45.公女、揺れた。
兄のことだ。
馬車が停まっても、もったいをつけてダラダラと、なかなか出てこないに違いない。
出迎えのわたしたちを立って待たせたまま、馬車の中で恋人や愛人とふしだらに享楽に耽ってみせるかもしれない。
兄ナタンとは、そうした人間だ。
と……、いう、わたしの予想と警戒の裏をかいてやろうという兄の『諧謔』に、兄がいうところの〈無粋〉な人間であるわたしは、事前に気が付くことができなかった。
結果として、わたしが差し出した唇は、カトランの鼻に着地した。
触れるか触れないかの刹那、馬車の扉が開いたことに気をとられた、わたしの失態。
兄と目が合い、ボッと顔が燃え上がる。
カトランも硬直している。
兄も固まった。
馬車のステップに足をかけたままで。
緋の絨毯だけが、スルスルスルッと馬車からわたしたちの前へと静かに伸びる。
「ん、んぅん……」
カトランの咳払いで我に返った。
慌てて顔を引く。
「す、すみません……」
「いや……」
小声で囁き合う。恥ずかしい。
兄も気を取り直したように動き出す。
シワひとつない、寸分の隙もない正装。乱れなくきっちりと撫でつけられた髪。
兄が大公家の格式にも恥じない、これほど高位貴族らしい気品に満ちた礼装に身を包む姿を、わたしは初めて見た。
だけど、動揺のせいだろうか。動きがぎこちない。
これも『結果として』ではあるのだけど、わたしの裏をかいてこちらの出鼻を挫こうとした兄の、さらに裏をかいたのだ。
わたしの初めてのキスで。
捧げた意味があった。ことにする。鼻だったけど。
パトリス監督はといえば、ちゃっかり自分の立つべき位置にちゃんと戻っている。
満足げ。期待には応えられたらしい。
カトランの顔は赤い。
その向こうに並ぶ、ガルニエ家の儀仗隊の面々も、ほんのり顔を薄紅色に染める。
きっと、わたしの顔も赤い。
凛々しく流麗な所作で颯爽と現れる――、という自分の諧謔、もしくは策略を立て直したいのだろうか。兄ナタンは実に曖昧で不安定な笑みを浮かべ、ゆっくりと近付いてくる。
礼則にも適う、緋の絨毯。亡くなられたお祖父様が使われていた。
――大公城の倉庫の奥の奥から引っ張り出したのね……。
初めて見る『礼儀正しい兄』のふる舞い。
兄は改心したのだ――、などとは万に一つも思えない。
退廃的な楽曲に、露悪的で倒錯的な馬車から現れる、貴公子。狼狽えるわたしたちを澄まし顔でニヤニヤ眺める。
そんな悪趣味な諧謔を仕掛けてきていたのだ。
それは、兄にとってのメインディッシュが、この後の『闘技会』なのだということを、強く予想させる。
立ち止まった兄ナタンは数瞬の逡巡の後、片膝を突いた。
「公子ナタン……。カトラン公の辺境伯叙爵を祝うべく、まかりこしました」
「痛み入る」
短く鋭く答えた、カトラン。
すぐに歓迎の栄誉礼に移って、儀仗を捧げる。兄はひと言も発しない。
兄との『出会い頭』は、完全に制した。
「……長旅でお疲れであろうから」
と、しばしの休息を勧めたカトランからの申し出を、兄は断った。
「お、王国に鳴り響く、ガルニエの武勇を早く見せていただきたく、王都から飛んできたのです……。お気遣いはありがたいが、休息は無用にて」
急に口数が多くなる。
――連れてきた『お仲間』のところに、早く行きたいのね……。
あれほど憎々しく、あれほど高い壁のように感じていた兄ナタンが小さく見えた。
カトランが全身から発する『武威』に、ひとりでは対峙できないのだ。
そして、わたしを見ようともしない。
中庭にしつらえた闘技場に向かう兄の背中を見送ると、パトリスが胸を張った。
