何ぞ彼の穠たる唐棣の華。嫁ぐ姿は、あの美しく盛んに咲き誇る艶やかな花のよう③
韓無忌から守るように、菊の女官が地精を押しとどめようとふり返って手を広げた。
「私たち、この方は大夫さま、我らが奉仕せねばならぬ貴き方です、何をしようというの! 私たちは職分に戻らないといけません、この宮の中にいるものは、全て役に立たなければならないのです!」
「私たちである私。あなたは何をしているの、あなたの職分はお役に立つことでしょう。そこに、役に立たぬものがある。弱きものは貴き方々が処分されていたのではないのですか。私ではない、あなた。菊の係を譲らぬあなた――」
内宮から伸びる手を払い、鍵を開けようとする手を叩きながら、菊の女官は叫んだ。
「私が菊の係であると、大夫さまは仰った! 私は私になりました、あの方を守るのがお役目でございます。だって、あの方の、菊の係のものですもの。あなたたちは、その宮の中にいて、役目を終えなさい、私は私たちではない、私は私だったのです!」
菊の女――菊女の声は、内宮まで響き渡った。韓無忌の眼前で、内宮の風景がはっきりしてくる。菊の花にも似た女たちのかたまりが、群がり韓無忌を見て手を伸ばしていた。それを、菊女が必死に払いのけようとしている。彼女は、君公の女官ではなく、韓無忌への忠を選んだらしかった。
菊の係のものか。
韓無忌の言葉に、この女はそのようなものだ、と言った。つまり、そういうことだったのだ。全てがわかったわけではないが、韓無忌は己が愚かであったことはわかった。
そのような韓無忌の自嘲など、士匄は知ったことない。
「韓伯! やはり手伝ってくれ。あなたは弱兵、そして今や囮。敵は囮にくいついた、わたしに合わせろ。合わせるだけでいい」
士匄は趙武をわきに放って言った。地精は今、韓無忌だけを見ている。地精の中に反旗を翻したものがいるようだが、潰されるのは時間の問題であろう。が、時間稼ぎはしてくれている。今、地精たちは一つの川となっている。一本の線の先にたまたま韓無忌がいる。士匄はすばやく、対になる場を見つけ走った。士匄が起点であれば、韓無忌が終点である。
士匄は立ったまま向き直り、口を開いた。高い天に届くほどの大きさで、しかし愛しいものを呼ぶ甘さで声を張り上げる。
「谷神は死せず。これを玄牝と謂う」
合わせろと言われた韓無忌は戸惑うことなく即座、口を開いた。
「玄牝の門、これを天地の根と謂う」
谷に宿る神は枯れることなくその水を生み出していく。それは、女そのものである。
女が命を生み出すところこそ、天地陰陽、万物の源。
祭政一体の祖霊の祀りが理とするならば、玄牝への陶酔は生々しい情である。後に老子によって宗教から思想へと純化されるこれは、世界の深淵であると同時に、幻影でもある。男はもちろん、女自身でさえ全容を見ることのできない、生命を生み出し潤うその門は、人と異界を繋げている。
士匄はちらりと空を見た。そこには、秋らしい雲が流れ、日の光がふりそそいでいる。その光には確かな陽があり、この場が完全に閉じられているわけではないことがわかる。
己の位置が計算通りであると、式に適うと確信し、士匄は言葉を続けた。
「萃は、王の有廟に仮る。大人を見るに利あり。亨る。貞しきに利あり」
地に水が集まり沢になる。それを萃という。萃は宗廟に至る。正しき祭祀、正しき賢人、正しき道へ至れ。士匄の言葉に、趙武が不安を隠さず韓無忌を見た。常は士匄一人で行っている言上に他者が混じる。それは文言が濁るに等しい。
「――大牲を用うるに吉。往くところあるに利あり」
迷わず言葉を続けると、韓無忌は冠を止める簪を引き抜いた。頭から冠が滑り落ち、真っ直ぐで艶のある黒髪が解かれ肩を背を滑っていく。まるで夜のとばりでも降りたようであった。韓無忌はそのようなこと気にせず、持っていたかんざしで己の腕を刺した。流れる血を掲げるように、軽く腕をあげ突き出す。深くつきさしたそこから、ぽたりと一滴、地に落ちた。
