祭壇
砦が近づくにつれ、空気が変わった。
冷たさの質が違う。山の冷たさではなく、もっと淀んだ、閉じた場所の冷たさだ。風が遮られているせいもあるだろうが、それだけではない気がした。
レティシアは剣の柄に無意識に手をかけていた。気づいて離したが、また数歩歩くと戻っていた。
・・・雰囲気が悪い。
「止まれ」
ヴァルドが小声で言い、全員が足を止めた。
砦の正面入口に向かう道と、右手に続く細い踏み分け道の分岐点に来ていた。グンナルが言っていた二手に分かれる場所だ。
「どちらから入る」
「正面は人目につきやすいと言っていた。裏手の旧道から入る方が安全だと思う」
「そうだな。ただ、旧道の状態が分からない。使えない可能性もある」
「使えなければその時に考える」
「そうだな。右だ」
右の踏み分け道に入った。道幅は狭く、両脇から低木の枝が張り出している。足元の石が不規則で、歩きにくい。確かにほとんど使われていない道だ。
ルイスが枝に顔を引っかけそうになったため、レティシアが前に出て枝を払いながら歩いた。
「ありがとう」
「うん」
・・・この子、文句を言わないな。
十歳の男の子が、山道を何時間も歩いて、文句の一つも言わない。三日間一人でいた子供だから、忍耐が身についているのかもしれない。それが少しだけ、痛かった。
旧道は砦の裏手に回り込むように続いていて、やがて石造りの壁が見えてきた。砦の外壁だ。苔が生えていて、一部が崩れかけている。廃砦という話は伊達ではない。
壁に沿って進むと、グンナルが言っていた抜け穴があった。壁の下部に、大人が一人通れる程度の開口部が空いている。鉄格子が嵌まっていたらしいが、今は外れて脇に立てかけられていた。
「最近誰かが通った」
ヴァルドが格子の断面を確認しながら言った。
「錆びていない。外されたのは最近だ」
「先生たちか」
「あるいは先に誰かが使った」
「どちらにしろ、入る」
全員が順番に抜け穴を通った。内側に出ると、石畳の中庭があった。雑草が石の隙間から伸びていて、廃墟の風情がある。だが、地面に足跡があった。複数人の、新しい足跡だ。
「人がいる」
「気配は?」
レティシアは目を閉じて、感覚を研ぎ澄ませた。
空気の流れ。石の冷たさ。遠い振動。
「・・・奥の方。複数人。戦闘はしていない。静かにしている」
「数は?」
「十人以上。正確には分からない」
「敵意は?」
「感じない。でも、緊張している気配がある」
「先生たちかもしれない」
「確認しに行く。ただし、全員警戒は解かないで」
全員が頷いた。
中庭を抜けて、砦の内部に入った。石造りの廊下は薄暗く、窓から差し込む光だけが足元を照らしている。埃の匂いと、それに混じってかすかに、人の匂いがした。
「此方だ」
ヴァルドが気配を辿りながら進んだ。
廊下の突き当たりに、重い扉があった。扉の向こうから、人の声がかすかに聞こえた。
レティシアは扉に耳を当てた。
複数人の声。言い争いではない。何かを話し合っている。落ち着いた声と、焦りを含んだ声が混じっている。
そして、その中に聞き覚えのある声があった。
・・・ラズロイ先生だ。
「先生がいる」
「中に?」
「うん」
ヴァルドが扉のノブに手をかけた。
「開ける」
扉を押した。
重い石の扉が、軋みながら開いた。
広い部屋だった。かつては作戦会議室として使われていたのかもしれない。中央に大きな石のテーブルがあり、その周囲に十数人が集まっていた。
全員が一斉にこちらを向いた。
バルガファルイス養成学校の教師たちだった。全員がいる。そして、テーブルの端に、見慣れた人物が座っていた。
くたびれた外套、乱れた髪、手に酒瓶。
ラズロイだった。
「・・・お前たち、何で此処にいる」
ラズロイが呆れたような、困ったような顔でこちらを見た。
「先生こそ、何で此処にいるんですか」
セレナが真っ先に言った。その声に、僅かに怒りが混じっていた。
「何も言わずに出て行って、学校には先生が誰もいなくて、生徒は何も知らなくて、私たちはギルドに記録を確認しに行って此処まで来たんですよ?」
「・・・巻き込みたくなかった」
「巻き込まれに来ました」
「そうか」
ラズロイは酒瓶を一口飲んだ。それから八人を順番に見て、ルイスで視線が止まった。
「・・・その子が、ルイス・カルファドか」
