46.公女、知らなかった。
対面からは、ひどく耳障りな嘲笑の渦が反響し続ける。
時折、令嬢たちのなまめかしく、ふしだらな嬌声が入り混じり、令息たちが舌なめずりしては大口を開けて哄笑を響かせる。
春の爽やかな陽光が照らすというのに、兄ナタンの周囲にだけは、濁った湿り気が澱むようにへばりつく。
「ひ、ひぃ~っ! お助けを~っ!!」
剣を跳ね飛ばされた令息が、闘技場で無様な敗けを晒しては、観覧席では嘲り笑いの引き出しの多さを競っている。
嘲笑、蔑笑、せせら笑って、鼻で笑う。
倒錯した愉悦に耽り、清廉であるべき闘技の場を汚し、踏みにじって蹂躙する。
「見ろ、可哀想な俺の妹は愛人のひとりも侍らせられん。辺境伯夫人ともあろう者が、なんと惨めなことではないか」
兄のヘラヘラとした声が、闘技場を越えて、わたしの耳まで届く。
たまらず、胸に抱くパトリスの耳をふさいだ。
対戦は『勝ち』を重ねている。
その勝者を嬲るように、兄たちは嘲弄を浴びせかけてくる。
仮に、わたしが『闘技会』の中止を宣告したところで、兄たちはさらなる嘲笑の糧としてしまうだろう。
――無粋なアデールに、王都の粋は分からなかったとみえる。
愚弄し、侮蔑してくる。
わたしを通じ、カトランとガルニエ辺境伯家の全体を。
ガルニエ家の騎士たちにとっては、主君である辺境伯と大公家の公子が観戦する上覧試合という――形式上は、この上ない――晴れの舞台で、屈辱を我慢させることが心苦しくてたまらない。
この場を一刻も早く終わらせたい。
眉を寄せ、カトランに戦勝の拝礼を恭しく捧げた騎士へ、労いと謝罪の視線を送る。
わたしの後ろで、伝令の兵が膝を突く気配がした。
顔を傾ける。
「アデール様、先触れにございます」
ルコントの声。慌てていたのか、珍しく息が乱れている。
つい先日――、温泉地の中庭で養蜂農家のリーズと淡く清純な語らいをしていたルコントの姿が思い浮かんで、いまのこの場とのあまり落差に、苦いものを覚えた。
「……先触れですか?」
「はっ……。まもなく、ソランジュ殿下の馬車がご到着されるとのこと」
考えられない。
殿下のご来訪は、兄ナタンが王都に帰った後でという調整がついていた。
――この場に……、ソランジュ殿下までおみえになれば……。
兄たちは獲物か玩具が増えたとでも言わんばかりに、遠慮なく〈堅物王女〉にも嘲笑を浴びせかけることだろう。
事情は分からない。
あのマノンが、日取りを間違えるというような、初歩的な失態を犯すとも思えない。
だけど、先触れが届いたということは、もうまもなくソランジュ殿下を乗せた馬車が到着してしまう。
――淡々としてる……。
ふと、拝礼から顔をあげた、騎士の表情に気を取られた。
元は野盗や山賊あがりの兵。気性は荒い。
それが、まるで凪いだ海のような静けさを湛えている。
「……マルク」
隣に座るカトランの囁き声に顔を向けた。
「はっ、なんなりと」
「外で待機する、大公家の護衛の騎士らを制圧しておけ」
「かしこまりました」
「……俊敏な者に隊を率いさせ、素早くやれ」
「承知」
「ギオ……、いや、ちょうどいい。ルコントに任せる」
カトランに向き直ったルコントが、膝を突いたまま無言で頭を下げた。
「ルコント。音も声も出させるな」
「……承知しました」
「あの、けばけばしい見掛け倒しの鎧を剥いで、縛り上げておけばいい」
ルコントが風のように立ち去る。
カトランの顔に目をやると、悪戯がばれた少年のような笑みを一瞬だけ浮かべ、それから穏やかに目をほそめた。
「……殿下の到着に、悪さをされても困る」
「え、ええ……」
「それに、あの笑いがいつまで続けられるものか、見てみたくなった」
カトランの真っ赤な瞳が対面に向く。
焦点を合わせることを拒否したような、乾いた視線。
そのとき、次の対戦が始まった。
また令息の「やぁ~っ!」という悪ふざけの声と共に、ヘロヘロとした剣が振り下ろされる。
けれど、ガルニエの騎士は剣を合わせることなく、その場でつむじのような鋭さで身体を素早く一回転させた。
わたしの目には止まらない。
「ぐっ……ぇ……」
騎士の足が、令息の腹に埋まっている。
鎧はへしゃげ、用をなしていない。
呼吸ができないのだろうか。令息はあげたい呻き声すらあげられないかのように、腹を足で貫かれたまま立ち尽くす。
たちまち対面から哄笑が響く。
しかし、息もできない令息はその『歓声』に応えられない。無様な敗けっぷりを誇示して『歓声』に応えることができない。
