別離(2)
最初に口を開いたのは、レティシアだった。
「生きてたんだね」
「ああ」
会話が、そこで一度止まった。
いつもと同じような言葉のやり取りだった。でも、いつもとは違う何かが、その言葉の下にあった。
「ルグと話したと聞いた」
「セレナから連絡が来たのか?」
「念話で。セレナちゃん、愚痴ってた。ヴァルドが逃げ出したって」
「セレナには悪いけど、あのまま付き合わされてたら、ほぼ確で日が暮れる。」
「たしかに。」
レティシアがクスッと笑った。でも、瞳は悲しみをたたえていて、涙が滲んでいた。
「クロカワとエルンストともあったんだっけ?」
「そうだ。いつも通り、エルンストがクロカワを使って人体実験をしてた。」
「いつも通りの光景だね。クロカワ、生きてるかな?」
「・・・さあ、俺には分からないからな」
レティシアは少しの間、ヴァルドを見た。
今のヴァルドの顔が、砦の廊下で二人で話していた時のヴァルドと、同じ人間のものだとは少し信じにくかった。
「聞いていい?」
「何だ?」
「人を殺して・・・後悔してない?」
「していない」
「・・・そう」
「お前はどう思う?」
レティシアは少しだけ間を置いた。
「間違えだと思う。だけど、そう思っても、止められなかった自分も間違えたと思う」
「それは・・・お前のせいじゃない」
「そうかもしれない。でも、廊下で話した時に、もう少し踏み込めばよかったと思ってる。覚醒勇者になってから、一人でいることが多くなった。ヴァルドとの距離が遠くなった。それは自分の選択で起きたこと」
「お前が覚醒勇者になったのは、お前が選んだわけじゃない」
「でも、遠くなることを選んだのは私だ」
ヴァルドは少しの間、黙っていた。
「・・・ヴァルド、分からないことがある」
「・・・」
「聞いていい?」
「何だ?」
「今も、弱者を守りたいと思っている?」
「思っている」
「なのに、なんで人を殺したの!」
レティシアの声が、初めて上がった。あの静かで、何事にも揺れることのなかった彼女の声が。それが街道に響いた。だけど、ヴァルドは動じなかった。
「その理由は簡単だ。弱者を守るために殺している」
「守るために殺すは矛盾しているよ!」
「矛盾していない。未熟な魔法使いが弱者を傷つける。それを排除すれば弱者への被害が減る。論理として成立している」
「成立していない!未熟な者が成長する可能性を消してる!」
「成長するまでの間に、弱者が傷つく」
「だから育成の仕組みを作る。時間がかかっても、それが正しい方法だよ!」
「時間がかかる間、誰が弱者を守るんだ?」
「それは・・・別に考えるよ」
「別に考える、か」
ヴァルドの声が、少し冷えた。
「理想を並べて、別に考えると言う。その間にも弱者は傷つき続ける。それを見ながら別に考えると言える者は、弱者が傷つくことに慣れた者だ」
レティシアの目が、鋭くなった。
「慣れているんじゃない!全部を一度に解決できないだけだよ!」
「結果として同じことだ」
「同じじゃない!慣れることと、できる範囲でやることは全然違う!」
「できる範囲でやる、という言葉が一番無責任だ」
「無責任じゃない!」
「無責任だ。できる範囲、という言葉は、できない部分への責任を放棄することを正当化する言葉だ」
レティシアは息を吸った。
・・・落ち着け。
頭では分かっていた。感情が先に動いていることも分かっていた。でも、止まらなかった。
「ねぇ・・・ヴァルド」
「何だ?」
「身内の人も殺したと聞いた」
「ああ。未熟だったから」
「その人たちは、貴方のことを知っていた人たちだよ!」
「だから何だ」
「だから何だ、じゃない!知っていた人を殺せるの!それで何も感じないの!」
「感じた。それでも止まらなかった」
「何で!」
「感情を理由に止まるなら、弱者を守ることも感情を理由に止まる。一方だけを感情で動かすことはできない」
「感情があるのに、それを全部殺して動けるの・・・?」
「殺していない。感じた上で、それより優先することを選んだ。それだけだ」
レティシアは少しの間、黙った。その時、頭の中で世界律が何か言い始めた。
