49.公女、歩み寄る。
王太后陛下はご挨拶のお言葉を、長くも短くも、いとも容易く自在に操られるのだろう。
一分の隙もない気品と威厳ある微笑を保ちながら、ウィットに富んだお褒めの言葉を紡ぎ続けられる。
先王陛下がお隠れになるまで、かつて王宮の社交シーンを牽引したと伝わる変幻自在の話術は、噂に違わぬ見事なものだった。
もっとも、それが疲労困憊を超えて憔悴する兄ナタンの耳に届いているかは、極めて怪しい。
ついに倒れるかという、そのとき。
「うむ、見事な闘いを見せてもらい、妾も満足であった」
パチリと、王太后陛下が扇を鳴らした。
カトランはサッと片膝を突いて拝礼を捧げ、兄ナタンはそれを緩慢に眺めてから、我に返ったように片膝を突いた。
――ギリギリのところでお兄様の……、いえ、大公家、母女大公の顔を潰し切りはされなかった……。
王太后陛下の名人芸のような『お仕置き』に見惚れてしまう。
形式上は栄誉を授けられたのだ。
後々になっても、母女大公からつけ込まれる隙を寸毫たりとも与えていない。
王太后陛下がお席に戻られる。
「こんなところで、どうかな? アデール」
「……兄も母も、王太后陛下よりの過分のご配慮を賜り大いに喜ぶことでしょう」
「ふぁはは……、ならばよかった」
潜めたハスキーなお声で、晴れやかに笑われた。
わたしたちの眼前で、兄は片膝を地面に突いたまま、まだ動こうとしない。
すでに立ち上がっていたカトランのもとに、ルコントが駆け寄った。
なにやら耳打ちすると、カトランの顔が険しく歪む。
「……アデールとパトリス。いや、領内の民の目と耳には絶対に触れさせるな。かまわん、すべて処分しろ」
カトランの低い声が響いた。
王太后陛下が片眉をあげ、扇で口元を覆われた。
「……お付きの従者か護衛が、不埒な物でも持ち込んでおったか」
先ほど、ルコントはカトランの命で護衛の騎士たちを制圧し、拘束した。
恐らく王太后陛下の読みは当たっている。
――淫靡な絵画か、怪しげな香油、媚薬入りの酒、不恥な遊興の小道具……、あるいは、そのすべてか……。
王都の紊乱な風俗を、この地に持ち込もうとしていたのだろう。
兄ナタンという、わたしの『身内』が犯した破廉恥な愚行が、とてつもなく恥ずかしい。
膝に手を突いた兄が、億劫げに身を起こして、ぬらりと立ち上がった。
そして、わたしを一瞥する。
「……使用人の娘の分際で……、いい気になるなよ……」
ハッキリとは聞き取れなかった。だけど、口の形は、そう動いた。
次の瞬間。兄は崩れ落ちて、カトランが素早く抱きとめた。
王太后陛下が白々としたお声を響かせる。
「……かくも精魂尽き果てるまで戦い抜いたとは大儀である。さがらせて、よろしいかな? アデール夫人」
「はっ……、王太后陛下の御意のままに」
兄が御前で倒れたことすら即座に『栄誉』へと転換してみせる、王太后陛下のご手腕に内心で唸らされる。
――ただ……、この王太后陛下すらも、お母様は政治的に排斥し、ご領地での隠遁に追い込んだのだ……。
王太后陛下が大きく見えれば見えるほどに、母女大公の大きさを痛感する。
兄ナタンなど比べものにもならない。
カトランは駆け寄った兵に、まるで汚れた布切れでも投げ渡すかのように、気絶した兄ナタンの身体を無雑作に押し付けた。
そして、つまらなさそうに軽く鼻を鳴らしてから、ゆっくりとこちらの上覧席へと戻ってくる。
お散歩から帰るような、なんとも気負いのない姿が、とても頼もしい。
マルクがわたしにスッと歩み寄り、王太后陛下との間で片膝を突いて、声を潜めた。
「……あごを撃ち抜きましたな」
「え? ……あご?」
「カトラン様が、瞬時に拳で。……あごを揺らされると、気を失います」
いま、わたしたちの目の前で、カトランは兄のあごを殴っていたらしい。
まったく気が付かなかった。
「言葉の意味は分からずとも……、アデール様への侮辱が許せなかったのでしょう」
胸がトクンと跳ねる。
使用人の娘――、実兄であるナタンが、実の妹であるわたしをそう蔑み侮辱する意味は、大公家の外にあっては分からないだろう。
だけど、カトランはわたしのために怒ってくれた。
「そ、そう……、教えてくれてありがとう。マルク」
「いえ……」
カトランの横顔から目が離せない。
マルクが立つと、王太后陛下が悪戯っ子のようにニヤリと笑われた。
「ソランジュから聞いておった通りだ」
「と……、仰いますと……」
