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ジョーカー(2)

レインが路地の中に入ってきた。ゆっくりとした足音だった。急いでいる様子がまったくなかった。


セレナとティオは、その人影を認識した瞬間、同時に頭の中で同じ疑問が走った。


何でこいつがいるんだ。


セレナは混乱しながらも杖を構え直した。ティオは剣を手にしたまま、その人影から目を離さなかった。レインは四人の敵を一瞥した。状況全体を確認した。それからルーベルトの方へ歩いた。


敵に背を向けながら、歩いた。


「ちょっと待て」


ヴァルドの部下の一人が動こうとしたため、レインが振り返った。


目が合った。

それだけで、その一人の足が止まった。何かが止めたわけではなく、ただその目を見た瞬間に、体が動かなくなった。


レインはそのまま、ルーベルトの前に立ち、しゃがんだ。


ルーベルトの腕を確認した。短剣使いにやられた左腕の傷。布越しに指先で触れた。深さを確認するような触れ方だった。次に、ルーベルトの目を見た。焦点が合っているかどうかを確認した。それから、顔色を見た。


何も言わなかった。


ルーベルトは、近い距離でその顔を見た。


知らない顔だった。名前も、出会ったこともない。でも、何かが引っかかった。


その引っかかりは、感情的なものではなかった。記憶の底にある何かが、この人間の気配に反応していた。言葉にできない。でも、遠くで何かを思い出しそうな、そういう感触だった。


母親の、面影に近いものが、この人間にあった。何かの間違いだと思った。でも、その感触は消えなかった。


レインが立ち上がった。


「傷は浅いね。とりあえず腕の動脈と神経は無事だ。血が出ているが、今すぐ死ぬ傷ではない」


「・・・誰、ですか」


ルーベルトが聞いた。


「関係ない」


「でも」


「後で話す。今は違う」


レインはルーベルトから視線を外し、四人の方を向いた。


セレナはその瞬間のレインの目を見た。さっきルーベルトを確認していた時の目と、全く別の目だった。感情がなかった。ルーベルトの傷を確認していた時は、何かがあった。今は、何もなかった。


仕事の目だ。セレナはそれを見て、自分の足が少し下がっていたことに気づいた。


「怪我をさせたのは、そこの四人か」


レインがルーベルトに向かって言った。


「・・・そうです」


「分かった」


それだけだった。レインがティオの方へ歩いてきた。


「ちょっと待って・・・貴方は・・・」


セレナが言いかけた。


レインがティオの手から剣を取った。力ずくだった。ティオが握り直そうとした瞬間、手首の内側の腱が通っている場所を親指で押さえた。手根管の正中神経を圧迫する場所だ。手の力が一瞬で抜けた。その間に剣が移っていた。


「・・・返せ」


「後で返す」


「いや、お前・・・元々持っていた短剣は・・・」


「出すのが面倒だから借りる。」


「・・・そうか。」


レインは剣の重さを確認した。手の中で一度だけ握り直した。


「短剣の方が慣れているが、これでも変わらないか」


四人の方へ向いた。


四人が、同時に動いた。連携していた。バラバラに動かず、最初から四人が一斉に来た。前の二人が詰めながら、後ろの魔法使いが術式を展開し、短剣使いが横から回り込む。ティオとセレナとルーベルトの三人を相手にしていた時と、同じ動き方だ。


だが、レインは動かなかった。


ティオがその場面を見ていた。


四人が詰めてくる。四対一だ。どんな動き方をするのか。どう捌くのか。ティオは自分ならどうするかを考えながら、見ていた。


だが、答えは出なかった。


レインが動いた瞬間、その答えを考えることをやめた。考えること自体が、意味をなさなくなったからだ。


最初の一歩が、見えなかった。


踏み込む前の、重心移動がなかった。立っていたかと思ったら、もういなかった。瞬間移動ではない。動いた軌跡は見えている。でも、動き始めの瞬間が見えなかった。


人間が動く時には必ず予備動作がある。筋肉に命令が伝わり、体幹が安定し、地面を蹴る。その一連の流れが、レインにはなかった。あるいは、あまりにも小さくて見えなかった。


前から来ていた大柄の大剣使いが、大剣を構えていた。


リーチは長い。身長と体格が並外れている。大剣の刃渡りを合わせれば、この路地の幅の半分はカバーできる。真正面から入ることはできない。ティオはそう判断して、側面を狙うことで対処していた。


