかけたまま戻ってこない。一時間以上、音沙汰がない。状況から考えれば、いい方向には転んでいない可能性が高いな。でも、確認できない以上、最悪の想定だけで動くのはまだ早いが。
そういう判断が、頭の中に並んでいた。
「ルーベルト、レインのこと、どんくらい知ってんだ?」
ルーベルトは少しだけ間を置いた。
「・・・知らない。今日会ったばかりだよ。でも」
「でも?」
「何か、引っかかるんだよね。あの人のことが。見た時から何かが気になってた。知らない人なのに、知ってる人みたいな感じがして」
リュートはルーベルトを見た。
何かが引き留めている、という言葉を、以前誰かが言っていた。ヴァルドについてだったが、今のルーベルトの言い方も、それに近かった。
「なら、探す価値はあるな」
「そうだね」
「が、今じゃない。今は状況を整理しないといけないからな」
「・・・分かった」
ルーベルトが頷いた。それ以上は言わなかった。でも、その目は別のことを考えていた。リュートにはそれが分かった。
ヴァルドがゆっくりと体を起こした。膝から立ち上がろうとして、少しだけよろけた。ティオが無言で手を差し出した。ヴァルドはその手を少しの間見て、それから掴んだ。
立ち上がった。
「・・・すまない」
ヴァルドが言った。誰に言ったのか、はっきりしなかった。
「何が?」
セレナが言った。
「今日のことが」
「クロカワのこと?」
「それだけじゃない。全部だ」
セレナは少しだけ黙った。
「謝って済む話と、そうじゃない話がある」
「分かってる」
「じゃあ、どうするの?」
ヴァルドは少しの間、中庭の石畳を見た。
「・・・まだ分からない。分からなくなってきた、とリュートに言った。それは本当のことだ」
「分からないままでいていいの?」
「分からないまま動いていたから、今日がこうなった。だから、今は分からないまま止まる」
セレナはその言葉を聞いて、少しだけ目を細めた。
「・・・それだけで、今日は十分かもね」
ヴァルドは何も言わなかった。
リュートは立ち上がった。右腕の傷が少し滲んでいた。脇腹も鈍く痛んでいた。代行思考機構が動いた後の疲弊が、まだ全身に残っていた。それでも、今日やることはまだ残っている気がしていた。
「外の状況を確認する必要がある。ガルシア王への報告も、まだできていない」
「セラフィナも、まだ意識が戻っていないし」
ルーベルトが言った。
「そうか」
「ティオとセレナさんが保護した後、医師のところに運んだって聞いてる。命に別状はないみたいだけど」
「分かった」
リュートはヴァルドを見た。
「ヴァルド、一つ聞く」
「何だ?」
「今日の戦争は、まだ続くか?」
ヴァルドは少し考えた。
「外の組織の動きは、俺が止める。念話で伝えれば、撤退させられる」
「本当に?」
「俺の組織だ。俺の言葉は通る」
「・・・分かった。頼む」
「ただし、これで終わりじゃない。俺がやろうとしていたことを、どうするかは、まだ決まっていない」
「それは、そうだな」
「続きは、俺が考えてから話す」
ヴァルドが少しだけ、リュートを見た。
「・・・なぜ、信じる」
「信じてるわけじゃない。でも、待つ理由はある」
「何?」
「さっき、正しいかどうか分からなくなった、と言ってた。それを自分で認めた人間が、次にどう動くかは、少し見たい気がする」
ヴァルドは何も言わなかった。しばらくして、短く頷いた。
「あと、一つだけ」
「多いな色々。」
「今日、クロカワを殺したのはヴァルドじゃない。悪魔だ。ヴァルドの組織に関わる件は別として、その点だけは、俺の認識としてはそうだ」
ヴァルドが少しだけ目を動かした。
「・・・それを言う必要があったか」
「あった方がいいかと思った」
「・・・そうか」
ヴァルドが中庭の出口に向かって歩き始めた。念話を展開しながら歩いていた。組織への撤退命令を出しているのだろう。その背中を、誰も止めなかった。
セレナがリュートの傍に来た。
「リュート、その腕、ちゃんと診てもらって」
「後で」
「後でじゃなくて今。悪化したら本当に使えなくなるから」
「・・・分かった」
「ルーベルトも。傷が滲んでるよ」
「うん」
ルーベルトが頷いた。でも、視線はヴァルドが消えた方向に向いていた。
「ルーベルトレインのことは、今日が落ち着いてからにする。今はまだ何も確認できていないしな」
「分かってる、リュート」
「分かってても、引っかかるんだろ?」
「・・・そうだよ」
ルーベルトが少しだけ俯いた。
「あの人、絶対に何か知ってる気がする。俺のことを。なんとなくだけど、そう思う」
リュートはその言葉を聞いて、何も言わなかった。肯定も、否定もしなかった。ただ、今日の残りをやり切ることが先だった。
中庭に、朝の光が当たっていた。戦争の日の空だったはずが、今は少し落ち着いた色をしていた。どこかで鐘が鳴った。一つ、二つ、三つ。時刻を知らせる鐘だ。
一日はまだ終わっていなかった。




