ネメシオン
【カラミス】
斥候が戻ってきたが、顔が青い。報告を聞く前に、其の顔だけで何が起きたか大体は分かった。
「レヴァナ様の軍勢が……」
「話せ」
「二万の軍勢が、壊滅しています。幻界獣ネメシオンが……」
カラミスは少しの間、黙った。
二万が壊滅。
其の言葉を、頭の中で一度繰り返した。
二万の軍勢が、どれほどの時間で壊滅したのか。斥候が往復できる時間を考えると、長くて三十分だ。二万の軍勢が三十分以内に壊滅した。
「レヴァナは」
「満身創痍の状態で、まだ戦闘中とのことです」
「誰と?」
「……ネメシオンと、思われます」
カラミスは城壁の方向と、後方の方向を交互に見た。
状況が変わった。
当初の作戦は、最初の一万でカーベルの防衛を消耗させ、レヴァナの二万で壊滅させる。焦燥と絶望で防衛側を崩して、カーベルを落とす。其れが全体の設計だった。
レヴァナの二万が来ない。おまけに、レヴァナ自身が満身創痍だ。
援軍がない状態で、今ここにいる軍勢だけで戦うことになる。其の軍勢は、一時間以上の戦闘で既に数を減らしていた。
カラミスは計算した。
今の戦力と、カーベルの防衛側の戦力。
援軍なしで、今から全力を出せば、五分五分。勝てないわけではない・・・が、負けないわけでもない。
五分五分という状況は、カラミスにとって最も不快な状況だった。決まっていない状況が、最も焦りを生む。
だが、選択肢がなかった。
引くことは、この性質上できない。
作戦が崩れても、止まることの方が苦手だ。動き続けることの方が、此の存在には合っていた。
「全軍に伝えろ」
カラミスは言った。
「俺が前に出る。全力で当たる。作戦は此処で変える」
配下が顔を見合わせた。
「しかし、カラミス様が前に出るとなれば・・・」
「構わない。此処で止まっている方が耐えられない」
仕方がない。
其の言葉が、カラミスの中に出てきた。珍しいことだった。仕方がない、という感触は、諦めに近い。焦燥のカラミスにとって、諦めは最も遠い感情のはずだった。
それでも今夜は、其の言葉が出てきた。嫌な予感が、まだ後方から来ていた。
滅界獣ネメシオン。
其の存在が何者なのかを、カラミスは知っていた。知識としては。ただ、実際に此の場に現れるとは思っていなかった。
「動くぞ」
カラミスが城壁に向かって踏み出した。其の一歩が、軍勢全体を動かした。
【レヴァナ】
二万の軍勢が、消えていた。此処に来た時には確かにいた二万の存在が、今は誰もいなかった。
夜の草地に、自分一人が立っていた。
体が重かった。
各所に傷があった。腕の感覚が薄かった。足を動かすたびに、体の奥から鈍い痛みが来た。
それでも、立っていた。
前に、白い存在がいた。
巨大だった。10mを超える体が、月明かりの中で白く光っていた。金色の目が、こちらを見ていた。
怒りは感じなかった。此の存在から来るのは、その種の感情ではなかった。
ただ、そこにいた。
レヴァナは其の存在を見ながら、自分の能力を使っていた。
悲しみを呪いに変える。
自身が抱える悲しみを、対象への継続的な呪いに変換する能力だ。発動すると、対象に持続的なダメージを与え続ける。防御魔法を貫通する。距離に関係なく機能する。十三魔将の中でも、此の能力の持続力は特異なものとして知られていた。
其の呪いを、目の前の白い存在に向けて何度も放っていた・・・が、何も起きていなかった。
能力が機能していないのではなかった。レヴァナ自身は、呪いが対象に届いているという感触を得ていた。ただ、目の前の存在に、其れが影響を与えている様子がなかった。
傷を負っている気配がない。
消耗している気配がない。
呪いが届いているはずなのに、其の存在は変わらず、ただそこに立っていた。
おかしい。
呪いが機能していないのか?あるいは、機能しているが効果が出ないのか?