レインは、真正面に入った。


大柄が大剣を振り下ろした。その軌道を見切って、刃の側面に沿って体を滑り込ませた。大剣と体の間の距離は数センチだった。刃が風切り音を立てて石畳を叩いた。


レインはその瞬間、すでに大柄の懐にいた。


大柄との距離がゼロになった状態で、大剣は使えない。リーチの長さが却って(かえって)邪魔になる。大柄がそれを認識して左腕を振ってきた。


レインはその左腕を受けなかった。


左腕の内側に入りながら、大柄の右手首を掴んだ。大剣を持っている手だ。手首を掴んだまま、肘を支点にして大柄の腕を外側に回した。


肩関節の外旋方向への強制的な可動だ。人間の肩関節は、腕を後ろ外側に引かれると、それ以上の抵抗が利かない構造になっている。棘上筋と棘下筋が限界を超えた瞬間、大柄が声を上げた。


大剣が石畳に落ちた。


同時に、右肘の外側側副靭帯に向けて剣の柄頭を叩き込んだ。


外側側副靭帯が損傷すると、肘の回外運動が制限される。掌を外に向ける動作ができなくなる。大剣の柄を握る時に使う回外の動作が封じられた。右腕が大剣を持てなくなった。


大柄の右腕が、内側に折れるように崩れた。一秒以内の出来事だった。


セレナはその動きを見ながら、頭の中で動作を分解しようとした。何をやったのかを理解しようとした。理解できなかった。速すぎるというより、動作の数が多すぎた。一つの流れの中に、三つ四つの別の動きが同時に入っていた。


大柄が崩れる前に、レインはもう別の方向を向いていた。


横から、細身の空手使いが来ていた。細身は速かった。ルーベルトが光の縄を使ってようやく一瞬止められるほどの速さだった。


レインは細身の踏み込みを見て、一歩引いた・・・ように見えた。だが実際は、引いた方向が細身の到達点の真後ろだった。


踏み込む時、人間の体は前方に慣性を持つ。細身が踏み込んできた方向に、レインが後退しながら入り込んだ。細身の到達点にレインがいた。


細身が空振りした。


その瞬間、細身の体は前に突っ込んでいた。突っ込んだ体の後頭部を、レインが手にしている剣の柄頭で正確に打った。


後頸部の僧帽筋と胸鎖乳突筋の境目、後頭下筋群の深部に当たる場所だ。そこには後頭神経と大耳介神経が走っている。強い衝撃がこの部位から脳幹に振動として伝わると、前庭核の機能が瞬間的に乱れる。


前庭核は平衡感覚の中枢だ。そこが乱れると、体が上下左右を認識できなくなる。立つために必要な姿勢反射が消える。


細身が崩れ落ちた。落ちた体が石畳に当たった音が響いた。


その音が終わる前に、レインはもう別の方向にいた。後方の魔法使いが、術式を完成させようとしていた。


障壁だ。高密度の魔法障壁を展開して、レインを押しとどめようとしていた。ティオたちと戦っていた時に何度か展開した、あの硬い障壁だ。


魔法の術式が展開されてから、物理的な障壁として機能するまでの間に、わずかなラグがある。術者が術式の形を整えてから、魔力が実体として固まるまでの時間差だ。その時間は術者の練度によっても変わるが、おおよそ0.2秒から0.5秒程度かかる。そこまで問題じゃないラグのはずだった。


レインは障壁が固まる前に、内側に入っていた。障壁が完成した時、レインはすでに術者の目の前にいた。


魔法使いが後退しようとした。


レインが動きを読んでいた。後退する時、人間は重心を後ろに移してから足を引く。その重心移動が始まった瞬間に、魔法使いの右手を取った。


杖を持っている手だ。母指と示指の間の虎口、合谷と呼ばれる部位の深部に親指を押し込んだ。橈骨神経の浅枝が皮膚に近い場所を走っている。その神経を圧迫すると、拇指と示指の屈筋が脱力する。杖を握る動作に必要な指の力が抜けた。


杖が落ちた。魔法使いが左腕で杖を掴み直そうとした。


レインが左肩の前面、烏口突起の内縁に沿って、指先を差し込んだ。烏口突起の内側には腕神経叢の内側神経束が集まっている。そこを正確に押さえると、尺骨神経と正中神経への信号が遮断される。左腕の前腕から先、手指にかけての動作が止まった。