「そうです」
「連れてくるなよ。此処は危ない」
「此処に置いておく方が危なかったので」
「・・・そうか」
ラズロイはまた酒を一口飲んだ。テーブルの周囲にいた他の教師たちが、複雑な表情で七人を見ていた。
「ラズロイ先生」
レティシアが口を開いた。
「此処で何が起きているか、教えてください」
ラズロイは少しの間、酒瓶を見ていた。それから顔を上げて、全員を見渡した。
「座れ。簡単なことだ律喰の贄の準備を行っていたところだ」
全員が部屋の中に入り、思い思いの場所に腰を下ろした。ルイスはレティシアの隣に座った。自然に、当たり前のように。
・・・いつの間にか、この子の定位置になっている。
レティシアはそう思いながら、ラズロイの方を向いた。
ラズロイは酒瓶を置いた。珍しいことだった。話す時に酒を置くのは、それだけ真剣な話だという意味だと、レティシアは学校生活の中で覚えていた。
「それで、今からルイスを此処に連れて行こうと思っていたが・・・」
「俺たちがもう既にここに連れてきてしまったってことか?」
「そうだな」
ラズロイは全員を見渡してから、立ち上がった。
「地下への道は私が案内する。他の先生たちはこの場に残って——」
その時、別の教師の一人が部屋に飛び込んできた。息を切らしていた。
「ラズロイ先生、外に気配があります。複数、砦の周囲を囲んでいます。世界律解放同盟の残党かと」
「早いな」
ラズロイの声は落ち着いていたが、目が鋭くなった。
「ゼルが拘束されたことで、組織が動いたか。此奴らの目的はルイスだ。此処に来た以上、簡単には引かない」
「どうする」
「お前たち七人は今すぐルイスを連れて地下の祭壇へ向かえ。此処の先生たちで時間を稼ぐ」
「先生たちだけで対処できますか」
「できる。あの程度の残党、俺たちで十分だ」
ラズロイはそう言いながら、初めて酒瓶を机の引き出しにしまった。しまったのを見て、レティシアは少し驚いた。
・・・本気だ。
「地下への階段は廊下を左に曲がって、一番奥の扉の先だ。扉には鍵がかかっているが、これで開く」
ラズロイが鍵を投げてきた。ヴァルドが受け取った。
「祭壇に着いたら、ルイスを中央の台座に立たせろ。後は世界律が判断する」
「判断する、とはどういう意味ですか」
「行けばわかる」
「その答えは好きじゃない」
「俺も好きじゃないが、他に言い方がない。行け。時間がない」
全員が立ち上がった。
ルイスも立ち上がった。その顔が、初めて少しだけ青ざめていた。
廊下を走った。
左に曲がり、一番奥の扉を目指す。砦の外から、何かがぶつかる音が聞こえた。戦闘が始まっている。ラズロイたちが時間を稼いでくれている。
一番奥の扉はすぐに見つかった。ヴァルドが鍵を差し込んで回すと、重い音を立てて解錠された。
扉の先に、石の階段が続いていた。下に向かって、螺旋状に降りていく。エルンストが光の球を浮かべ、全員が階段を降り始めた。
足音が石に響く。空気が変わった。地下の空気だ。湿っていて、冷たくて、長い時間閉じ込められてきた場所の匂いがする。
階段を降り切ると、広い空間に出た。
天井が高く、石の柱が等間隔に並んでいる。床には複雑な文様が刻まれていて、その中央に、低い台座があった。台座の表面にも文様があり、それが床の文様と繋がっていた。
部屋の奥の壁には、何かが封印されていた。壁の一部が淡く光っていて、その光が時折揺れる。規則的ではない、不安定な揺れ方だ。
・・・あれが、核の欠片か。
「祭壇だ」
ヴァルドが言った。
全員が中央の台座を見た。そして、台座の上に立つべき人間を見た。
ルイスは台座を見ていた。その目が、じっと動かなかった。
「ルイス」
レティシアが声をかけた。
「・・・なに」
「少し話していい?」
ルイスはレティシアを見た。それから周囲の六人を見て、また台座を見た。
「・・・うん」
レティシアはルイスの前にしゃがんだ。目線を合わせた。
他の六人が、自然と少し離れた。この二人のための空間を作るように、静かに下がった。
「生贄に、なりたい?」
部屋の中が静かになった。
台座が光を受けて、ルイスの顔を照らしていた。十歳の男の子の顔だ。小さくて、まだ幼い輪郭をしている。三日間一人で生き延びて、何時間も山道を歩いて、それでもここまで来た顔だ。