「韓伯、何を!」
当時、人前で冠を外すということは、裸体をさらすよりも恥である。韓無忌は自ら文明人であることを否定した。いや、人ではない、というレベルである。趙武がうろたえても仕方が無い。それを士匄が止めるように手で制した。目端に移った士匄のしぐさに、趙武は黙る。士匄の確信めいた目つきに、意味があるのだと察した。
さて、士匄と言えば、内心韓無忌に舌を巻いていた。
――まさか、己を贄とするとは、一人で歩けぬくせに度胸がある。
謹厳実直で、真面目な先達。そして、一人で歩くことも生きていくこともできぬ哀れな嗣子。士匄は韓無忌をそのように見ていたが、土壇場の胆力がここまでか、とも思い、獰猛な笑みを浮かべた。
士匄は同一個体に近い地精が溢れているさまを萃とし、意志なく指向性のないそれらに道を作ろうとしている。韓無忌は廟の祀りには牛が良し、しかしこの場にいない。であれば、己が牛になると、即座に人を捨てた。それが最適解であろうとも、人は己を獣と言い切れない。口でそう嘯いても、どこか人であろうとする。しかし、目の前の韓無忌は冠を外して形で宣言し、その声音で訴えてくる。犠牲の牛になろう、と。
「大牲あり、すなわち韓氏の産。大人あり、すなわち士氏の嗣子」
己を賢人と言い切る士匄は常なら厚顔といえるわけであるが、この場をとりしきるのは彼である。『大人』となり祭祀を取りしきる。士匄はすっと息を吸って吐いた。
「孚ありて終わらず。乃ち乱れ乃ち萃まる。汝ら地より湧く沢の恵みを受けしもの、ただその場で積み上がり留まる、その性みな同一、すなわち萃如、嗟如たり。利するところなし」
韓無忌へと向かっていた女たちがぴたりと止まった。意志なきそれらは、しかし不安そうであった。役に立たねばならぬという本能だけで動いているそれらは、おまえ達は誰にも相手にされず嘆くだけ、存在に価値がないとされたのである。女の感傷と虚勢で生み出されたものどもは、戸惑った。
菊女だけは、韓無忌を守るように片手を広げてそのさまを見つめた。彼女は、萃からはじき出されていた。
天子から奴隷にいたるまで、同一個体というものは人の世界に存在しない。あれら地精は咒に従うために人の世界を侵蝕し、結果、己らに住みよい土壌にしようとしている。それは意志ではなく本能であり、ふわふわと方向は定まっていない。
士匄は道を示し、方向を定め、沢から溢れただようだけの萃を流すために――門を作ろうとしていた。人のことわりを歪めるように充満する菊の香りが肺まで入り込み、息苦しい。巫覡が、君公が、天子が贄を捧げて天への門を伺うように、士匄も異界の門を思う。
天ではなく、地。それは完全な陰でもあり、陽、つまり男の士匄とは相性が悪い。
「……我ら、陽のもの、陽は陰に包まれ安んじる。萃は沢よりいずる、すなわち兌。勃々たる陽を押さえるもの」
そこまで言うと、士匄は黙って韓無忌を睨み付けた。韓無忌はもちろん、士匄の表情など見えぬ。しかし、声音で促されたと気づき、続けて口を開く。
「今や我ら陽は陰中にあり」
それだけを、彼はなんとか言った。この言上の主は士匄である。これ以上の言葉を積み上げることはできない。下手に足せば、士匄のやりくりに時間がかかる。教養深い韓無忌でさえ、士匄が異界の入り口を呼ぼうとしているなど気づいていない。法制としての律があるであろう、と思っていた。
地精たちが再び韓無忌へと向いた。乱雑に排除だけを考えていた先ほどとは違い、秩序があった。
「陽全て陰とならば、ことわり全て道に順おう。萃よりのご教導に説び、貴き牲を捧げ、道に誘おう」
士匄が甘やかな声で言葉を紡ぐ。伸びやかで、遠くまで響き、風に乗って場を支配する。韓無忌が黙って己の腕に刺していたかんざしを跳ね上げるように動かしながら抜いた。広がった傷口から、さらなる血が流れ落ちていく。これは、牛の血である。本式であれば耳を切り落とし玉の皿で受け、口に含まねばならぬ血であったが、即興なのだから仕方がない。どうせ贄は地に捧げられる。
