48.公女、相談に乗った。
スッと威厳ある所作でお席から立ち上がられた王太后陛下は、カトランと兄ナタンの『引き分け』を宣言され、ふたりを御前に呼び寄せる。
兄の額には乱れた髪が汗で張り付く。
ぜえぜえと肩で息をしながら、どうにか歩く姿には、エントランスで見せた気品ある貴公子の面影などは微塵もなかった。
マルクが声を潜める。
「……届くと思った拳に空を切らせ、挑発してくる浅慮者を逆に煽る。次は届くという距離を保って、頭に血を昇らせ躍起にさせる。小馬鹿にしてやるつもりが、相手の掌で踊らされていたと気が付けば、なおさら我を失い躍起になる」
「ええ……」
「カトラン様の優れた武の大器があればこその御業。惚れ惚れいたしますな」
「ふふっ、そうね」
何事にも斜に構え、これが王都の粋よ、諧謔よと、ヘラヘラするばかりだった兄ナタンが滝のような汗を流すところなど、初めて目にする。
恐らく最初はヘロヘロの拳を当てては、カトランを嘲笑うつもりだったはずだ。わたしにはそれの何がおかしいのか、さっぱり分からないけれど。
だけど、いつの間にかカトランのペースに嵌め込まれていた。
いま兄は、自分がなぜ息を切らしているのかさえ理解できないのではないか。
マルクが続けた。
「……カトラン様は激しくお怒りでしたからな」
「え?」
「アデール様を侮辱されたことに」
一瞬、思考が止まる。
侮辱? ……いつものことすぎて、どれのことを言っているのか……、と考えを巡らせてから気が付いた。
――可哀想な俺の妹は愛人のひとりも侍らせられん。なんと惨めなことか。
兄が嘲るように、わたしの『不遇』を嘆いてみせ、わたしはたまらず、パトリスの耳をふさいでいた。
対面の観覧席から闘技場を越えてくるほど声を通してまで、わたしを嘲ってきた兄の性根に、わたしも『我を失って』いたのだろう。
あのときのカトランの反応を覚えていない。
「……念入りに煽り、兄君を踊らせましたな。カトラン様の逆鱗に触れたのです。歩けるだけでも大したものです」
まるで重病人か老人にでもなったかのように呼吸も荒く身体を引きずる兄ナタンの横で、カトランは平然と歩く。
汗ひとつかいてはいない。
まるで、格闘の御前試合などなかったのではないかと錯覚してしまう。
――怒って……、くれてたのね。
その頼もしい歩みを、ジッと見詰めた。
「ふたりとも見事であった。拝礼は捧げずともよい。そのまま聞け」
王太后陛下のハスキーなお声が、温和に響く。
まっすぐに伸びる美しい背筋と、身体の軸に一切のブレを感じさせない麗しい立ち姿からは、とても信じられないのだけど、記憶をたどれば御歳70歳は越えておられたはず。
その気品ある眼差しには慈愛の色が浮かび、拝礼を免除されたことで――、片膝を突いて身体を休ませる機会を、兄から取り上げた。
兄とカトランにお褒めの言葉を授けられる王太后陛下の後ろで、着座したままのわたしにソランジュ殿下が身を寄せて囁かれた。
「ふふっ……、ごめんなさい。内緒で押しかけるようなことになってしまって」
「い、いえ、お気になさらず」
「王太后陛下……、お祖母様がね、私がアデール様の温泉に行くって伝えたら、『ずるい、ずるい』って……、駄々をおこねになられたのよ」
「だ、駄々……?」
「もう、手に負えないのよ? ……お祖母様の駄々」
「ふふっ……、でしょうね」
「それで、ナタン殿の後にって伝えたら、『そこに行ってやらんでどうする!? すぐに出発するぞ!』って……」
「そうでしたのですね……」
ソランジュ殿下がわたしの方にさらに身を寄せ、声をもう一段落とされた。
「……温泉に早く浸かりたかっただけかもしれないけど、お祖母様」
「ふふっ、光栄なこと……、えっ?」
「ええ」
「あの……、お、王太后陛下も領民や兵士たちと一緒になってしまうのですが……」
「それも含めての『ずるい、ずるい』ですわよ? ご懸念には及びませんわ」
大変なことになった……、あれ? どっちだろう? ……光栄なこと?