左腕が使えなくなった。立ったまま戦う手段が消えた。


レインが膝裏の膝窩部に足を当てた。膝窩を通る総腓骨神経が皮膚に最も近い場所、腓骨頭の後面だ。そこへの衝撃は総腓骨神経を一時的に遮断し、下腿の伸筋群が機能を失う。


膝が折れた。魔法使いが壁に背中を預けながら、崩れ落ちた。


「っ・・・なんで、魔法が」


「MPが0だ。後は察しろ」


魔法使いは返す言葉がなかった。その間に、短剣使いが背後から来ていたが、レインは振り返らなかった。


短剣使いの踏み込みの音を聞いていた。石畳に当たる足音の間隔。左右の足音の重さの比率。それだけで、踏み込みの速度と到達点が分かった。


短剣使いが刃を入れようとした瞬間、レインが横に半歩ずれた。


短剣が空を切った。


体勢が前に突っ込んでいた。短剣使いの右足首の外側、外果の前方を走る前距腓靭帯の位置に、自分の足首を合わせた。


体重が乗った状態で前距腓靭帯に内返し方向の力が加われば、靭帯が断裂する。足首捻挫の中で最も頻度が高い損傷機序だ。前距腓靭帯は足首の側方安定性を担っている。それが断裂すると、体重を支えられなくなる。


短剣使いの右足首が、音を立てて内側に崩れた。短剣使いが体勢を崩した。崩れながらも、まだ刃を向けようとしていた。レインが短剣使いの利き腕の肘を取った。


前腕を固定したまま、上腕を支点にして肘に橈骨頭の逆方向への力を加えた。肘関節は矢状面上でしか大きく動かない。前後方向以外に力が加わると、橈骨頭が肘頭との接合部からずれる。


橈骨頭の脱臼。乾いた音がした。短剣使いが声を上げ、短剣が石畳に落ち、そのまま崩れた。


路地が静かになった。ティオは自分が剣を構えたまま、一度も動かなかったことに気づいた。


出番がなかった。割り込む隙間すら、なかった。


路地全体が、レインの動きで埋まっていた。そういう表現しかできなかった。空間の全部を使って、四人の動きを先に読んで、先に位置を取って、先に動作を終わらせていた。四人が動き始める前に、全員の結末が決まっていた。


セレナが杖を下ろした。

指が震えていた。自分でも気づいていなかった。四人が、それぞれの場所で倒れていた。死んでいる者はいなかった。ただ、全員が動けない状態だった。


大柄は肩関節の過伸展と外側側副靭帯の損傷で右腕が使えない。細身は前庭核の機能不全で平衡感覚を失って起き上がれない。魔法使いは腕神経叢の圧迫で両腕が使えない。短剣使いは足首の靭帯断裂と橈骨頭の脱臼で戦闘不能だ。


全員が生きている。それがまた、別の意味で怖かった。


殺そうとすれば殺せた。それは明らかだった。その気になれば、全員の首を折ることも、脳幹を潰すことも、同じ動きの中でできたはずだ。それをしなかった。


意図的にしなかった。感情ではなく、判断として。レインは剣を一度確認した。刃に傷が入っていないか確かめた。問題なかった。


ティオに向かって、剣を持って歩いて、差し出した。


「返す」


ティオは受け取りながら、レインを見た。


「・・・お前、何者なんだ」


「関係ない。黙ってろ」


「・・・」


レインはセレナを見た。


「腕の傷は?」


「浅いわよ。でも・・・」


セレナは路地の四人を見た。全員、倒れている。死んでいない。でも、全員、戦闘不能だ。


「全員、殺していないのね」


「依頼じゃないからな」


「依頼がなければ殺さないの?」


「殺す理由がないから」


セレナは少しだけ黙った。それから、ルーベルトを見た。ルーベルトはレインを見ていた。さっきの、あの感触がまだあった。消えていなかった。


「・・・あなたは、誰ですか」


もう一度、ルーベルトが聞いた。レインは少しの間、ルーベルトを見たが、何も言わなかった。


「後で話す」


それだけ言って、視線を外した。路地の外を確認した。騎士団の気配が近づいてきていた。


「此処にいれば、騎士団が来る。あとは任せればいい」


「あなたはどこに行くの?」


「別の場所に用がある」


「別の場所って」


レインが歩き始めた。路地の出口の方向へ向かった。


「待ってよ」


セレナが言った。レインは止まらなかった。


「名前だけでも教えてくれない?」


足音が止まった。少しの間があった。


「レイン」


それだけ言ってまた歩き始めた。路地の出口を曲がった。足音が遠くなった。路地に、静けさが戻った。ルーベルトは、レインが立っていた場所を見ていた。


母親の面影。それが何を意味するのか、まだ分からなかった。でも、あの感触は確かだった。


騎士団の足音が、路地の外から聞こえ始めた。セレナがルーベルトの腕に手を当てた。


「大丈夫?」


「うん」


「無理しないで。傷、診てもらおうね」


「うん」


ルーベルトは頷きながら、もう一度、レインが消えた方向を見た。


「・・・それじゃあ、僕はセラフィナを安全なところに連れて行くよ」


「分かった。くれぐれも気を付けてね」


そう言い残し、ルーベルトはセラフィナをおぶって、転移魔法でどこかへ消えた。

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