別離(1)
【ルグ・ハルフェン】
数日後。
村のカフェは、街道沿いにある小さな店。
木の扉と、石造りの壁。窓が二つ。中にテーブルが四つ。客は少なく、いつも静かだった。
ルグはその店に、たまに一人で来ていた。
特別な理由があるわけではない。学校から少し離れた場所で、静かに座っていたい時に来る。それだけだった。頼むのはいつも、温かいハーブの飲み物だ。甘くない。苦みがある。それが好きだった。
今日も一人で来て、窓際の席に座って、飲み物を飲んでいた。
外では、秋の日差しが石畳に当たっていた。
ヴァルドの件から、数日が経っていた。続報はいくつか入ったが、本人の居場所はまだ確認できていない。騎士団の追跡は続いているが、Sランク相当の者を追跡することの難しさが、報告書の行間から読み取れた。
ルグは飲み物を一口飲んだその時、扉が開いた。
入ってきた人間を見て、ルグは手を止めなかった。飲み物を置いて、入口の方を見た。
ヴァルドだった。
目の下に、クマがなかった。
以前は常に、うっすらと疲労の影があった。睡眠が足りているようで、何かを考え続けているような、そういうクマが。だけど、今はなくて、顔が妙にすっきりしていた。
全部吹っ切れた人間の顔だ、とルグは思った。
ヴァルドはルグを見た。驚いた様子はなかった。
「・・・いるとは思わなかった」
「私もそう思います」
「入っていいか?」
「どうぞ」
ヴァルドが中に入り、ルグの向かいの席に座った。店員が来て、ヴァルドが飲み物を頼んだ。ルグと同じものを頼んだ。特に意図があるわけでもなさそうだった。
飲み物が来るまで、二人とも何も言わなかった。店内は静かだった。他の客は一人だけで、奥の席で本を読んでいた。
飲み物が来て、ヴァルドが一口飲んだ。
「苦いな」
「このお店、苦いコーヒーしか取り扱ってませんよ」
「そうなのか?」
「そうですよ。」
「・・・お前はよくこれを飲むのか?」
「たまに来ます」
「たまにか。」
少しの間、沈黙があった。外で風が吹いて、窓ガラスが小さく鳴った。
「ルグ」
「はい」
「俺のことを探しているか?」
「騎士団が探しています。私は今日は一人でここに来ました」
「そうか」
「貴方を捕まえに来たわけではありません。今のところ」
「今のところ、か」
「状況次第です」
ヴァルドは少し口の端を動かした。笑ったのかもしれなかった。
「意外と正直なんだな」
「嘘をついても意味がないので」
「レティシアも同じことを言ってた」
「・・・そうですね」
ルグは飲み物を持ったまま、ヴァルドを見た。
目のクマがない。顔が穏やかだ。以前のヴァルドとは、明らかに何かが違う。以前は、何かを抑えている緊張感がその顔にあった。だけど、今はその緊張感がなかった。
これは、何かを決めた人間の顔だ。
「話しに来ましたか?」
「そうだ」
ヴァルドは窓の外を少し見てから、ルグに視線を戻した。
「俺が何をしたか、知っているな」
「報告書で確認しました」
「・・・どう思う?」
「今どう思うか、ということですか?」
「そうだ」
ルグは少しだけ考えた。どう思うか、という問いに対して、正直に答えるべきかどうかを考えたわけではない。何から話すべきかを考えた。
「驚きました。ただ、驚いた後に、何故そうなったかを考えました」
「それで、答えは出たか?」
「残念ながら、出ていません。でも、いくつかの要因は思い当たります」
「聞かせてくれ」
「魔力の歪みの話。育成の話。あの任務での出来事。それから、覚醒勇者になったレティシアとの距離が遠くなったこと。その全部が重なった可能性があります」
「正確だな」
「当たっていますか?」
「ほぼ全部当たっている。」
ヴァルドは飲み物をもう一口飲んだ。
「なぁ・・・俺は間違えたと思うか?」
ルグは答えなかった。
間違えた、という言葉を、どういう意味で使っているのかを確認する必要があったから。