王太后陛下のお背中を見詰める。
お褒めの言葉は、まだ終わらない。
兄の顔色は土気色をしている。立っているだけでも苦しそう。
ソランジュ殿下が、わたしの耳元で冷え冷えとしたお声で囁かれる。
「……馬車を急かしてこちらに到着してみれば、あの痴態でしたでしょう……?」
「あ、ええ……」
「城門の外までナタン殿たちの聞き苦しい笑い声が響いておりましたものですから、お祖母様がいたくご立腹になられて……」
それで、上覧席にお連れしようとする兵の案内を振り切り、闘技場へと直接お出ましになられたらしい。
――さすが、勘所を押さえておられる。
上覧席にお姿を現わせば、対面の兄たちからは遠く、兄は王太后陛下に拝礼を捧げなかったかもしれない。
だけど、わたしたちからも、兄たちからも同じ距離となる闘技場におみえになったからこそ、王太后陛下は辺境伯家と大公家の間に割って入れた。
双方からの拝礼を受け、両家からの協賛のもとに首座に就かれた。
なにげなく見えた――あるいは奔放にも見えた――所作にも、老練な政治手腕や社交術が見え隠れする。
わたしでは真似のできない呼吸。
まして、兄ごときでは、太刀打ちできるはずもなかったのだ。
「……ですからね、アデール様」
「あ、はい」
「お祖母様はアデール様の拓いた『清く正しい温泉郷』を、とても楽しみにされていたものですから……」
「こ、光栄ですわ……」
「……王都の汚わいをこの地に持ち込んだ兄君が許せず、ちょっとお仕置きをされているようですが……、ご容赦くださいね」
ソランジュ殿下が悪戯っぽく微笑まれる。
兄の呼吸は浅くなり、喉がヒューヒューと鳴って、身体が小刻みに震えはじめた。
――どれほど身体に負荷がかかれば、もう動きを止めているというのに、立っているだけであんなことになるのか……。
いまにもしゃがみ込みたいという表情で、縋るような視線で王太后陛下を見詰める。
ソランジュ殿下が感嘆の声を漏らされた。
「カトラン公の武勇。……敵を討ち果たす膂力だけではなく、敵を翻弄する優れた軍才があればこそ……、30倍の帝国軍を打ち破られたのですわね」
「……ええ、ほんとうに」
王太后陛下の『お褒めの言葉』の格調高い名調子は止まらない。
――そうか……、そうだわ。称賛する体裁で嘲弄してきた兄への意趣返しをしてくださっているのだわ。ふふっ……。手の込んだことをされるのね……。
褒詞を授ける体裁で、兄を立ちっ放しにさせている。
カトランにとっては単に光栄な場所。だけど、兄にとっては意味が違う。
直接的な暴力ではなく、礼儀と格式を盾にしたこの『お仕置き』が、兄を肉体的にも精神的にも追い詰めていく。
ソランジュ殿下に囁いた。
「……きっと、兄にとりましても、よい経験となりましょう」
改心するとは思えないけれど、二度とこの地に足を踏み入れようとはしないだろう。
「それでね、アデール様」
「あ、はい」
「……私のドレスとリボン、何色と何色の取り合わせが似合うかしら?」
「そうですわね……」
兄が膝から崩れ落ちるのが先か、王太后陛下の『お褒めの言葉』の引き出しが尽きるのが先か。
ウキウキとしたご様子で、温泉地で貸し出すお衣装選びに思いを馳せるソランジュ殿下と、ヒソヒソと相談して過ごした。
本日の更新は以上になります。
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