天からそそがれる陽気さえ覆い隠すような陰気の充満が菊の香りとあいまって、窒息しそうであった。趙武でさえ、体がだるい。士匄に至っては、酸欠で頭がガンガンと殴られ続けているような痛みに襲われていた。
玉もなく、祀りの備えもなく、言上のみで神仙の世界を伺おうなど、士匄の才をもってしても無謀である。ゆえに、体が悲鳴をあげている。滑稽なことにそれを支えているのが、君命であった。あの、サボリの口実である言い訳と君命が士匄を支えていた。腐っても天命は背負っているらしい。――そもそも、州蒲が丸投げしたから、こんなめにあっているのだが、集中している士匄は八つ当たりする暇もない。
「地は及ち坤、陽と対なす陰。溢れた萃は還り安らぐ、其れ升である」
君公のいる宮は陰陽共にめぐる循環の中にある。そこに、むりやり陰のみの道を作りながら、士匄は小さく息を吐き、静かに息を吸った。わずかな空気が、体の奥へと落ちていく。
「升は元いに亨る。用て大人を見る。恤うるなかれ」
賢人の指し示す先で、おまえ達の願いはかなう、憂いはない。
「虚邑に升れ」
誰もおらぬ邑を、ただ進め。
「萃とは聚なり。聚りて上るものはこれを升ると謂う。故にこれを受くるに升をもってす」
柔らかい吐息とともに士匄は言葉を終えた。現実の世界では、士匄と韓無忌が垣根を挟み向かい合って立っているだけである。しかし、こちら側では、違った。
「……穴?」
趙武が茫然と立ち尽くしながら呟いた。韓無忌の眼前に、むりやり空間をひらいたような穴ができていた。左右にこじ開けたようなその穴は、時折蠢動しており、生き物のようでもあった。そこから、水が静かにあふれ出る。谷底より湧きでる水そのものであった。
地精の女たちは、一斉にその門へと走っていく。意志無きそれらは、本能のままに走っていく。あの場こそが己の場所である、あの場でお役に立てるのだ。無数に湧いてでていた歪な女官たちは、門に吸いこまれるように消えていった。
「やだ」
ぽつりと、声がした。玉璧にヒビが入ったような、哀れな声であった。士匄はそんなものにかかずらってられない。終わるまで動けぬ。動けば、道が途絶える。その代わりのように趙武が声の主を見た。
晋女がよろりと立ち上がると、地精を追いかけるように歩きだした。その歩みはどんどん早くなっていく。
「いけません。あちらに行けば、もどってこれなくなります。人でなくなる、死ぬのと同じです。死んではいけない」
「いやよ、あの子たち、わたしのものなんでしょう、おいてかないで」
おそろしいと震えていたくせに、一人になるとわかれば、耐えられず追いかける。趙武は晋女の言葉が全く理解できなかったが、止めなければならぬとかけより、手を伸ばした。その腕を取ろうと、かよわい腕を掴もうとした。
悲しいかな、趙武は細く小さい。伸ばした手は袖をつかむのでせいいっぱいであった。それでも、趙武は諦めない。彼女は趙武に対し冷たくいっそ厳しかった。だからといって、死ぬのを見過ごすわけにはいかぬ。趙武がそうであるように、晋女も生きるべきだと思った。生きていれば、どこかで報われるものがあるはずなのだ。
趙武は引き寄せようと思いきり引っ張った。袖は破れ、晋女の腕はあらわになった。趙武は虚しく布一片を握るのみである。それは滑らかな絹ではない。趙武の着ているような、絹ではない、ごわごわした何かの布であった。視線のかなたに、仙境へと旅立つ女が見えた。
晋女ごと、地精が消えたことを見届けた士匄は
「恤うるなかれ。往けば咎なし」
と愛をささやくような優しい声で、門を閉じた。
次話、秋の章ラスト。3000文字をはるかにオーバーしましたがお許し戴きたく。