「貴方が間違えたかどうか、という問いに対して、私が答えを持っているわけではありません。ただ、貴方が選んだことで、死んだ者がいます。それは事実です」
「それが間違いだと思うか?」
「間違いかどうかより、その選択がどこへ向かっているかを考えた方がいいと思います」
「どこへ向かっている、か」
「貴方の選択の論理を延長していくと、排除の対象がどんどん広がる可能性があります。未熟な魔法使いの次は、何になりますか」
「・・・」
「貴方の身内の者たちも対象になりました。それは当初の論理から外れていたか、あるいは論理を延長した結果でしたか」
ヴァルドは少しの間、窓の外を見た。
「論理を延長した結果だ」
「そうですか」
「おかしいと思うか?」
「思います。でも、貴方がそう判断した経緯は理解できます。この二つは矛盾しません」
ヴァルドがルグを見た。
「おかしいと言いながら、理解できると言うのか・・・」
「はい。おかしいということと、なぜそうなったかを理解することは、別のことです。理解できることが、肯定を意味するわけではない」
その言葉を聞きながら、ヴァルドは飲み物を飲み干した。
「レティシアは元気か?」
「見た目は元気です。ただ、世界律がうるさいようで、眠れていない日が続いているらしいです」
「そうか」
「貴方のことを、考えていると思います」
「考えていても、どうにもならないだろう」
「そうかもしれません」
ヴァルドは立ち上がった。
財布から硬貨を取り出して、テーブルに置いた。飲み物の代金と、少し多い金額だった。
「ルグ・・・お前は、いつもどおりだな」
「そうですか」
「ああ。人が死んで、仲間が変わって、それでもいつもどおりだ」
「いつもどおりにするしかないので」
「それは強さか」
「性格だと思います」
ヴァルドは少し口の端を動かした。
「そうか」
扉に向かって歩き始めた。
扉に手をかけた時、ルグが口を開いた。
「ヴァルド」
「なんだ」
「また、話しに来てください。止める止めないの話ではなく、話すだけでいい。この苦い飲み物を飲みながら」
ヴァルドは扉を押さえたまま、少しの間止まった。
「来るかもしれない」
「来なくてもいいです。ただ、来てもいいということだけ、伝えておきたかった」
「・・・そうか」
扉が開いた。
秋の光が、一瞬カフェの中に差し込んだ。
ヴァルドが出て行った。すぐに扉が静かに閉まった。
ルグは飲み物を持つと、まだ温かかった。
窓の外を見ると、ヴァルドが街道を歩いていくのが見えた。その後ろ姿は、以前と同じ歩き方だった。
でも、何かが違った。
以前は、何かを抑えながら歩いていた。今は、抑えているものがない。それが、良いことかどうかは分からなかった。
ルグは飲み物を一口飲んだ。
服屋の前を通りかかった時、中から声が聞こえた。
「これ、どうよ?」
「どうと言われても、よく分からないが・・・」
「分からないって言わないで。青と緑、どっちが似合うか聞いてるの!」
「どちらも似合うんじゃないか。」
「それは答えになってないよ!」
ヴァルドは足を緩めた。
窓ガラス越しに、中が見えた。
セレナが青い上着を持って、ティオに向かって掲げていた。ティオは困った顔で、それを見ていた。別の手には緑の上着がある。どちらもティオが持っている、という状況からして、セレナに持たされたのだろう。
・・・騒がしいな。
いつもどおりだ、とも思った。
世界が変わっても、二人はこうして服屋で言い争っている。それが何か、遠い場所の光景を見ているような感覚を生んだ。
「ヴァルド君!!!」
セレナの声が、窓ガラスを通して飛んできた。声の方を振り返ると、セレナが窓の向こうからこちらを見ていた。目が合った。
・・・見つかった。
一瞬だけ逃げることを考えたが、セレナが既に店の入口に向かって走り始めているのが見えた。
「ちょっと待って!逃げないで!」
扉が開いた。
「来て来て。ティオの服選び、手伝って」
「俺は服の選び方を知らないぞ?」
「知らなくていいの。持ってるだけでいいから」
