トンネル
絶景を背にして歩き始めてから、まだ一時間も経っていなかった。
山道は傾斜を保ったまま続いていて、足元の岩が少しずつ大きくなっていた。高山植物の花が道脇に点在していて、風が吹くたびに揺れては元に戻る。空は相変わらず高く澄んでいたが、日が落ち始めていて、稜線の影が長くなっていた。
「この先に、岩場が張り出した場所がある。風を遮れる地形だから、今夜の野営場所にできそうだがどうする?」
ティオが地図を確認しながら言った。
「賛成」
「異議なし」
「私も」
「じゃあそこで」
それだけ話し合って、全員が歩き続けた。が、一つ問題があった。
「あ、魔法が発動しない」
「え?エルンストそれマジ???」
「まじ。」
「じゃあどうする?てか何で発動しないのさ」
ヴァルドが辺りを調べまわると、一つの大きな紫色の水晶が目に入った。
「これじゃないか?」
ヴァルドが無理矢理その水晶を破壊して、その欠片を皆に見せつけた。それを見たエルンストは目を大きくさせていた。
「それは、禁魔晶だ」
「禁魔晶?なんだそれ?」
「これは、魔法を吸収する石だ。此奴が近くにあるだけで、魔法は使えなくなってしまう。」
「じゃあ、僕とは無縁のものだな。」
「そうだな。MPが1とかいう想定外中の想定外な存在なんだよ、クロカワお前は。」
「お褒めに預かり、光栄に存じます。」
「それで、どうやって火をつけるの?」
今一瞬、クロカワが何か文句を言っていた声が聞こえた気がするが、気のせいだろうか。そんなことよりも、火をつける方法を考えないと。
「とりあえず、薪を集めて・・・まぁ、とりあえずあの石砕いてどこか遠くの所に置いとくか」
そう言うと、クロカワが真っ先に石を破壊し始めた。それを見て、何か対抗心が芽生えたのか分からないけどヴァルドも石破壊に加わった。
その欠片をエルンストとルグが回収していたため、私とセレナ、ティオはとりあえず薪集めをすることにした。
そのよくわからない光景をルイスは近くの岩場に座りながら眺めていた。
「なんでクロカワとヴァルドが一緒に石を壊してるの?」
「私にも分からない。」
「・・・そういうもの?」
「そういうもの。」
ルイスはしばらく二人を眺めてから、小さく頷いた。諦めたような、納得したような顔だった。
にしても、脳筋すぎる。
薪を拾いに行った三人が戻ったのは、日が完全に沈む手前だった。
魔法に関しては戻った時には使えるようになっていたため、それで火をつけた。
山の中での夕食は質素で、干し肉と乾燥パンと、セレナが魔法で出した湯で戻した乾燥野菜だけだったが、それでも温かいものを食べられるというだけで、体の芯から力が戻ってくる感覚があった。
「エルンスト、料理得意なのに、こういう時は普通のもの作るんだね」
クロカワが干し肉を噛みながら言った。
「道具がない。素材がない。火力が安定していない。三つそろったら何もできない」
「つまり言い訳を三つ用意したということか」
「クロカワ、次の実験付き合ってくれるよな?」
「遠慮しときます。」
ルイスは食べながら、焚き火の炎をじっと見ていた。揺れる炎を見る目がどこか遠かった。
何を考えているのかは分からなかったが、レティシアは何も聞かなかった。聞かなくていいと思った。
この子が何を考えているかを全部知ろうとしなくていい。傍にいれば、必要な時に言う。それだけで十分な気がした。
「ルイス、おかわりある?」
「・・・いる」
「はい」
セレナが追加の乾燥パンを渡した。ルイスは受け取って、また黙って食べ始めた。
「ルイスって、結構食べるよね」
「そう?」
「十歳の男の子にしては、かなり食べてると思う」
「・・・三日間、あんまり食べてなかったから」
