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ジョーカー(1)

路地に静寂が落ちていた頃、ヴァルドは二人の傍に立っていた。セラフィナとリュートの2人が石畳に倒れている。


ヴァルドは腰の長剣に手をかけた。


倒した相手を放置するつもりはない。組織の目的にとって、セラフィナは必要だ。だが、リュートは違う。このまま生かしておくことが、後に問題になる可能性がある。


リュートの傍に近づき、剣を抜いた。


「・・・すまない」




———演算開始———




その瞬間、リュートの空気が一瞬で変わった。段階的に変わったのではなく、何かが切り替わるように、一瞬で変わった。


ヴァルドは剣を持ったまま、止まった。


何かがいる。


リュートはまだ倒れていた。体は動いていないから、意識を失ったままのはずだ。


でも、何かがいる。


先ほどまでリュートから感じていたものが、何もなかった。何かが入れ替わるように、別の何かがそこにいた。


ヴァルドの背中に、何かが走った。


寒気ではなかった。恐怖と呼んでいいのかも、分からなかった。ただ、全身の細胞が一斉に、これは危険だと告げていた。


長く戦い続けてきた。強い相手と向き合ってきた。死の気配を感じる瞬間も、一度や二度ではない。

でも、これは違う。これは、人間が立てる気配ではない。あの時の少年とは思えない。


何か、別の、最悪な何かが、そこにいた。


路地の空気が、重くなった。数十メートル先の市街地で、騒ぎが起きていた。絶魔教団の構成員が数人、この路地の入口付近に控えていた。


その全員が、今、異変を察知した。一人が膝をつき、一人が、壁を掴んだ。何かから逃げるように。また一人、一人と、低く唸り声を上げた。


理由が分からないのに恐怖した。説明がつかないのに、体が動かなくなった。


路地の入口から、一人が逃げ出した。また一人逃げた。組織の人間が、命令も確認もなく、ただ逃げていった。


ヴァルドは動かなかった。逃げる、という選択肢は頭に浮かんでいた。でも、足が動かなかった。動かないのは恐怖のせいではない。戦士としての何かが、そこを離れることを許さなかった。


リュートが、起き上がった。


ゆっくりと、まるで眠りから覚めるように。でも、眠りから覚めた人間の動き方ではなかった。無駄がなさすぎた。人間が動く時の、習慣的な揺れや迷いが、完全になかった。


立ち上がり、ヴァルドを見た。


その目が、違った。


人間の目は、何かを見る時に微かに動き、焦点を合わせ、対象を認識する。その微細な動きが、完全になかった。


「確認を開始。」


声が違った。リュートの声帯から出ているはずなのに、その声には温度がなかった。抑揚がなかった。人間が言葉を発する時の、呼吸の揺れや感情の色が、一切なかった。


「現在状況の整理を開始。宿主:リュート・アルス。重傷を確認。意識消失状態。代行思考機構を起動。本機構は、宿主の生命維持および行動判断を一時的に代行します。」


ヴァルドは剣を構えたが、動けなかった。動けない、というより、動く必要があるかどうかを、判断できなかった。


「対象確認。識別名:ヴァルド・ハルウス。該当個体で相違ありませんか。」


「・・・そうだ」


あの目・・・鑑定眼か?何故、今になって出てきたんだ・・・?