ヴァルドを殺せ
「・・・黙ってて」
小声で言った。世界律ではなく、自分自身に言い聞かせるように。
「レティシア」
「何!」
「お前は今、感情で話している」
「分かってるよ!」
「感情で話すことを、俺は否定しない。ただ、感情は俺を動かす根拠にならない」
「じゃあ、何が根拠になるの・・・?」
「弱者が守られること、だ。それだけが根拠だ」
「その根拠の取り方が間違えている!」
「どこが間違えているか、お前はまだ証明できていない」
「証明できなくても間違えているよ!」
「感覚で?」
「そう!感覚で言ってる!それの何が悪いのよ!」
「悪くない。ただ、俺の行動を止める根拠にはならない」
レティシアは歯を食いしばった。
論理では勝てない部分がある。自分でも分かっていた。エルンストが証明できていないと言っていた通り、排除の論理の誤りを完全に言語化できていない。
でも、間違えていると感じている。その感覚が、今この瞬間、感情になって出てきていた。
「ヴァルド」
「何?」
「止まって」
「理由は全部聞いた」
「理由より先に止まってほしい!」
「それは聞けない」
「なぜ!」
「理由のない要求に従う理由がないからだ」
「理由はある!貴方に死んでほしくないから!このまま進めば、ヴァルドは誰かに止められる!その時には取り返しがつかない状態になっている!そうなってほしくない!」
ヴァルドは少しの間、動かなかった。その目が、微かに動いた。
「レティシア」
「何・・・?」
「俺も同じことを思っている」
「何を言って・・・」
「お前に死んでほしくない。覚醒勇者として狙われる立場にいる。世界律のせいで眠れていない。そういうお前に、死んでほしくないと思っている」
レティシアは何も言えなかった。
「だから、お前が止めに来るなら、俺はお前と戦わなければならない。それは避けたい」
「避けたいなら止まって!」
「止まれない」
「何で!」
「止まることと、弱者を守ることが、俺の中では繋がっているからだ。止まることは、弱者を見捨てることだ。それは選べない」
「止まることが弱者を見捨てることじゃない!止まって、別の方法を考えることができるよ!」
「考えてきた。ずっと・・・ずっと・・・。でも、答えが出なかった。だから、こうして動いている」
「一人で考えたの?」
「そうだ」
「何で一人で考えたの?仲間が・・・いるのに・・・」
「・・・」
ヴァルドはレティシアを見た。
その目に、何かがあった。感情を制御している目ではなかった。何かを堪えている目だった。
「レティシア」
「何だ」
「お前に迷わせたくなかった」
「迷わせる、ってどういう意味なの?」
「言葉通りの意味だ」
「説明して!」
「・・・お前がそばにいると、俺は迷う。弱者を守ることを優先するべきか、それとも別のことを優先するべきか、分からなくなる。それが嫌だった」
「別のこととは何?」
ヴァルドは答えなかった。
「ヴァルド、答えて」
「今の話に関係ない」
「関係ある!・・・気がする・・・」
「関係ない。今は弱者を守ることの話をしている」
「関係ないと何で言い切れるの!」
「言い切れる。俺が決めることだから」
「また一人で決めてる。・・・一人で決めて、一人で進んで、それで全部うまくいくと思っているの!仲間は何のためにいると思っているの!私たちは何だったの!」
「仲間だった」
「今も仲間だよ!」
「今は違う」
その言葉が空気を変えたような気がした。レティシアは動かなかった。
「今は違う、ってどういう意味・・・?」
「仲間というのは、同じ方向に向かっている者たちのことだ。今の俺とお前は、向いている方向が違う。だから、仲間とは呼べない」
「方向が違っても仲間だよ!」
「それは甘さだ」
「甘さじゃない!」
「甘さだ。方向が違う者を仲間と呼ぶことは、どちらの方向も正しいと認めることになる。俺はお前の方向が正しいとは思わない。お前も俺の方向が正しいとは思わない。なら仲間ではない」
「仲間かどうかを、方向で決めるな!」
「では何で決める?」