「そっか。じゃあたくさん食べていいよ。セレナのバッグには食料がたくさん入ってるから」
「ほんとに?」
「ほんとに。今日はちゃんと入れてきたから」
「昨日は入ってなかったの?」
「・・・訂正、今日もちゃんと入れてきた。」
ルイスはそれを聞いて、少し考えるような顔をしてから、また食べ始めた。
セレナがルイスに食べ物を渡す時の顔は、いつもと少し違う。笑ってはいるが、少し柔らかい。ルグがクロカワの怪我を縫う時の顔と、少し似ている。七人がそれぞれ、ルイスへの接し方を自分なりに決めていく。教え合ったわけでもないのに、それぞれのやり方で。
食事が終わり、見張りの順番を決めた。昨夜と同じく二人ずつの交代制だ。
「今夜は最初、ティオと私で」
「了解」
「ルグはルイスの側にいてほしい。昨日と同じで」
「分かりました」
ルイスは焚き火の脇に荷物を枕にして横になった。目を閉じる前に、レティシアの方を見た。
「また一人になる?」
「ならない。今夜もここにいる」
「・・・分かった」
目を閉じた。今夜は昨夜より早く、眠りに落ちるのが早かった。
疲れているのだろう。山道を歩き通した体の疲れと、ずっと張り続けていた緊張が少し緩んだのかもしれない。それでも眠れているということは、この七人の傍が、この子にとって少しだけ安心できる場所になっているということだ。
・・・よかったと思う。素直に。
夜明け前に全員が動き始めた。朝食は昨夜の残りを手早く食べて、荷物をまとめた。
「昨夜何かあった?」
ヴァルドが見張りを終えたセレナに聞いた。
「何もなかった。静かだった。あ、クロカワが見張り中に一回居眠りしたくらい」
「してない。」
「してた。」
「少しだけうとうとしただけだ。」
「それを居眠りって言うんだよ。」
「・・・」
「怪我した腕が痛かったのでは」
ルグが静かに言った。
「痛かった、というか、夜中に冷えると少し疼いて・・・」
「言ってください。対処できます」
「大したことないから」
「大したことなくても言ってください。悪化してからでは遅い」
「・・・すみません」
「謝らなくていいです。ただ、次からは言ってください」
クロカワは少し居心地が悪そうな顔をしてから頷いた。
ルグはこういう時、押しつけがましくない。ただ、必要なことを必要な分だけ言う。クロカワが「大したことない」と言っても流さず、でも責めもしない。どこでそれを覚えたのかは分からないが、この七人の中でルグの言葉が一番素直に届く場面がある。
歩き始めて一時間ほどで、景色がまた変わった。
昨日とは別の方角から稜線が迫ってきて、道が岩峰の間を縫うように続き始めた。両脇の岩壁が高く、空が狭くなる。だが、その分だけ風が遮られて、体感温度が少しだけ上がった。
「此処、景色が違う」
ルイスが言った。
確かに、昨日の開けた絶景とはまた別の景色だった。岩が近く、質感が見える。岩肌に刻まれた筋や、雨水が流れた跡が、手を伸ばせば触れられる距離にある。
「触っていい?」
「いいよ。」
ルイスが岩壁に手を当てた。ひんやりとした感触が伝わったらしく、少し目を細めた。
「冷たい」
「何千年もここにあるからな」
ヴァルドが言った。
「何千年?」
「この山脈がいつできたかは分からないが、少なくとも人間の歴史より古い。人間が此処で生まれる前から、この岩は此処にあった」
「・・・すごい」
「そうだな」
ヴァルドにしては珍しく、それ以上何も言わなかった。自分が言ったことが、自分でも少し意外だったのかもしれない。
レティシアは岩壁を見ながら歩いた。