「対象を認識。追加確認を行います。」


「・・・」


「宿主は当方が回収します。当該個体の存在が貴殿の目的に干渉する場合、条件の提示を要請します。」


「条件?」


「提案を提示。

宿主を当方が回収することを許可し、その生存を保証する場合、代行思考機構は貴殿の目的達成に対する演算および判断支援を提供します。

戦略立案、作戦最適化、目標達成確率の算出を含む全機能を提供。当該期間中、本機構は貴殿の指揮下ユニットとして機能します。」


ヴァルドは、その言葉を聞いた。


机上の論理としては、悪くない条件だった。代行思考機構とやらが言っている通りの機能を持つなら、組織の目的を達成するための戦力として有効だ。


でも・・・


「断る」


「理由の提示を要求します。」


「弱者を守るために動いている。その目的のために、誰かを道具として使うつもりはない。お前が何であれ、それは同じだ」


「当該判断は合理性を欠いています。」


「そうかもしれない」


「当該条件下では、宿主の生存確率が低下します。」


「それはお前の問題だろ?」


「推論を提示。宿主は貴殿に損傷を与えています。その戦闘能力を評価しているための判断ではありませんか。」


「評価している。だから、道具にしようとは思わない」


しばらくの間、何もなかった。


代行思考機構が何かを処理しているのか、あるいは別の判断を下しているのか、ヴァルドには分からなかった。


「了解。提示した条件を撤回します。」


「そうか」


「次行動を確認。貴殿は当方の排除を試みますか。」


「そうなる」


「了解。」


リュートの体が構えを取った。人間の構えとは少し違い、効率だけを追求した、感情的な要素が一切ない構えだった。


ヴァルドも構えた。


その時、路地の入口の方向で、足音が聞こえた。セレナとティオが、息を切らせながら路地に入ってきた。


二人とも、状況を一瞬で読んだ。倒れているセラフィナ。構えているヴァルド。立っているリュート。でも、そのリュートの気配に、二人とも足が止まった。


「・・・リュート?」


セレナが言ったが、返事がなかった。ヴァルドの方を見たまま、微動だにしなかった。


「セレナ」


ヴァルドが言った。


「・・・何?」


「セラフィナを連れて下がれ。今すぐ」


「え・・・でも、リュートが」


「今のリュートには近づくな。それと、セラフィナを頼む」


「元々、お前はセラフィナが最初から狙いだったんだろ?何故渡すんだ?」


「状況が変わったから。あれを見れば分かるだろ?」


セレナとティオが顔を見合わせた。


・・・確かに、おかしい。今のリュートはアイアンベアとの戦闘の際に、異様な気配を放っていた。あの時は、下手に刺激しないようにしていたけど・・・


ティオが剣を構えながら、セラフィナの傍に近づき、セラフィナを抱え起こした。呼吸はあり、生きている。


「行け。後でまた奪う」


「結局来るのね。」


ヴァルドが言った。ティオがセレナに目配せし、セレナが頷いた。二人はセラフィナを支えながら、路地の入口に向かって下がり始めた。


その間、ヴァルドは構えたまま動かなかった。代行思考機構も動かなかった。


二人が路地の入口を出た。


音が消えた。


路地に、ヴァルドと代行思考機構だけが残った。


「確認。戦闘行動を開始しますか。」


「そうだ」


「了解。戦闘行動に移行します。」


風が一度だけ吹いて止まり、二人は、向き合った。








【セレナ・ローゼン】




路地を出た後、ティオはセラフィナを背負い、セレナが前を走り、ルーベルトへの念話を繋いだ。


セレナ(ルーベルト、聞こえる?セラフィナちゃんを連れて移動中。あなたに来てほしい場所がある)


ルーベルト(分かった。今向かう。念話係はアベルに頼むね)


セレナ(急いで)


念話を切った。


「どこに向かう?」


「騎士団の詰所が市街地の北側にある。そこまで持ち込めれば、あとは引き渡せれるね」


「距離は・・・」


「歩いて十分。でも、セラフィナちゃんを抱えているから、もう少しかかるよ」


二人は走り始めた。石畳の上を、セラフィナを背負ったティオが走り、セレナが隣を走りながら、周囲の気配を確認し続けた。


市街地の通りは、人が少なかった。ガルシア王による、外出自粛の通達が出ていたからだけど、何かを察して引き込んでいるのか。


「誰かいる」


ティオが言った。セレナもうすうす、魔力感知で感じていた。後方から、二つの気配が追ってきていた。


速いな。騎士団の通常の訓練では出せない速さだ。絶魔教団の中でも、別格の動き方をしている。


「止まらないでよ」


「分かっている」


走り続けた。角を曲がった瞬間、前方に二人が立っていた。気配は後方からだと思っていた。でも違った。後方の二人と、前方の二人は別だった。


前後から、挟まれていた。


「・・・そういうことか」


前方の二人を確認した。


一人は大柄だった。体格が並外れている。腰に大剣を提げていた。その大剣が、体の大きさに見合っていた。もう一人は細身だった。手に何も持っていない。両手が空のまま、立っていた。空手の方が、気配が重かった。


後方の二人は、セレナが振り返って確認した。一人は魔法使いの装備をしている。もう一人は短剣使いに見えた。


「私が後ろを取る。ティオはセラフィナを下ろして前を頼む」


「了解だ」


ティオはセラフィナを壁際に下ろした。崩れ落ちないよう、壁に背中を預けさせた。呼吸は続いている。


ティオが剣を抜いた。


前方の大柄な一人が動いた。大剣を抜く予兆なしに、ただ踏み込んできた。ティオが受けた。だが、重かった。一合で、足が石畳を削った。想定より二倍以上の力だった。


「・・・重いな」


ティオが言った。感情的ではなく、確認するように言った。


大柄な相手が二合目を打ってきた。今度は横から。ティオが剣を合わせると同時に、体を後ろに逃がした。衝撃を流した。それでも、腕に残った。


もう一人の細身の相手が、動いた。前に踏み込んできた。手が何もないまま、ただ踏み込んできた。ティオはその間合いに入れさせなかった。剣の腹で押さえながら、一歩横に出た。


