豈夙夜せざらんや、行に露多きを謂う。昼も夜も会いたいのは本当でした、さようなら②
中天にさしかかっていた太陽はそろりと傾き始めていた。このころの貴族は朝に政務を行い、昼過ぎには帰っていく。大臣候補である士匄たちもそこは変わらない。
初めて参内したその日から、朝に学び、終われば父に報告して帰る。韓無忌は愚直なまでに守っていたそれを、この日破った。それどころか、人前で冠を外し、貴族としてでなく人としても恥ずべき姿となっている。彼は、手に持った笄だけを見つめて立ち尽くしていた。手に冠が無い。勢いで放ったらしい、と今さら気づいたのである。
「冠はこちらです。僭越でございますが、おぐしを整えてもよろしいでしょうか」
菊の女官が冠を持って韓無忌に話しかけた。ぼやけた視界に、切れ長の美しく涼やかな目が鮮やかであった。
韓無忌が菊女の手を取ろうとした時、
「いけません。その方は、人じゃあないです」
と厳しい声音が庭に響いた。内宮から駆けてきた趙武であった。士匄はその後ろをおっとりと追いかける。趙武は正しいかもしれぬが、この場合無粋だ、と士匄は鼻をならした。
「おい、韓伯。その女官はあなたの従者か」
勇むような趙武の肩に手を置いて、士匄は問うた。韓無忌が戸惑った顔を見せたが、菊女のほうがすかさず口を開いた。
「我が主の許しございませぬが、お答えいたします。私はこの大夫さまのはしためでございます」
「……だ、そうだが。わたしは韓伯に問うた。そこの女の僭越は許すが、あなたの答えはどうだ」
士匄の挑戦的な口調に、韓無忌が顔をまっすぐとあげて見返してくる。相変わらず遠い目つきであった。
「私の従者だ。……ああ、私に仕える者と言おう」
その言葉と共に、韓無忌がそっと菊女の手をとった。菊女が少し頬を染める。それは、地精の群衆たちには無かった恥じらいと感情であった。趙武がさらに止めようとしたのを、士匄は制す。
菊の咲き誇る庭は、清々しい香りが心地よい。むせ返るように充満していたそれは薄まり、常の奥ゆかしさがあった。風が花弁をなぞるように滑り、見分けのつかぬ菊の群れがさざめくように茎と花を揺らした。秋の穏やかで柔らかい陽光の中、韓無忌が菊女にそっと手を引かれながら、堂へと進んでいく。昨日、今日と菊茶をふるまわれた場所である。促されるまま座し、韓無忌は女に頭を預けた。菊女は本当に如才なく、櫛と髪を撫でつける生薬を取り出して、梳いていく。
髪を結い上げられながら、韓無忌は己を冷笑した。菊女は全てにおいて、ゆきとどきすぎであった。
堂の窓から見える光景にポカンとする趙武を、士匄は後ろから肩を回し、少し身をかがめて引き寄せる。趙武が怪訝な顔を隠さず向けた。
「なんですか、気持ち悪い。いえそうでなく、韓伯が危ないです、あの女官を引き離さないと」
「お前は本当に、無粋オボコ、こっち方面に鈍いな。ちょうどよい、昨日の学びの続きだ。韓伯自身が、女の扱いをご披露される、とくと見ろ」
は!? と叫ぶ趙武を強引に引きずり、士匄は入り口から中を堂々と覗いた。つられ、趙武も中を見る羽目になる。髪が整えられ冠をつけた韓無忌が座って女官を眺めていた。女官もその視線に合わせるように韓無忌を見つめていた。未成熟な趙武も、さすがに二人が色っぽい関係になりつつあるとわかった。
「古来、他者のこういったものは見てはならぬのがしきたりと伺っております、離してくださいっ」
顔を赤らめて小声で怒鳴る趙武を士匄はせせら笑った。
「その作法は間違いだ。古来、他者の恋、睦む姿を愛でるのが大夫のならいというもの。お前は特に勉強しろ。女のあしらいが酷すぎる」
士匄の声は軽薄な響きがあったが、趙武の顔は曇った。己が未熟だったから狄と楚の女たちは死を迎えたのではないか、という思いがあった。未熟にありがちな思い上がった発想であったが、少女を守りたい少年の本能でもあった。
ともあれ、士匄と趙武は悪趣味にも先達の逢瀬を覗いている。
韓無忌は声と気配でわかったが、無視をした。不躾で無神経、好奇心旺盛な後輩たちに見られようがどうでもよい。ただ、菊女を見る。ぼんやりとした視界の中で、嫋やかな体、切れ長の瞳、白い肌、が浮き上がるように映る。そのほとんどが、韓無忌の脳が作る幻の姿に違いない。