何千年も此処にある岩。その岩の隙間を、今自分たちが歩いている。世界律の話だとか、封印だとか、そういう大きな話の中にいるはずなのに、岩の冷たさとか、足元の石の硬さとか、そういう具体的なものの方が今は鮮明に感じられた。
・・・不思議なものだな。
道の入口は、岩峰の間に切り込むような形で存在していた。外から見ると岩の陰になっていて、意識して探さなければ気づかない場所だった。
通路の幅は人が二人並んで歩ける程度で、両脇の岩壁がそそり立っている。上を見上げると、岩と岩の隙間から空が細長く見えた。
「整備されているな」
ティオが足元を見て言った。確かに、岩の表面が均一に削られていて、躓きにくいように段差が処理されている。少なくとも、放置された道ではない。
「最近、誰かが通った跡がある」
ヴァルドが通路の壁を指した。松明を差し込む金具が等間隔に設置されていて、その一部に新しい油の染みがあった。
しばらく進んだところで、岩壁の中に扉があった。
重厚な金属製の扉で、表面に細かい文様が刻まれている。扉の傍に、小さな窓口があった。
「誰かいますか?」
ルグが窓口に向かって声をかけた。
しばらく沈黙があって、窓口の向こうから声が返ってきた。低く、よく響く声だった。
「誰だ?」
「通行の確認をしたいのですが」
「此処は一般の街道じゃない。何者だ」
「バルガファルイス養成学校の学生と、その関係者です。ラズロイという人物がこの道を通ったかどうかを確認したくて来ました」
窓口の向こうが少し静かになった。それからがちゃりと音がして、扉が開いた。
現れたのは、身長が110㎝ほどしかない、がっしりとした体格のドワーフの男だった。白髪交じりの豊かな髭を顎の下まで伸ばし、厚手の作業着を着ていて、目が鋭く、こちらを値踏みするように見上げてきた。
ドワーフだ。初めて見た。思っていたより、ずっと存在感がある。
「ラズロイを知っているのか」
「先生です。私たちの」
「・・・先生?」
ドワーフは八人を順番に見回した。レティシアを見て、ヴァルドを見て、セレナを見て、ルイスを見て、最後にルグを見て、少し目を細めた。
「お前さんたちが、ラズロイの生徒か」
「そうです。此処を通りましたか?」
「通った。三日前だ。酒臭かった。」
「それはラズロイ先生で間違いないです。」
セレナがすかさず言った。ドワーフが少し表情を緩めた。
ドワーフの名前はグンナルといった。この山脈の管理道を代々守ってきた一族の現当主で、数十年をこの山の中で過ごしてきた人物だった。
「ラズロイが此処を通ったのは三日前の夜明け前だ。一人でな。荷物は少なかった。急いでいる様子だったが、それでもちゃんと通行料は払っていった。あいつにしては珍しい」
「先生、普段は払わないんですか」
「昔はよく無銭通行しようとした。その度に俺の親父が怒鳴りつけていたが、懲りない奴だった」
「・・・そうですか」
「お前さんたちも後を追うのか」
「はい」
「何があるか分かって行くんだろうな。ドレイン砦の周辺は、最近おかしな気配がある。俺たちは関わらんようにしているが、一週間ほど前から砦の方角で時々魔力の揺れを感じる」
「魔力の揺れ?」
「大きくはない。でも、定期的だ。誰かが意図的に何かをやっている時の揺れ方だ」
ヴァルドとレティシアが視線を交わした。
「他の先生たちもこの道を通りましたか。昨夜、複数名が同じ方向に向かったという記録がギルドにありましたが」
「昨夜の深夜に六人通った。みんな急いでいた。通行料はちゃんと払った」
「全員無事でしたか」
「俺の目の届く範囲では全員無事だった。砦に着いてからは知らん」
グンナルはそう言ってから、八人をもう一度見渡した。視線がルイスで一度止まった。
「子供を連れていくのか」
「はい」
「置いていく方が安全じゃないのか?」