細身の相手の足が、予想外の方向に動いた。ティオの剣の軌道を読んで、その内側に入ろうとした。

間合いが詰まり、ティオが後退した。


「厄介だ」


大柄と細身の二人が連携していた。大柄が正面から力で押し、細身がその隙に内側に入る。二人の動き方が合わさっていて、個別に対処しようとすると隙ができる。


後方では、セレナが魔法使いと短剣使いを相手にしていた。


バーーーン


水の弾を連射した。魔法使いが障壁を展開したため、弾かれた。そこから三発、四発と続けた。障壁が揺れたが、崩れなかった。


「硬いね・・・」


セレナがつぶやいた。


短剣使いが横から回り込んできた。セレナは後退しながら水の弾を撃った。短剣使いが刃で弾いた。予想していたより素早かった。


ズバーーーン


今度は大きな水の槍を作って、魔法使いの障壁に向かって叩き込んだ。障壁がひびを上げた。崩れはしなかったが、揺れ方が変わった。


「もう一回」


セレナが杖を構え直した。


その瞬間、短剣使いが背後に回っていた。気づいた時には近かった。後退できなかった。刃が左腕を削いだ。傷は浅かったが、痛みで手元が揺れた。


「ッ……」


短剣使いが再び踏み込んできた。


「セレナさん!」


ルーベルトが来た。路地の端から走り込んできた。魔力を全身に展開しながら、短剣使いの軌道に割り込んだ。


短剣使いが方向を変え、ルーベルトと向き合った。


「入るのが遅いよ!」


セレナが言った。


「ごめん。迷ってしまって」


「でも来てくれてよかった。助かった」


「後でいいので、状況を教えてください」


「後ろが魔法使いと短剣使い。前がティオ一人で大柄と細身の二人組を相手にしてるけど、どちらも強い。特に前の二人の連携が厄介」


「分かりました」


ルーベルトが短剣使いと向き合いながら、魔力感知を展開した。後方の魔法使いの魔力の流れを確認した。障壁の構造を読もうとした。


「セレナさん、障壁の右下の角を続けて叩いてください。そこだけ隙間があるので」


「どこ?」


「今から指示する方向に撃ってください」


セレナが杖の向きを変えた。ルーベルトが短剣使いと押し合いながら、指示を出した。


三発。


三発目で、障壁の右下角が崩れた。


「今」


セレナが全力で水の弾を叩き込んだ。崩れた角から、弾が中に入った。魔法使いが体勢を崩した。


「ティオさん、今なら少し動けるよ」


「分かった」


ティオが大柄な相手に集中した。細身の相手が動こうとした瞬間、ルーベルトが短剣使いを一時的に押さえながら、光の縄を細身に向けて投げた。


足に絡まった。


一瞬だけ、細身の動きが止まった。その一瞬で、ティオが大柄の腕を大きく弾いた。体勢が崩れた。


でも、崩れただけだった。倒れなかった。大柄がすぐに立て直した。光の縄を切った細身が、また動き始めた。四対二で、なお押されている。


ルーベルトは状況を確認した。

魔法使いが障壁を再展開しようとしている。短剣使いが隙を探している。前方では、ティオが一人で二人を相手にしながら、セラフィナを壁の外に出させないようにしている。


「このままじゃ、長くない」


セレナが言った。


「分かってる」


「ルーベルト、救援を呼べる手段は・・・」


「一つあります。でも、来る保証はないです」


「それでいいよ。やって」


「分かりました」


ルーベルトは魔力で合図を飛ばした。


通常の念話ではなく、特定の周波数で、広域に飛ばす種類の信号だ。学校でエルンスト先生から習った救援要請の魔法信号。念話が届かない距離や、念話を持たない相手にも届く形式だ。


信号を飛ばした後、何秒か経った。


十秒。


二十秒。


三十秒。


短剣使いがルーベルトに踏み込んできた。受け流した。大柄がティオに押し込んできた。ティオが壁際まで押された。


「来ないかもしれないね」


セレナが言いながら、杖を構え直した。腕から血が出ていた。セレナが息を吐いた。






その時、何かが上から降りてきた。音ではなかった。気配でもなかった。ただ、何かが近づいてきていた。


全員が、一瞬だけ動きを止めた。


絶魔教団の四人も、止まった。


路地の入口に、人影が立った。


白いコートが、日の光に当たっていた。


淡い茶髪。短剣。腰の鞘。


足音が、路地に響いた。


ゆっくりとした足音だった。急いでいる様子が、まったくなかった。


その人影が、路地の中を見渡した。


倒れているセラフィナ。傷を負ったセレナとティオとルーベルト。向き合っている四人の相手。


全部を確認した。


それから、その目が少し変わった。


口の端が、動いた。


不自然な笑みだった。面白いものを見つけた時の顔でもなく、戦いを楽しんでいる時の顔でもない。もっと別の何かが混じっていた。ルーベルトには、その笑みが何を意味するのか、すぐには分からなかった。


「随分と、にぎやかなことになってるね」


レインの声は、いつも通り平坦だった

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