ルイスはしばらく、レティシアを見ていた。
その目が、少しずつ動いた。
台座を見て、壁の光を見て、天井を見て、また床の文様を見て、それからもう一度レティシアを見た。
「・・・なりたくない」
声は小さかった。でも、はっきりしていた。
「なりたくない。死にたくない。まだ、いろんなものが見たい。山の景色も、あの高山植物の花も、湖の色も、もっと見たい。ご飯も食べたい。眠れる場所で眠りたい。怖くない夜がほしい」
ルイスの声が、少しだけ震えた。
「三日間、一人でいた時、ずっと怖かった。死ぬのかと思った。でも死ななかった。レティシアさんが来てくれたから。みんなが来てくれたから。だから、まだ生きてる」
「そうだね」
「だから、なりたくない。生贄に、なりたくない」
レティシアはルイスの目を見たまま、答えた。
「分かった」
「でも・・・なりたくないって言ったら、世界が」
「世界の話は、大人がする。貴方は自分の気持ちを言えばいい。なりたくないなら、なりたくないでいい」
「でも——」
「ルイス」
レティシアは静かに続けた。
「貴方が怖いと感じる権利は、誰にも奪えない。なりたくないと思う気持ちは、正しい。十歳の子供が、世界のために死ぬ義務なんてない。そんな義務は、最初からない」
「でも、世界律が——」
「世界律が決めたことと、貴方がどう感じるかは、別の話だ。世界律は貴方を選んだかもしれない。でも、貴方の気持ちまでは決められない」
ルイスの目に、何かが溜まった。
零れなかった。零れなかったが、溜まっていた。
「・・・レティシアさんは、どうするの」
「私は、貴方を死なせない方法を考える。それが見つかるまで、貴方のそばにいる」
「見つかる?」
「分からない。でも、諦めてもいない。それだけだよ。昨日もそう言った」
ルイスは少しの間、動かなかった。
それから、細い腕でレティシアの首に抱きついた。
声は出なかった。泣き声も、嗚咽も、何もなかった。ただ、その腕に力があった。今まで一人で抱えてきたものの重さが、その細い腕の力に全部込められているようだった。
レティシアは、その背中にそっと手を当てた。
何も言わなかった。言う必要がなかった。
部屋の中が静かだった。
六人が、それぞれ黙って別の方向を向いていた。ヴァルドは壁の封印を見ていた。ルグは床の文様を見ていた。セレナは天井を見ていて、その目が少し赤かった。エルンストは自分の手を見ていた。クロカワは柱を見ていた。ティオは扉の方を見ていた。
誰も、この場に割り込まなかった。
しばらくして、ルイスが離れた。目を擦って、深く息を吐いた。
「・・・分かった」
「何が?」
「レティシアさんが諦めないなら、僕も諦めない。それだけ」
「それだけで十分だよ」
レティシアが立ち上がった。その瞬間だった。
「上の戦闘音が、止んだ」
ティオが扉の方を向いたまま言った。
全員が気づいた。
さっきまで砦の上から聞こえていた戦闘の音が、いつの間にか消えていた。ラズロイたちが倒したのか、それとも。
足音が聞こえた。
階段を降りてくる足音だ。一人分。速くも遅くもない、落ち着いた足音だった。
全員が扉に向いた。剣の柄に手がかかる。エルンストが魔法の構えを取る。セレナが光魔法の詠唱に入る。
扉が開いた。
立っていたのは、ゴージャスな戦闘服を着た女だった。
彼女はゆっくりと部屋の中に入ってきた。足音が床の文様の上を踏んで、台座の手前で止まり、ルイスを見た。
「お前が、ルイス・カルファドか」
声は静かで、感情の色がなかった。
ルイスは答えなかった。レティシアの後ろに、自然と下がった。
「答えなくていい。分かっている」
「其処をどけ」
ヴァルドが前に出た。
「ルイスに近づくな」
「邪魔をするな。これは依頼だ」
「依頼?」
「暗殺依頼だ。この子供を殺す。それだけだ」
その言葉を言った瞬間、轟音と共に彼女は消えていた。それと同時に、レティシアに鮮血がかかった。
横を見るとルイスの顔がなくなっていた。首を切られ、そこから吹き出した鮮血が噴き出していたのだ。
噴き出した後、頭がなくなったルイスは崩れるように倒れた。
「はい、依頼完了。10歳の少年だ。せめて、苦痛なく殺してやった。じゃあな」
「は・・・」
その瞬間、レティシアは剣を抜いて、レインに襲い掛かった。




