豈夙夜せざらんや、行に露多きを謂う。昼も夜も会いたいのは本当でした、さようなら①
日は中天を過ぎ、政堂の議は終えた。欒氏の嗣子と荀氏の嗣子は参内していないため、親たちも子を待つことなく帰路につく。士爕は息子がいまだ晋公の元に侍っていると聞いて、怒りを静かにこらえながら帰っていった。君公が解放しないことには息子も帰れぬ。日を跨ぐようであれば家長の権限として連れ戻すであろう。この当時、君主の命より父の権限が強いのだ。
卿の末席、郤至も帰ろうとしていた。彼はこまごました政務に向いておらず退屈な朝政がようやく終わったと開放感にあふれている。この、義に篤く情の深い好漢は、ものごとを単純に見ており、もっと言えば直感で動く。そういったことで、理知を尊ぶ正卿欒書からは疎まれているが、郤至は全く気にしていない。
そういった、直感だけで動く郤至である。帰ろうとせず座したままの韓厥が気になり、近づいた。
「韓主。君公は急な不予でお出にならぬ。汝も今日はお役御免であろう。さっさと帰らぬと小者が困る」
政堂を掃除するもの、書簡をかたづけるものなど、宮中には様々な奴隷がいる。彼らは卿がいなくなるまで、控えて待っている。韓厥が動かねば、彼らは責務を果たせない。本来、韓厥は他者の職分を侵すようなことはしない。
「僕大夫としての私は職務を終えております。しかし、家長として残らねばならぬ。我が嗣子が軽々しい言づけひとつで己の責務を放りだした。私は公族大夫の父として、この政堂で待たねばならぬ。……他の職分を侵すことになれど、これは譲れぬ」
薄い表情のまま、韓厥が返した。晋公州蒲は韓無忌を韓厥のコピーペーストなどと評したが、これは全く当てはまらぬ。韓厥に比べれば韓無忌など豊かな表情というべきである。晋公を侍従長として支えている韓厥は、かつて司馬に任じられていた。現代で言わば軍政と軍務の双方を司る準大臣といったところであろうか。彼は若い頃から謹厳実直さ、沈着冷静さ、そして何より理知と胆力のある人としられ、そこに情の一切をいれないことでも有名である。情が無いわけではなく、公私をわける処世術に優れているのだ。
その彼にとって、息子の雑で軽々しい行動は噴飯ものといえた。が、郤至には韓厥から怒りを感じなかった。
「韓伯が責務を投げ出すほどのことだ。汝に顔を合わせて伏して願い失礼致しますとできぬほどのことであったのであろう。なんだ。物思うことあり遅れます、とでも言っているのか」
「他家のことです、と申し上げたいところであるが、あなたはこういったところをこじ開けようとなされる。同じ卿として改めてほしいところです。が、そこまで仰るなら、伺おう。何かご存じか」
郤至の言葉に、韓厥が真っ直ぐに顔を向いて問うた。どうも、韓無忌の言づけ内容と郤至の言葉は一致してしまったらしい。
「親が知るは無粋、と言いたいが、ここは申し上げよう。韓伯は昨日の朝、恋をしてしまったらしい。本人が言うに『菊の香りのする女官』だそうだ」
韓厥が少し考えるそぶりをしたあと、薄い表情のまま、そうですか、と頷いた。眉をしかめるか、それともあっけにとられるか。韓厥の鉄面皮が崩れると楽しみにしていた郤至は、少しがっかりした。が、本番はこれからである。
「ところが、わたしにはそのようなものは見えなかった。韓伯は虚空に向かい礼を言い、はにかんでおられた。あれは一目惚れでもしたのであろう」
見えぬと言った矢先に一目惚れと言い放つ。郤至の言葉は支離滅裂であったが、韓厥が驚いた様子はなかった。まあこの壮年に驚くという作用があるのか疑問ではあるが。
「どちらにせよ、無忌は己の責を忘れ、おおやけの場で私人としてふるまっている。それは許されるものではない。私はあの者を叱らねばならぬ」
深い水底のような声で言うと、韓厥が軽く目をつむった。
「えぇ。失恋確定の息子にそれは酷くないか? この宮城で見えぬ女官に恋をした。わかりやすく失恋確定だぞ? そっとしておいてやれ」
大仰なしぐさで嘆くふりをすると、郤至は韓厥の顔を覗きこんだ。韓厥の表情は全く動かなかったが、口は動いた。
「その思い出は彼の者のもの。私はあのものの無責任を叱るが、失恋の悲しみは奪わない。恋は成就しても失っても、他者が立ち入るべきものではない。人生の糧というもの」
郤至は、こいつ恋とかしたことあるんだ、と目を見開き、驚きすぎて笑った。
②③に続きます