もしかすると、なにも聞こえていないのかもしれない。騎士が足を引くと、その場に崩れ落ちる。
「回し蹴りだぁ……」
パトリスの無邪気な声。憧れるような、微かな高揚も感じる。
「ま、回し……、蹴り?」
「うん、そうだよ。アデール知らないの?」
知らなかった。
たしかに、回して……、いや、回って? 蹴っている。
「へぇ……、回し蹴りっていうんだ」
「うん、そうだよ!」
次の対戦では、騎士の『回し蹴り』が令息のあごに下から直撃し、即座に気絶させた。
「ひょっとして……、経験があるのですか? その……、このような場に」
少し身体を寄せて小声で尋ねると、カトランは表情ひとつ変えず、親指で眉を掻いた。
「よくある」
「よ、よくあるのですね……」
マルクが大きな身体をかがめ、わたしにニヤリと笑った。
「……カトラン様は野盗を兵とするとき、望む者の挑戦はすべて受けました」
「え、ええ……。それは聞いております」
「なかには手下にわざと敗けさせ、カトラン様を怒らせ、隙をつくろうとするような者もおったわけです。まあ、野盗の浅知恵ですな」
舌を巻くとは、このことだ。
カトランとガルニエ家の『武』を信頼すると決めていたのは、わたしではないか。
兄の嘲弄ごときで動揺していた自分が恥ずかしい。これではカトランの妻どころか、夫人にもふさわしくない。
カトランが片目をほそめた。
「……いたずらを仕掛けられるにしても、せめて『舞踏会』などにしてもらわねば、悔しがりようもない」
武の場は、ガルニエ家の独壇場。
こざかしい策を弄したところで、そんなものはないも同然――。そうした風格を漂わせるカトランは、気負いもなく、ただ泰然と兄たちが重ねる嘲笑に耳を傾けていた。
気絶した令息を観覧席に運び入れると、嘲笑はさらに盛り上がる。
――救いようがない……。
憐れみさえ覚える自分に気が付き、不思議な感覚に襲われる。
わたしがあれほど恐れていた、兄ナタンの嘲笑が、いまは滑稽にも響いて聞こえる。
伝令の兵が膝を突く。
「……制圧は完了。また、ソランジュ殿下、ご到着の由にございます」
「見苦しいものを殿下のお目に入れなかったか?」
カトランの冷徹な声が響く。
「はっ、問題ございません」
「よし、お通しせよ」
「えっ……、ここにですか?」
わたしが見詰めると、カトランはこともなげに首を傾けた。
「……殿下をお待たせするわけにもいくまい?」
「それは、そうですが……」
「接遇はアデールに任せる」
「わ、分かりました」
兵たちに椅子の準備を命じ、ザザにパトリスを渡す。
「坊ちゃん、私が抱いてもいいかな?」
「ええ~っ? ……ボク、ひとりでも座れるけど?」
「はははっ、それではアデールが安心できないようですわ」
「う~、分かった」
「うん、いい子ですよ、坊ちゃん」
「ボク、子爵なんだけどなぁ……」
「これはやられました。……子爵閣下をお抱きする栄誉を賜りますこと、このザザ、末代までの誉れといたしますわ」
「うん、いいよ。許す!」
ふたりの軽妙な掛け合いに頬を緩めてしまいながら、わたしとカトランの間に席をひとつ設け……。
目にした光景に、呆気に取られる。
この上覧席の裏手からではなく、闘技場へと直接入ってこられた、気品あるご婦人。
ソランジュ殿下ではない。
いや、ソランジュ殿下はご婦人の後ろに従われている。
ご長身の殿下より、ご婦人はさらに長身。首元まで覆う品のあるラベンダーのドレス姿で、背筋が美しくまっすぐに伸びる。
サッと青ざめ、背筋を凍らせ、最敬礼のカーテシーの礼を執った。
「カトラン、拝礼を。……王太后陛下のお成りにございます」
国王陛下との折り合いが悪く、ご領地に隠遁されているとはいえ、王国では最高の権威を誇るおひとり。
公式の場においては、母女大公でも席をひとつ譲らざるを得ない存在。
静まり返った対面でも兄ナタンが渋々といった様子で拝礼を捧げた。
わたしは幼い頃に一度、拝謁の栄を賜ったきりだったけれど、まったくお変りがない若々しいお姿に驚愕する。
「……おもしろき『出し物』をしていると耳にしてな。見逃す手はないと、思わず妾も駆け付けてしもうたわ」
マットな白髪をアップにまとめられた王太后陛下が、ハスキーなお声を響かせ、柔和な笑みを浮かべられた。
本日の更新は以上になります。
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