気づいたらセレナに腕を掴まれていた。
引っ張られるまま、店の中に入った。ティオが振り返った。ヴァルドを見て、一瞬表情が変わった。驚きと、安堵と、それ以外の何かが混じった表情だった。
「ヴァルド」
「久しぶりだな、ティオ」
「ああ」
「元気そうだ」
セレナが青い上着をヴァルドに押しつけた。
「はい、これ持って。ティオに当ててみて」
「当てるとはどういう意味だ?」
「ティオの前に持っていって、似合うか確認するの」
「俺に分かるか。」
「分かんなくていいの。見た目の問題だから。はい、やって」
「ええ・・・」
ヴァルドは上着を受け取った。
ティオの前に移動して、上着を胸の前に当てた。
「・・・どうだ」
「どうと言われても・・・」
「俺も同じことを思う」
「二人ともそれを言わないで!」
セレナが別の棚から緑の上着を持ってきた。ヴァルドが持っている青と並べて、ティオを見比べた。
「うーん。青かな、やっぱり」
「そうか」
「ヴァルド君はどう思う?」
「どちらでも変わらない気がする」
「変わるよ!全然変わるよ!」
店員が遠くからこちらを見ていた。三人組の奇妙な服選びを、静かに見守っていた。
セレナが青い上着をティオに押しつけながら、ヴァルドを横目で見た。
「ヴァルド君さ」
セレナが少し口をすぼめた。追求するかどうかを考えている顔だった。
「なんだ」
「なんで魔法使いを、殺したの?」
店の中が少し静かになったように感じた。
セレナの声は責めているわけではなかった。怒っているわけでもなかった。ただ、正直に聞いた、という感じだった。
ティオが青い上着を持ったまま、動かなかった。ヴァルドは手に持っていた緑の上着を、棚に戻した。
「弱者を傷つけているから、だ」
「未熟な魔法使いが?」
「そうだ。技術が足りないまま現場に来る。判断力が育っていないまま魔法を使う。その結果、村人が怪我をする。子供が余波を受ける。老人の腕が折れる」
「それを見たの?」
「見た。俺が任務に行った時、そういう現場があった」
「それが理由で」
「それだけじゃない。積み重なっていた。魔力の歪みの話から始まって、育成の話を聞いて、実際に見て。それが全部繋がった」
セレナは上着を棚に掛けながら、聞いていた。
「でも、身内の人も」
「未熟だったから」
「それだけ?」
「それだけだ」
セレナはヴァルドを見た。
「ヴァルド君、怖くなかった?」
「何が?」
「殺すのが。知ってる人を殺すのが」
ヴァルドは少しの間、答えなかった。
「怖かった。でも、止まる理由にはならなかった」
「・・・なんで?」
「怖いから止まるなら、弱者を守ることも途中で止まる。怖さを理由に止まる判断ができるなら、怖さを理由に続ける判断もできる。どちらを選ぶかだ」
セレナは少しの間、黙っていたその時、ティオが口を開いた。
「お前は今、後悔しているか?」
「していない」
「そうか」
「ティオは、俺を止めようとするか?」
ティオは少しの間、答えなかった。
「今すぐは、しない」
「ルグも同じことを言っていた」
「そうか」
「今すぐしない理由は・・・?」
「まだ話していないから、だ。お前の話を、ちゃんと聞いていなかった。今日少し聞けた。それだけだ」
「・・・」
セレナが別の棚を見るふりをしながら、目だけでヴァルドを見ていた。
その一瞬、セレナの視線が外れた。
ヴァルドは動いた。店の入口に向かって、真っ直ぐ歩いた。
「あっ!」
セレナが振り返った時、ヴァルドは既に扉を開けていた。
「ちょっと!逃げないで!まだ話が——」
「また会う。じゃあ、またどこか」
扉が閉まった。その閉まった扉をセレナは見続けていた。
・・・逃げられた。
鮮やかに逃げられた。服選びに付き合わせておいて、隙を見て逃げた。
「ティオ」
「なんだ」
「今の、どう思う」
「・・・生きていることは分かった」
「そうだね」
セレナは扉から視線を外した。
そのあと、すぐに念話を繋いだ。
セレナ(レティちゃん、聞こえる?)