「……北には、まだ義の心が生き残っておるとな」
「お、恐れ入ります……」
やがて、対面の観覧席で意識を取り戻した兄ナタンから「晩餐会をキャンセルする」と報せが届く。
すでに、慌ただしく引き上げようとしていた。
ソランジュ殿下が、美しくとがったあごを揺らす。
「ふふっ……。晩餐会となれば、取り巻きの令嬢たちはカトラン公の周りに群がるでしょうからね……」
「あ……」
「……ナタン殿には、耐えがたいことでしょうから……」
礼儀として、わたしとカトランで見送りに出る。
もうパトリスは立ち会わせなくてもいい。
拘束した護衛の騎士を釈放しろとわめく兄ナタンに、カトランが冷徹に言い放った。
「……騎士たちが勝手にやったことではなく、貴殿からの指示だったのか?」
カトランの鋭い視線の先では黒煙が上がっている。
騎士たちが持ち込んだ『不埒な物』を、焼却処分にしているのだろう。
白煙ではなく黒煙。よほど怪しげな物まで持ち込んでいたと思われる。
「それならば、貴殿らからも話を聞かねばならんが……」
「くっ……」
忌々しげにカトランを睨んだ兄ナタンは、自ら馬車の御者台に乗り込んだ。
そして、儀礼もなにもかもを飛ばして、馬車を出発させる。
「……逃げ足だけは速いな」
カトランが吐き捨てるように言うと、ほかの令息たちも次々に馬車を出発させる。
ふと、令嬢のひとりが目に留まった。
行き場をなくして立ち尽くしているように見えた。
そっと歩み寄る。
「……お帰りの馬車。よろしければ当家でご用意いたしますが……」
令嬢はしばし視線を中空に彷徨わせた後、コクリと頷いた。
けばけばしい紫色をしたドレスの、大きく開いた襟ぐりを硬く握り締めている。
観戦中から、この紫のドレスを着た令嬢は、どこか無理をしているように感じていた。
大きな口をあけて嬌声をあげ、令息にしなだれかかりながらも、そうせねば王都には居場所がないのだ……、というような。
「……ソランジュ殿下の侍女。コルベール伯爵家のご令嬢でいらっしゃる、マノン様のような道もございます」
「……え?」
「……もしも、違っていたらごめんなさい。無粋な嫌われ公女めがと、どうぞ笑ってください。……ただ、息苦しさをお感じなのでしたら、どうか王都の裏路地にある雑貨屋を訪ねてみてはくださいませんか」
ザザの実家。
あそこにいけば、わたしと繋がれる。
すぐにどうにかしてあげられるわけではないけれど、別の道を一緒に考えることくらいはできると思うのだ。
目を泳がせた令嬢は、やがて小さく呟いた。
「……覚えておきます」
令嬢を乗せた馬車を見送る。
――お母様の乱した王都で苦しんでいるのが、わたしだけであるはずがない……。
苦いものを噛む。
追放されたも同然に北の辺地に送られたわたしは、むしろ幸せなのかもしれない。
ふり向くと、カトランの横に王太后陛下とソランジュ殿下が並ばれていた。
「せっかく用意した晩餐であるから、妾たちでいただこうと、カトラン公からは許しをもらったのだが……」
「え? そ、それは……、格式の準備が……」
大公家の公子をもてなす晩餐と、王太后陛下をもてなす晩餐では意味が違うし、格式も異なる。
てんやわんやになる厨房が、即座に脳裏に浮かんで、わたしがあわあわする。
だけど、王太后陛下は面倒そうに微笑んで、ハスキーなお声を響かせる。
「よいよい、格式など。どうせお忍びだ。公式記録にも残らぬ。そうだ、せっかくであるから、見事に『闘技会』を戦ったガルニエの騎士らも、晩餐をともにしようではないか」
「お、王太后陛下?」
「いいところを見逃したからの。せめて話なりとも聞かせてもらいたい。ダメか?」
「い、いえ、とんでもない! 兵らも大いに喜ぶことでしょう」
お料理はすべて闘技場に運び込まれ、兵らも交えた大宴会となった。
そして、翌朝。
盛大に『お急かしあそばされた』王太后陛下の求めに応じて、温泉地へと向かう。
「きゃあ、これが……、妾!?」
「ふふっ、よくお似合いですわ、お祖母様」
「ソランジュもよいではないか。……そちらの色の方がよかったかの」
「え? お祖母様とおそろいは、ちょっと……」
王国で一、二を争う高貴な祖母と孫娘が、わたしの縫ったパステルカラーのカントリードレスをお召しになって……、姿見の前でおはしゃぎあそばされていた。
本日の更新は以上になります。
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