其の答えが、分からなかった。
レヴァナは能力を更に強めた。悲しみの総量を上げた。其れを呪いに変換して、対象にぶつけた。
何も変わらなかった。
白い存在が少し動いた。
頭を低くした。其の動作が、攻撃の予備動作に見えた。
レヴァナは対処しようとした。
次の瞬間、白い光が来た。
光、と呼ぶしかなかった。形がなかった。衝撃もなかった。ただ、視界が白くなった。
そして、白い光の中で、何かが見えた。記憶のような何かだった。
此の存在が生まれた場所の記憶だった。怨嗟のレヴァナが、最初に怨みを覚えた瞬間の記憶だった。其処に戻ったような感覚があった。
幻。
白い存在が幻を見せている。其れは分かった。分かっていても、其の幻から抜け出せなかった。
幻の中で、レヴァナは戦った。
幻の中の敵に向けて、能力を使い続けた。呪いを放ち続けた。幻の中の敵が動いた。レヴァナは対処した。其れを繰り返した。
幻の中の戦いは長かった。
体力が削れていくのが分かった。能力を使い続けることで、消耗が積み重なっていた。
幻の中の敵が、最後の攻撃を繰り出した。
レヴァナはそれを受けた。
受けながら、これが幻だと分かっていた。
分かっていても、避けられなかった。
幻の中で膝をついた。
其の瞬間、白い光が消えた。
夜の草地、月明かりが戻ってきた。
レヴァナは草地に膝をついていた。
体が動かなかった。
幻の中で戦い続けた消耗が、実際の体に出ていた。幻の中で受けたダメージが、現実の傷として残っていた。
金色の目が、こちらを見ていた。
どんな感情も、其の目からは読めなかった。
レヴァナは其の目を見返しながら、草地に倒れた。
意識が遠ざかっていく中で、最後に思ったのは、此の存在が一体何なのか、という問いだった。
夜の草地が、静かになった。
【カラミス】
城壁に向かって動き始めた直後、後方から気配が消えた。
レヴァナの気配が消えた。感知していた其の気配が突然なくなった。
カラミスは足を止めた、突然なくなった。
戦闘中の気配が消える時、意味することは一つだ。
「……」
カラミスは何も言わなかった。
後方の草地を見た。
嫌な予感が、最大になった。此の戦場で、最も避けるべき事態が起きていた。
レヴァナが倒れた。
滅界獣ネメシオンが、後方の二万を壊滅させた。
計算が崩れた。
カラミスは城壁の上の防衛側と、後方の白い光を、交互に確認した。
前から城壁の防衛側。後ろからネメシオン。
挟まれた状況。
焦燥のカラミスが、今夜初めて、本格的に焦っていた。其の焦りが、軍勢全体に広がり始めていた。
自身の能力が、自身の部下を蝕んでいた。
「……仕方がない」
二度目の、其の言葉が出てきた。
空気が変わった。其れが来た瞬間、何を意味するか分かった。
目の前に白い存在。
転移魔法だ。
予備動作がなかった。気配がなかった。ただ、そこに現れた。巨大だった体が、カラミスの目の前に収まる大きさになっていた。猫の形をしていた。
白い毛並み。金色の目。
其の目が、カラミスを見ていた。
「……ネメシオン」
カラミスは低い声で言った。ネメシオンは何も言わずに、其の目がカラミスを見続けていた。
「レヴァナは・・・?」
答えなかった。
カラミスは少しの間、ネメシオンを見た。
此の存在と、ここで戦うことは選択肢に入らなかった。滅界獣ネメシオンは、災害級の中でも破滅級に最も近い存在だ。十三魔将の一角であるカラミスが、此の状態で正面から当たれる相手ではない。
「用件を聞く」
ネメシオンが口を開いた。
「撤退しろ」
「理由を聞かせろ」
カラミスはそう言った。此処で引く理由が必要だった。理由なく引くことは、焦燥のカラミスには合わなかった。
ネメシオンが少しの間黙って、其れから言った。
「興味のある人間がいる。だから、邪魔をするな」