「ちゃんと、お仕事できたよね!?」
「そ、そうね」
「アデールのキスのお陰だね!! すごいね、アデール!!」
兄の肩がピクリと揺れる。
わたしの肩も揺れた。カトランの肩も揺れた。この場に居合わせた大の大人の肩をすべて揺らしたパトリスは……、すでに大物なのかもしれない。
ザザだけは腹筋を押さえてた。
Ψ
パトリスを抱き上げ、カトランに続いて上覧席に入る。
闘技場を挟んだ対面に陣取る兄ナタンは、華美なドレスに身を包んだ貴族令嬢たちに囲まれ、ヘラヘラとすべてを見下す笑みを浮かべていた。
『……ギリギリですな、ギリギリ』
と、先に確認してくれた傅役ギオからの報告通り、令嬢たちの着るドレスの襟ぐりは、はしたなく広い。
兄がなにやら耳元で囁くたびに嬌声をあげ、品なく笑う。
さらにその周囲では、だらしなく武装した令息たちもまた、令嬢か夫人かを侍らせ、皆で嘲るように笑っている。
――たしかにギリギリ……。闘技場の奥行きの分だけ距離があるから、ギリギリでパトリスを立ち会わせてもいいかな……。
なにより不快なのは、どの令嬢、どの夫人のドレスにも、大公家の家色である山吹色をしたリボンがあしらわれていることだ。
あれは、兄ナタンと『関係を持った』という――、世にも爛れた勲章。
それが、他の令息にしなだれかかる、どの令嬢のドレスでも揺れている。
――関係を持った異性の数を競い合うような王都……。
とは、マノンの言葉。
山吹色だけではなく、色とりどりのリボンをバサバサと下げている者ほど『人脈が広く、政治的影響力が強い』と見なされる。
乱倫の王都を象徴する、爛れ切った風俗。
リボンの意味を、パトリスはもちろん、カトランにも説明する気にはなれない。
席に着くとき、微かに眉をひそめたカトランが、わたしたちの視界をふさぐようにして立っていた。
近侍していたマルクが、カトランの耳元で囁く。
「手加減は……」
「必要ない」
「……承知」
マルクが下がり、カトランも席に着く。
闘技場の向こう側、ニヤニヤとわたしを見下す兄ナタンと目が合った。
背筋が粟立つ。
到着したときとは打って変わって、わたしの知る兄ナタンが横柄に腰かけていた。
最初の対戦が始まる。
ガキィンという高い音をたて、ガルニエの騎士が、瀟洒に装飾された剣を中空に弾き飛ばすと、対戦相手の令息が尻もちをつく。
「うわぁ~……」
と、パトリスが感嘆の声を漏らし、わたしの脳裏には、瞬殺――、そんな言葉が思い浮かんだときだった。
「ひ、ひええええ~っ! や、やられたぁ~ぁ! これは敵わないぃぃぃぃ」
令息は無様に地面を這いずり回り、対面の席からは、ドッと品性の欠片もない笑い声があがった。
「お、お助けぇ~っ! 辺境の無粋な剣に斬られてしまいますぅ~……」
令息は大仰な仕草で闘技場を這い続け、兄たちは指をさし、涙を流して笑う。
こちらの席は呆気にとられ、そして、憮然とした。
こんな手段で辺境伯家を嘲弄してくるとは、想像がつかなかった。
唇を噛む。
勝ちは勝ちなのだ、ガルニエ騎士団の。
次の対戦でも相手はすぐさま地を這い、助けを求め、ガルニエの武を称賛しながら無様に命乞いをした。
兄たちはその姿に爆笑し、ますます嘲笑を重ねる。
敗けた令息は、令嬢の胸に顔をうずめて、おいおいと泣いてみせ、それをまた皆で大笑いに笑う。
――まさか……、敗け方の無様さを競ってくるとは……。これでは、こちらが真剣にやればやるほど……。
兄の笑みが醜く歪み、わたしを見据えた。
許せない。
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