「繋がりで決める!今まで一緒にいたことで決める!」
「今まで一緒にいたことは事実だ。でも、それが今後も仲間であることを保証しない」
「保証がなくても仲間だ!」
「レティシア」
ヴァルドの声が、静かになった。
感情が消えたのではない。全部の感情を、その静けさの中に押し込めたような、そういう静けさだった。
「俺はお前を止めようとは思っていない。覚醒勇者として、世界律を守ることは必要だ。それを続けてくれ。頼む」
「ヴァルドを止めることも、覚醒勇者の役割になるかもしれない」
「なるかもしれない。その時は戦う」
「戦いたくない!」
「俺もだ」
「なら止まって!」
「止まれない」
レティシアは唇を結んだ。
頭の中で、何かが繋がろうとしていた。ヴァルドが言っていることの、言葉の奥にあるものを、理解しようとしていた。
でも、今は理解することより、感情の方が先に動いていた。
「ヴァルド」
「何?」
「今すぐ答えを出さなくていい。止まって、一緒に考えることだけでいい。それだけ頼む」
「頼みを聞く理由がない」
「理由を作れと言っているんじゃない!頼んでいる!」
「レティシア」
「何だ!」
「お前が泣きそうな顔をしている」
「泣いていない!」
「そうか」
「泣いていない。ただ、怒っている」
「分かっている」
レティシアはため息を吐いた。それは、とても深く、長い物だった。
頭の中で世界律が、ヴァルドを殺せ、と言っていた。
うるさかった。
「ヴァルド」
「何だ?」
「今日の話は、全部無駄だった?」
「無駄ではない」
「でも、何も変わらなかった」
「そうだな」
「そうだな、か」
レティシアは少しの間、ヴァルドを見た。
全部決まった顔をしていて、迷いは一切なかった。でも、止まりたくなると言った。お前に死んでほしくないと言った。
その言葉が、頭の中でまだ残っていた。
「最後に一つだけ聞く」
「何だ?レティシア」
「此処に来たのは、なぜ。騎士団に追われているのに、こうして街道を歩いて、仲間たちと会っている。なぜ」
ヴァルドは少しだけ間を置いた。
「・・・分からない」
「分からない?」
「意識して来たわけじゃない。ルグのカフェも、服屋も、路地のエルンストたちも、たまたま会った」
「私も、たまたま?」
「そうだ」
レティシアは少しだけ目を伏せた。
「たまたまだとしても、会いに来た理由はあるはずだ。自分でも気づいていないだけで」
「かもしれない」
「その理由が何かを、考えてほしい」
「考える」
「本当に?」
「本当に」
「・・・信じる」
レティシアはそう言ってから、少しだけ息を吸った。
「でも、ヴァルドの今やっていることは間違えていると、私は思い続ける。それは変わらない」
「分かっている」
「変えさせようとも思い続ける」
「分かっている」
レティシアは少し口を動かしかけたが、止めた。言いかけた言葉が何だったのかは、自分でも分からなかった。
「行くの?」
「ああ」
「また会うかもしれないね。その時は」
「その時は、その時だ」
ヴァルドが動き始めた。
街道を、別の方向に歩き始めた。レティシアは立ったまま、その後ろ姿を見ていた。
止めなかった。
止める言葉が、もうなかった。全部使い切った。論理も、感情も、頼みも、全部ぶつけた。それでもヴァルドは歩いていった。
・・・止まりたくなると言った。
その言葉が、頭の中に残っていた。
止まりたくなるということは、何かが引き留めている。何かが迷わせている。その何かが何なのかを、ヴァルドは言わなかった。
・・・言わなかったけど
なんとなく、分かる気がした。でも、それを今ここで言葉にすることが、何か怖かった。なぜ怖いのかも、分からなかった。
世界律がまた話しかけてきた。だけど、別のことを言っていた。
「分かってる」
ヴァルドの後ろ姿が、街道の向こうに消えた。
胸の中に、何かが残った。怒りの残滓と、それ以外の何かが、一緒になって残っていた。それ以外の何かが何なのかを、レティシアはまだ知らなかった。知ることを、少し怖がっていた。
それも、まだ気づいていなかった。




