36.公女、両拳を握った。
咄嗟に力いっぱい振り下ろしたまな板は、分厚い壁のような男性の腕に、音もなくピタリと阻まれた。
と同時に、別の誰かが足下にしがみついてくる。
押し倒されないように、グッと身構えたのだけど、そんな衝撃はこなかった。
「もう、アデール!? どこに行ってたの? 心配したよ!?」
「えっ……?」
「……アデール。賊を追い払うのに、まな板が武器では無理がある」
「えっ? えっ……?」
両手でまな板を握り締め、足下には小さな誰かが抱き付いたまま、わたしが目を白黒させると、ザザがランタンで厨房の中を照らしてくれた。
まな板を押さえて苦笑いのカトランと、頬を膨らませるパトリス。
「あっ……、えっ?」
「……パトリスがアデールのことをひどく気にして、ギオの手を焼かせていたものでな。俺が馬を走らせた」
カトランが優しい手付きで、わたしの手からまな板をそっと受け取る。
パトリスが控えめに胸を張った。
「……初めて、養父上の馬に乗せてもらいました」
まだ動転した気持ちが収まらず、状況がいまいちつかめていないのだけど、腰をかがめて、はにかむパトリスに視線を合わせた。
「そう。よかったわね」
「……うん」
わたしが微笑むと、パトリスは照れ臭そうに顔を背けて、カトランを見詰める。
――もうちょっとで、このパトリスの頭にまな板を……。
と、ヒヤリとしながら、パトリスの形のいい頭を軽く撫でた。
立ち上がりざま、不意に膝の力が抜けてよろめいたわたしの腰を、カトランの力強い腕がふわりと抱き止めてくれる。
「……大丈夫か?」
「す、すみません。少しホッとしてしまったようです……」
「驚かせて、すまない」
「いえ……」
ザザが桶を置いた。
「……先に飛び出したパトリス坊ちゃんよりも早く、アデールのまな板を押さえる。さすがは辺境伯様ですわねぇ」
「わけもないことだ」
「で……、要するに、父子でアデールのことが気になって、夜道を城から単騎、駆けてきたってわけですわね?」
「む……」
「言い訳にできる用事もなしで」
わたしの腰に腕を回したままで言葉に詰まるカトランに、ザザがニヤニヤと笑う。
ふり返れば、マノンがわたしたちをジッと見詰めていた。まるで先ほど中庭で眺めた、リーズとルコントに向けていたような熱い視線で。
なんだか胸の下あたりがムズムズするような、居心地の悪さ。カトランも顔を背けてしまった。
「芋の皮でも剥いていきます?」
ザザが気持ちよさそうに笑った。
Ψ
ランタンをふたつにして、芋の浸かる桶をみんなで囲んだ。
ザザが声を震わせる。
「……芋の皮剥く、辺境伯夫妻」
「素敵です」
マノンが何度も頷く。
ただ、包丁を扱うカトランの手先にはわずかの乱れもない。
なんなら、わたしたちよりも早い。
「……野営では俺も料理をしていた。芋の皮など、何個剥いたか分からない」
パトリスはお芋を渡す係だ。
カトランやわたしたちが剥き終わると、次の芋を手渡してくれる。
「……養父上には、アデールが渡してあげて」
「ふふっ、そうなの?」
「そう……」
包丁を置いて、押し付けられたお芋をカトランに渡すと、パトリスは満足そうに次はマノンにお芋を渡していた。
作業の終わりが見えて、わたしはザザと食器を洗おうとしたのだけど、パトリスが許してくれない。
「……アデールは、こっち。養父上の横に座ってて」
控えめに口を尖らせたパトリスに、ザザが目をほそめた。
「はははっ、いいよ。食器洗いは私がやっとくから」
「あっ、私も手伝います」
「すみませんね、王女殿下の侍女様に食器を洗わせるだなんて」
「ザザ様だって、辺境伯夫人の侍女様ですよ?」
「あっ、そうか。う~ん……、ピンとこないなぁ……」
「……自覚が足りませんね」
「これは、一本取られたかな?」
気持ち良さそうに笑ったザザがマノンと食器を洗ってくれて、わたしはカトランと一緒にお芋の皮を剥く。
パトリスの透んだグリーンの瞳に見守られながら。
「アデールも……、乗せてもらったらいいと思うよ」
「ん?」
「……養父上の馬。とっても速くて……、すごかった」
「ふふっ、そう。よかったわね」
「だから、アデールも……。ち、養父上。乗せてあげてください……、ダ、ダメでしょうか……?」
カトランと目を見合わせる。
――なにか……、妙ね?
これまでになく、パトリスが、わたしとカトランを『引っ付けよう』としている。
ふたりで軽く首をひねり合う。
洗い場のザザが顔をこちらに向けた。
「いいじゃない、夫婦で遠駆け。これから季節もどんどん良くなるし」
「ね、ザザもそう思うよね?」
「ええ。パトリス坊ちゃんの言う通りだと思いますよ」
ザザは悪戯っぽい笑みを、わたしとカトランに向けた。
――パトリスの言う通りにしてやれば?