「興味のある人間?」
「其れだけだ」
カラミスは其の言葉を聞いた。
一人の人間に興味を示した。其の人間への邪魔をするな、という理由で、ネメシオンが此処に現れた。二万の軍勢を壊滅させて、レヴァナを倒して、其の上でカラミスの前に現れた。
其れだけの行動を取った理由が、一人の人間への興味。
カラミスは少し考えた。
其の人間が誰なのかは、今は関係なかった。
今の状況を整理する。
レヴァナが倒れた。二万の軍勢が壊滅した。残っているのは、最初の一万から数を減らした此の軍勢だけだ。其処に、カーベルの防衛側と、目の前のネメシオンが重なる。
勝てる計算が、どこにもなかった。
此処で引かなければ、残りの軍勢とネメシオン、其れに城壁の防衛側との戦いになる。
勝てるわけがない。
理性が其の答えを出していた。
だが、焦燥のカラミスにとって、引く、という選択は最も苦手なものだった。止まることが苦手だ。後退することが苦手だ。動き続けることが、此の存在の本質だ。
それでも。
此の存在が苦渋を感じたのは、久しぶりのことだった。
「……分かった」
カラミスは言った。
「撤退する」
其の言葉が出た瞬間、ネメシオンは既にいなかった。
音もなく、気配もなく、転移魔法で消えていた。
カラミスは其処に一人で立っていた。夜の草地の風が吹いた。
「全軍に伝えろ」
カラミスは配下に言った。
「撤退する。今すぐ動け」
配下が驚いた顔をした。
「撤退、ですか。今この状況で・・・」
「今すぐ動けと言った」
配下が動いた。
撤退の指示が軍勢全体に伝わった。
カラミスは城壁の方向を一度だけ見た。
今夜は其処までだ。次がある。
其処まで考えてから、カラミスは踵を返した。
其の背中に、焦りはなく、苦渋だけが残っていた。
【リュート・アルス】
右腕が重かった。
城壁の上で防衛を続けている間に、矢が刺さっていた。
気づいたのは、二十分ほど前だった。
魔法を撃つ動作の途中で右腕に鈍い衝撃があった。見ると、矢が腕の外側に刺さっていた。深くはなない。が、其の状態で魔法を撃ち続けると、動かすたびに痛みが来た。
抜く時間がなかった。
周囲の冒険者が、次々と戦線から外れていた。
名の知れた冒険者パーティーの一人が、城壁の内側に倒れた。大きな傷を負っていた。別の冒険者が其の傍に駆け寄ったが、其の冒険者も右足を引きずっていた。
騎士の中にも、傷を負っている者が増えていた。
防衛ラインが薄くなっていた。
リュートは右腕の痛みを無視して、射撃を続けていた。
三秒に一発のリズムは、もう維持できなかった。
五秒に一発になっていた。消耗が出ていた。矢が刺さっている腕を動かすたびに、集中力が削れた。精度が落ちた。其れでも止めるわけにはいかなかった。
城壁の外には、まだ軍勢がいた。
数は減っていた。それでも、まだ城壁を攻め続ける意志を持った存在が、外に残っていた。
「持ちこたえられるか⁉」
騎士団長が横に来た。
右腕の矢を確認して、それから答えた。
「今は大丈夫です」
「抜かないのか?」
「抜く時間がないんですよ!」
騎士団長の左腕にも、傷があった。布を巻いていたが、其処から色が滲んでいた。
此の人間も、止まっていなかった。
互いに傷を負いながら、城壁の上に立ち続けていた。
「後どれくらい持つと思う?」
騎士団長が聞いた。
リュートは城壁の外を確認した。魔力感知を走査した。
軍勢の反応は、さっきより減っていた。ただ、まだ十分な数が残っていた。今の防衛側の戦力で、あと一時間持ちこたえられるかどうか。
「厳しいですね」
「だな」
騎士団長が少し間を置いた。
「市民の避難は、概ね完了している。此処で城壁を放棄することも、選択肢としてはある」
「そうですね」
「ただ・・・」
