39.公女、……はず。
「あ、あのね……、わたしはカトランの夫人で……」
「でも、妻じゃないんでしょう?」
「あ、うん。それは……、ね……」
「……ボクに嘘吐くの……?」
「違う、違う。違うわよ? あのね、妻にするっていうのは……」
「うん」
「あ~……、ベッドに……」
「ベッド?」
「あ~……、違うかな?」
「もう、なに?」
並んで湯に浸かる継母と継子で、ヒソヒソと内緒話。
ただ、どういう言い方をしても〈ふしだら〉なことを言ってしまいそう。
――同衾? いやいや、ふしだら……? 情交? そのものズバリ、ふしだらね。たぶん。いや、え? 妻ってなんだっけ?
頭の中で大討論会。
ふしだらはダメだと、お試し初回まで開いたこのわたしが、まだ幼いパトリスに、はしたないことを言うわけにはいかない。
『2年後、妻としよう。』
『ボク、アデールが養父上の妻じゃないなんて、ちっとも知らなかった』
カトランの声と、パトリスの声が、交互に頭の中を駆け巡る。
透んだパトリスの瞳には決死の覚悟が浮かぶばかりで、わたしをからかっているハズもなく、ただわたしを『ははうえ』として求めてくれている。
それは、とても嬉しい。
だけど、わたしの『語彙力』では6歳のパトリスに「妻とはなにか」を、うまく説明することができない。降参だ。
「わ、分かったわ……、仲良しになるから」
「絶対だよ!! ボクも協力するからね!!」
「うん……、ありがとう」
曖昧な笑みを返してしまった。
――でも……、誰がパトリスに……?
湯船の中を見渡すと、マルクが一点の曇りもない笑顔でニカッと笑った。
――お、お前か……。
きっと、マルクは『2年後、妻にする』というカトランの宣言を『吉報』として、パトリスに伝えたはずだ。
パトリスの中に、重大な誤解を生じさせたとも気が付かず……。
――でも、マルクからパトリスに弁明させたら、余計に拗れそうね。
内心で、軽く頭を抱えた。
――え? ……わたしが〈ふしだら〉に考えすぎなの……? 妻という言葉を……。
火照った頬に、両手でパシャパシャと湯をかける。
上気していても変じゃないように。
いまほど。
いまほど、ふしだらな姉から助言をもらいたいと思ったことはない。
Ψ
それから、なにをしていても、わたしが少しでもカトランから離れるとパトリスが飛んでくる。
朝の入浴でこれから何をするか、みんなで話し合った結果、まずは男性陣による「腕ずもう大会」が開かれることになった。
女性陣は、その応援。
「いいとこ見せてほしいじゃないですか」
という、ある子連れのお姉様の意見が採用になった。
中庭のテーブルを囲んで、トーナメント制で進んで、大いに盛り上がる。
「……辺境伯様の『いいとこ』を、私らに見せられてもねぇ……」
という、お姉様方の苦笑いで、カトランは行司役。
主君の行司では、兵士たちも手を抜くことはできない。
元錠前破りのルコントは、その剽悍ですばしっこそうな体格の見た目に反して、3人を勝ち抜いた。
しかも、3人目は剛力無双のマルクだったのだ。最後は勢いあまって「どおぉん」と地に転がした。
「がははははっ! やるな、ルコント!」
「……すみません、騎士団長」
「謝ることはない! 引き締まった腕の筋肉も勝負勘も、お前の勝ちだ! いや、いい勝負ができて負けて悔いなしだ!」
「……ありがとうございます」
荒れた息を整えながらペコリと頭を下げたルコントの背中は、たしかに細いけれど、意外な筋肉の厚みも感じる。
それを見詰める養蜂農家のリーズの瞳が、ポオッと熱く潤んでいて、みんなで温かく見守った。
ただ、マルクとの対戦で力尽きていたルコントは4人目にコロッと負けた。
それを労わるリーズ。
そんなペアが数組あって、ますます温かい雰囲気が流れる。
この場にいる誰もが、ひとりの幸せはみんなの幸せなんだと感じているように見えた。
――この真っ直ぐで熱くて屈強な兵士たちなら、お兄様が『闘技会』で何を企んでいたとしても……、きっと敗けないわね。
カトランを支えてきた、ガルニエ家の兵士たちを心から頼もしく思う。
そして、村の娘たちのことも、大切に守ってくれることだろう。
わたしが目をほそめたときだった。
「……アデール」
「は、はいっ!」
背後からしたパトリスの鋭い声に、思わず背筋を伸ばす。
「養父上の汗を拭いてあげて」
「そ、そうね……、ありがとう」
パトリスが差し出す亜麻布を受け取る。
受け取るしかない。透んだ険しい視線を背中に感じながら、カトランに歩み寄る。
「ん? ……どうした?」
「あの……、汗が……」
「ああ、熱戦続きだったからな。ありがとう」
と、わたしから亜麻布を受け取ろうとするカトランを……、遮る。
「お、お拭きいたしますわ」
「ん? あ、ああ……。ありがとう」
「い、いえ……。ど、どういたしまして」
そっと亜麻布をカトランの首筋にあてる。
布越しにも分かる、しっかりとした肉付き。わたしの力ではビクともしない。
こすり過ぎないように気を付けて、汗を拭う。
――か、家規には……、反してない。反してないわね。
自分で書いた家規の条文を諳んじて、胸の高鳴りをどうにか抑え込む。
そもそも、わたしとカトランは夫婦だ。
妻ではなくても、れっきとした夫婦だ。到着した初日には城の礼拝堂で結婚の宣誓もしている。
汗くらい拭っても、やましいことも、ふしだらなこともない。……はず。
鼻腔をくすぐる甘い香りが、カトランから匂い立つものだとしても、なんの問題もない。……はず。
「お、終わりましたわ。こ、これでよろしいですか?」
「あ、ああ……」
わたしの声が少し強張っただろうか。
カトランに怪訝な表情を浮かべさせてしまった。喉仏が大きく上下に動いた。
だけど、パトリスはニコニコだ。
――なら、いい。いまはそれで、いい。
自分に言い聞かせながら、ふと亜麻布で額を拭って、そこにカトランの湿り気を感じて、内心で大いに狼狽える。
ザザがキョトンとしていた。
「あれ? ……どういう心境の変化?」
「……後で話すわ」
思わず亜麻布で口元を覆ったのは、カトランの汗の香りを嗅ぎたかったからではない。断じて、ない。
たまたま、そこにあったというだけのことだ。ほんとうに。
それから、男性陣による駆けっこ。
女性陣から黄色い声が飛んで、兵士たちも力いっぱいに走る。
見守るわたしの手を、パトリスが握った。
そして、カトランの手も引っ張って、わたしたちに手をつながせようとする。
「ダメ……、ですか?」
と、わたしがカトランを見詰める。
いや、客観的に見れば睨んでいただろう。
いま事情をあれこれ説明するのも、この場の雰囲気に水を差してしまいそうだ。
「……かまわんが」
目を逸らしたカトランの大きな手に、包み込まれる。
――夫婦。夫婦。すでに夫婦。
心の中で呪文を唱え続けるのだけど、徐々に頬が火照って、握られた手の手汗が気になってくるのは、やむを得ない。
少し離れて立つザザは短く口笛を吹き、マノンは黒縁眼鏡を押さえて天を仰いでいるのが視界の隅に入ったけれど、いまは気にする余裕がない。
ほかのみんなは、駆けっこに夢中で、わたしたちのことなんか気にしていない、……はず。
お試し初回は、まだ2日もある。
パトリス監督だけが、ひとり満足げに何度も頷いていた。