「置いていく方が危険な事情があります」
グンナルは少し考えてから、頷いた。
「まあ、お前さんたちの事情に口を出す気はない。ただ一つだけ言っておく。あの砦への道は、途中で二手に分かれている。左は正面入口に向かう道で、人目につきやすい。右は裏手に回る旧道で、今はほとんど使われていないが、砦の中に直接入れる抜け穴に繋がっている」
「裏道があるんですか」
「俺の先祖が砦の建設に関わっていたからな。そういう道を知っている。正面から入るより、裏手から入る方が良い場合もある。状況次第だが、覚えておいて損はない」
「ありがとうございます」
「通行料は一人頭2Lだ」
「払います」
セレナが財布を出した。八人分、ルイスの分も含めて16L分をグンナルに渡した。グンナルはそれを手のひらで確かめてから、懐にしまった。
「行っていいぞ。道は真っ直ぐだ。分岐点に印がついているから迷うことはない。ただ、途中に一箇所だけ天井が低い場所がある」
グンナルは全員の身長を確認するように見てから、ヴァルドで視線を止めた。
「お前さん、頭を打つかもしれないから気をつけろ」
「・・・分かった」
「背の高い人間は此処の道では不便だ。せいぜい頭を低くして歩くことだ」
「わかった」
「返事は一回でいい。行け」
全員が道に進み始めた。グンナルが扉を閉める音が後ろで響いた。
「ヴァルド、頭大丈夫?」
セレナが小声で聞いた。
「まだ打ってない。」
「でも打ちそうな予感がする」
「打たない。」
それから十分ほど歩いたところで、天井の低い区間が現れた。他の全員は問題なく通れる高さだったが、ヴァルドだけがほぼ直角に腰を曲げなければならなかった。
「・・・」
「ヴァルド、大丈夫?」
「大丈夫だ」
「無理してない?」
「無理してない」
「そう・・・頑張って」
「うるさい。」
ルイスがその光景を見て、小さく吹き出した。
全員が一斉にルイスの方を向いた。ルイスはすぐに口を押さえて、真顔に戻ろうとした。だが戻り切れなかった。
「・・・笑ってもいいよ」
レティシアが言った。
「え?」
「笑える時は笑っていい」
ルイスは少し迷ってから、また小さく笑った。今度は隠さなかった。
セレナも続いた。クロカワも。
「笑うな。」
「ごめんごめん」
「全然ごめんと思ってないだろ」
「・・・少しは思ってる」
「少ししか思ってないのか」
「ヴァルド、天井」
「分かってる、分かっているかr・・・」
ごん、という音が岩壁に反響した。全員が静止した。
「・・・」
「大丈夫?」
「・・・大丈夫だ」
「本当に?」
「大丈夫だと言った」
ヴァルドは腰を更に深く曲げて、無言で歩き続けた。その後ろを、笑いを堪えた六人とルイスが続いた。
ルイスは笑いながら歩いていた。声を出してではなく、口を押さえながら肩を揺らしている。三日間一人でいた子供の笑い方とは思えないほど、素直な笑い方だった。
それを見て、レティシアは何も言わなかった。ただ、前を向いて歩いた。
天井の低い区間を抜けると、道は再び広くなり、やがて出口が見えてきた。
外に出た瞬間、冷たい山の空気が全身を包んだ。山脈の内側から抜け出した先は、緩やかな斜面になっていて、その向こうに稜線が続いている。空気の質が、フィンペル王国側とは少し違った。もっと薄く、冷たく、静かだった。
「此処がローザリア公国側か」
ティオが周囲を見渡しながら言った。
「まだ国境の内側だ。砦まではここから更に歩く」
エルンストが地図を確認しながら答えた。
道の先には山の斜面が続き、その向こうに、石造りの構造物の輪郭がかすかに見えた。
「行こう」
頭頂部をさりげなく押さえながら、ヴァルドが言った。誰も指摘しなかった。