「引ければ、此処まで戦った意味が薄れる。ですよね?」
「あぁ、その通りだ」
二人は城壁の外を見た。
軍勢が動いていた。
次の波が来る前の準備をしている様子だった。
リュートは右腕に魔力を通した。痛みを少し和らげる程度の光魔法。完全な回復ではないが、あと数分は動けるようにする。
其の時だった。
城壁の外の動きが、変わり、攻めてくる気配が止まった。
前に向かっていた軍勢が、動きを止めた。
リュートは魔力感知を走査した。
軍勢の動きが、がらりと変わっていた。後退している。
「・・・何が起きた?」
騎士団長が言った。
「分かりません」
リュートも其の変化を確認していたが、理由が分からなかった。
今まで城壁を攻め続けていた軍勢が、突如として撤退を始めていた。命令が出た様子が、外から見ても分かった。統率された動きで、軍勢が後退していく。
パニックでも、混乱でもなかった。
整然と、撤退していた。
「・・・撤退している」
城壁の上で、誰かが言った。
「本当に撤退しているのか」
「目を疑うが・・・そうだ」
周囲がざわめいた。
カラミスが撤退を命じた理由が、リュートには分からなかった。
ただ、事実として軍勢が引いていた。
城壁の外が、少しずつ静かになっていった。松明の光が遠ざかっていった。夜の草地が、少しずつ暗くなっていった。
完全に静かになるまで、十分ほどかかった。城壁の上の誰もが、その光景を黙って見ていた。完全に軍勢の気配が遠ざかったことを、魔力感知で確認してから、リュートは少し息を吐いた。
右腕が痛かった。
今度は、抜く時間があった。
「終わったのか」
誰かが言った。
「・・・そうみたいです」
城壁の上が、少しずつ弛緩していった。
緊張が解けていく感触が、空気に出ていた。座り込む者がいた。城壁に背を預けて目を閉じる者がいた。声を出す者もいた。
リュートは其の場に立ったまま、城壁の外を見ていた。軍勢が消えた草地は、夜の静けさの中に戻っていた。
なぜ撤退したのか。
其の答えは、此処からは見えなかった。
リュートは左手で矢を掴み、一気に引き抜いた。肉が裂け、骨が露わになる激痛と共に大量の血が噴き出した。
「い…って・・・」
光魔法を当てて無理やり傷を塞いだが、それまでの間、焼けるような痛みが残った。
城壁の上に、夜の静けさが戻っていた。
終わったのか。
其の感触が、じわじわと来た。だが、終わった理由は今でも分からなかった。ただ、今夜此処で起きたことの全てが、自分の知らない何かに繋がっている気がした。
猫のことを思い出した。高台に移動していった白い猫。何処へ行ったのやら。
騎士団長が隣に来た。
「怪我の処置をしろ」
「そうします」
「今夜はよく動いた」
「騎士団長もそうです」
騎士団長が少し笑った。傷だらけの顔に、其の笑い方は少し不似合いだったが、悪くなかった。
「城の医療班に行け」
「その前に、一つだけ確認させてください」
「何だ」
「猫を見なかったですか?白い猫です」
騎士団長が少し首を傾けた。
「猫?」
「此処に来る前に拾った猫で、高台に移動していったまま戻ってきていないんです」
「・・・戦場で猫の話をするのか、お前は。」
「もう、戦場ではないと思いますが。」
騎士団長が少し考えてから言った。
「見ていない」
「そうですか」
リュートは城壁の外を、最後にもう一度見た。
夜の草地は静かだった。
軍勢が来た痕跡が、草地の至る所に残っていた。踏み荒らされた草。倒れた松明の残骸。其れだけが、今夜此処で起きたことを示していた。
白い猫はいなかった。
リュートは城壁から下りた。
医療班のいる場所に向かいながら、今夜のことを頭の中で整理しようとした。
が、情報が多すぎで、整理できなかった。
今夜は色々ありすぎた。
其の感想だけが、はっきりしていた。