と、片目をつむる。
「……カ、カトランの負担でなければ」
カトランの馬の後ろに乗せてもらって、春の野山を駆ける。カトランの広い背中の頼もしい腰にしがみついて、花々を眺めて、風を楽しんで……。
ふと想像して、上目遣いにカトランの様子をうかがった。
「そうだな。温かくなったし、いつも馬車ではアデールもつまらないだろう」
つまらなくはないのだけど、カトランの何気ない返事がとても嬉しい。
パトリスはどこかホッとしたように、ペタンと腰を降ろして、お芋を渡してくれる。
――ふふっ。カトランの馬に乗せてもらったのが、よほど嬉しかったのかしら? だから、わたしにもってことなのかもしれないわね……。
わたしのために、勇気をふり絞ってカトランにお願いしてくれたのだろう。
元々はわたしひとりでやるつもりだった作業を、みんなが手伝ってくれたので、予定よりも遥かに早く終わった。
次の温泉のお掃除もみんなが手伝ってくれる。
カトランもデッキブラシを握ってくれて、パトリスはマノンと一緒に、桶で水を運んでくれる。
明日もみんなに気持ちよく入浴してもらいたいので、丁寧に洗っていく。
カトランが額の汗を拭った。
わたしの考えた〈お試し初回〉のために、黙々と力を貸してくれる。
カトランの地位と身分なら、別に掃除夫を呼んだり兵に命じたりもできる。むしろ、その方が自然だ。
だけど、みんなに心から寛いでもらえるようにという、わたしの思いを尊重して、自らデッキブラシを握ってくれる。
マノンではないけど……、
――感激です!!
と、声をあげてターンしたい気持ちでいっぱいだ。
不意に、王都で浴びせられた、兄ナタンからカトランへの罵声が頭をよぎる。
『戦ばかりで社交に顔すら見せない、貴族とは思えない野蛮さ! 不粋で野暮!』
兄がこの光景を見たらどう思うだろう。
間違いなく、あの耳障りな嘲笑を響かせる。わたしを指さし、嗜虐の喜悦を隠すことなく大いに嘆いてみせるに違いない。
これだから〈使用人の娘〉は……、と。
首を左右に振り、頭から兄を追い出したとき、ふとカトランの顔がわたしの耳元に寄った。近い。
パトリスとマノンは水を汲みに、ザザはゴミを捨てに行ってくれた。
ランタンが湯気を照らす静かな夜の温泉に、カトランとふたりきりで、息のかかる距離。
「……言い訳ではないのだが」
「あ、え? ……はい。なんでしょう」
胸が高鳴る。
なかなか視線が定まらず、カトランの右目の下にある傷跡を凝視した。
「……アデールが楽しみにしていた『お試し初回』の最中だ……」
「はい……」
「帰りを待とうかとも思ったのだが……」
耳元で響く、カトランの潜めた声に、なにかわたしを気遣うような暗い響き感じた。
――きっと、よくない知らせだ……。
呼吸を整えた。
パトリスがわたしを心配してくれたことの方が、むしろカトランの『言い訳』だったのだろう。
顔を軽く傾け、カトランの真っ赤な瞳を見詰めた。
「はい。なんでしょうか」
「……兄君から書簡が届いた」
「兄から……」
「俺の辺境伯叙爵を祝うため、ガルニエ領にて『闘技会』を開きたいとのことだ」
さっき兄を思い出したのは虫の知らせだったのか。
王国各家の令息たちを伴い、ガルニエ辺境伯領を訪問したいのだという。
そして、新たに騎士爵に叙爵された者たちとの間で『闘技会』を開き、ガルニエ家の武勇を顕彰する機会にしたいのだという。
兄に武勇の印象は一切ない。
よからぬことを企んでいるのは確実だ。
「……姉君、ファネット殿の非礼を改めて詫びる機会にもしたいと、書き添えてあった」
「そうですか」
「断れば、隙をつくる」
「ええ……」
兄のことだ。断れば「辺境伯は逃げた」と吹聴し、王都でカトランを笑いものにすることだろう。
それに、「武勇を顕彰したい」などと、兄らしからぬ下手に出た申し出をこちらが無下にすれば、母女大公がその非礼を咎めて、無理な要求を突き付けてくる算段なのかもしれない。
「……お受けするしかありませんわね」
「よいか?」
「はい。兄をコテンパンにやっつけてやってください」
わたしが敢えて明るい声で両拳を握ると、カトランはニヤリと笑った。
「分かった。そう返事しよう」
「あ、え? あの……」
「はははっ。アデールが『喧嘩を買った』とは書かない」
「え、ええ……。あの、わたしが返事を代筆しましょうか?」
「ん? ……そうだな。そう願おう。……堅苦しい文面は苦手だ」
カトランの視線が、スッと後ろを向いた。
つられて、わたしもそちらを見ると、こちらにツカツカと歩み寄る人影があった。
「もう……、こんなことだと……」
淡いパステルカラーのドレスの袖をまくりながら、こちらに近付く。
カトランとパッと離れた。
「手伝います」
「リ、リーズ? あのね。リーズたちにゆっくりしてもらおうと……」
「……ありがとうございます」
と言いながら、養蜂農家のリーズは一緒にお掃除を始めてしまう。続いてルコントも入ってきて、デッキブラシを握る。
それから、〈お試し初回〉に参加してくれてるみんながゾロゾロと入ってくる。
――リ、リーズに見られちゃったかしら? カトランとヒソヒソ話してたところ……。
やましいことはないのだけど、なんだか頬が火照ってしまう。
あれよあれよという間に、みんなでのお掃除が始まってしまった。
「いいんじゃない? ……『親睦』を深めるのに、共同作業にしても」
いつの間にか隣に立っていたザザが、楽しげにあごを撫でた。