ヴァルドは街道を歩いていた。
服屋での会話が、頭の中を流れていた。セレナとティオは、止めようとしなかった。今すぐは、と言った。それはルグと同じ答えだった。
三人が同じ答えを出したことが、何かを示している気がしたが、何を示しているのかは、まだ分からなかった。
曲がり角を過ぎた時、路地の端で奇妙な光景が目に入った。
クロカワが木箱の上に座って、全身に魔法陣のような印を描かれていた。腕に、首に、頬に。インクか何かで書かれた複雑な文様が、びっしりと並んでいた。
その傍でエルンストが、紙にメモを取りながら杖を構えていた。
「次は電撃系の複合魔法を試す。準備はいいか」
「いい、は言ってない。せめて、また痛くないやつにしてくれ!」
「痛みの有無は試してみないと分からない」
「それが一番怖いんだよ!」
ヴァルドは足を止めた。二人が気づいた。
クロカワが顔に書かれた魔法陣ごと、表情を変えた。
「ヴァルドだ」
「何をしている?」
「見ての通り、実験体です」
「断れなかったのか?」
「断ったんですが、気づいたら印を描かれていました」
「またかよ。」
「またです。」
エルンストがメモを取る手を止めて、ヴァルドを見た。
「元気か?」
「一応」
「そうか」
エルンストはそれ以上言わなかった。報告書の内容について、追及しない。それがエルンストらしかった。
「なぁ、邪魔したか?」
「邪魔ではない。ただ、クロカワの集中力が切れた。一度休憩にする」
「俺が来なければよかったな」
「そういう意味ではない」
クロカワが木箱から降りた。腕に描かれた文様を見ながら、少し顔をしかめた。
「ヴァルドさん、少し話せますか?」
「何だ」
「報告書、読みました」
「そうか」
「正直に言うと、最初は信じられなかったです」
「今は?」
「本人が目の前にいるので、信じました」
ヴァルドは路地の壁に背を預けた。
「何か聞きたいことがあるか」
「あります。ヴァルドさんは、今も止まるつもりがないですか?」
「ない」
「そうですか」
「お前は止めようとするか?」
クロカワは少し考えた。
「今すぐは、しません」
「皆、同じことを言う」
「そうですか。でも、今すぐしない理由は少し違うかもしれません」
「どう違うんだ?」
「ルグさんやティオさんは、まだ話していないから止めない、と言ったんじゃないですか。僕は、止める方法が分からないから止めない、が正確です」
「正直だな」
「嘘をついても意味がないのでね」
ヴァルドが少し口の端を動かした。
「エルンストはどうだ」
エルンストが手元のメモから顔を上げた。
「俺には、止める理由も、止めない理由もない」
「どういう意味だ?」
「お前が何をしているかは分かっている。その論理の構造も理解できる。ただ、それを止めるべきかどうかについて、俺には判断する根拠がない」
「根拠がない、とはどういう意味だ」
「未熟な魔法使いが弱者を傷つけることが問題だ、という前提は正しい。その前提から排除という結論を出したことの論理的な誤りを、俺はまだ証明できていない。証明できていないことを根拠に止めるのは、俺には難しい」
「・・・」
「ただし、論理的な誤りがあると仮定した場合の話を聞くか?」
「聞く」
「排除によって未熟な者がいなくなれば、未熟から成長する可能性もなくなる。未熟な者がいない世界では、成長という現象が消える。弱者を守る者も、最初は未熟だったはずだ。お前もそうだったはずだ」
「・・・」
「それだけだ。答えは出していない。判断はお前がしろ」
クロカワが腕の文様を眺めながら言った。
「エルンストって、たまにすごいことを言うよね?」
「たまにではない。いつも言っている。」
「気づきませんでした。」
「「いや気づけよ。」」
ヴァルドは壁から背を離した。
「・・・何処へいくんですか?」
「クロカワ・・・それは言えない」
「そうですか・・・お元気で」
「ああ。エルンストもな」
「・・・」
路地を出て、街道に戻った。
歩き始めてから、エルンストの言葉が頭に残っていた。
弱者を守る者も、最初は未熟だったはずだ。それは事実でもある。自分も最初は未熟だった。では、自分が未熟だった時に排除されていれば、今の自分はいなかった。今の自分がいなければ、守れた弱者もいなかった。
その計算が、さっきから頭の中で繰り返されていた。
答えが出なかった。
街道を北へ向かって歩いていた時、前方に人影があった。
覚醒勇者の気配が、遠くから伝わってきた。世界律の、白金色の気配。
レティシアだった。
一人で歩いていた。封印の確認に行った帰りか、あるいは別の用があったのかは分からない。
ヴァルドは歩き続け、距離が縮まった。
レティシアが顔を上げた。
目が合った。
二人とも、足を止めた。
街道の上に、二人だけがいた。風が吹いて、草が揺れた。遠くに山脈の稜線が見えた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。