「菊茶をご所望でしょうか」
菊女の言葉に韓無忌は首を横に振った。心の奥底に、彼女と菊茶を飲み、指を絡め、そのうなじに唇を落としたいという熱さはあった。それを浅ましいと切り捨てるほど韓無忌は傲岸ではない。
認めねばならない。己は、この、昨日会ったばかりの女官が恋しい。
「あなたは菊を世話するものなどではなかった。菊に関わるもの、とは言ったが、世話役などではなかった」
韓無忌の自嘲を含んだ言葉に菊女がおどろき
「畏れ多いそのような」
と首を振る。それを制して韓無忌がさらに口を開いた。士匄は、クソ真面目なことだ、と肩をすくめながら様子を伺う。興奮と混乱と無駄な義憤で暴れそうな趙武を、とっくに羽交い締めにして口をふさいでいた。ふーふーとした息が気持ち悪いが、士匄は珍しく我慢した。
さて、続く韓無忌の言葉である。
「あなたはあの、消えた女たちと同じものであったと言っていた。あなたは、女官ではなかった。あなたは人ではなく……あなたは人の心など本来は無く、人の姿も本来は無い」
菊女が黙って拝礼した。そのとおりです、と言ったようなものであった。韓無忌は、薄く笑った。己を嘲笑う顔であった。
「五子之歌という話があります。王が諫言を聞かず――言わせなかった話です。私はあなたに『違う』と言わせなかった、あなたに虚偽の罪を犯させ、言葉を封じていた。そもそも、全て、私の妄想が作った虚像です。あなたは一途にもそれを受けてくれた。感謝を。そして、申し訳なかった」
「いいえ。あなたさまが私に道を示してくださったのです。私たちは……いえ、私は感謝しております」
菊女が韓無忌をいたわるように微笑んだ。その、柔和かつ清爽な所作は、韓無忌の心を強く掴む。恋しい気持ちが募る。
当然である、彼女は韓無忌の理想をそのまま映した存在なのだ。
役に立たねばならぬ地精として、韓無忌に声をかけた、までは本能の行動だった。韓無忌はそこに己に都合の良い女を、見た。地精は韓無忌の気持ちに答え、菊の香りにも似た清々しく奥ゆかしく、いたわりと優しさがあり、職分に忠実な女官となった。
この地精を基点に同類の女官が生まれたが、始まりの女だけを韓無忌は好きになった。そして今、この菊女だけがいる。
「……私はあなたが好ましいが、あなたの心はまやかしです。あなたをそのように惑わしたのは私の不徳です」
韓無忌の言葉は、いつもより訥々としていたが、堂内によく響いた。士匄にももちろん聞こえている。なんと辛気臭い口説き方だと呆れた。趙武は、韓無忌の言葉に痛みと苦しみを感じ、静かに顔を向けて、じっと見る。暴れるのをやめた後輩に気づき、士匄は両手を離した。
「私は大夫さま……あなたさまに菊のものと認められ、菊茶を奉り、先程はおぐしを整えて冠のお世話をいたしました。私はあなたさまの従者、あなたさまのもの。惑わしたなどというお言葉、悲しく情けのうございます。あなたのお情けを欲するだけのものなのです。私はあなたの花です、まやかしなどと仰らないでくださいませ」
菊女が、ついっと韓無忌の袖を取った。それは韓無忌の理想から外れていた。この女官は地精から脱皮し、人となろうとしている。一人の女として男の愛に応えたいと顔を向けていた。
韓無忌は菊女の手を取り引き寄せた。そして、顔を触る。韓無忌にとって、それは見ることに等しい。女の顔を丁寧になぞり、形を確かめていく。想像どおりの、柔らかな唇、細い鼻、長いまつげであった。
そのまま韓無忌が女を抱きしめるように押し倒した。趙武はさすがに生唾を飲んだ。いくらおぼこでも、これが睦事に繋がる所作だとわかる。
「いやあの范叔。これ、見ちゃいけないやつですよね!? あとは若い二人でどうぞ、てするやつですよね!? 韓伯のズッコンバッコンはさすがにいかがなものでしょうか!?」
「……お前、オボコのくせにホント言葉だけはエグいだな。さて、趙孟。お前の期待どおりになるかどうか見ものだな」
せせら笑う士匄に趙武がゆでタコのように顔を赤く染めながら、期待してません! と噛みつくように言う。士匄は一瞥もくれずに、韓無忌ヘ視線を滑らせた。愛しさが込められた所作に、色味がない。愛欲の熱情が感じられない堂の中は、少し寒さがあった。穏やかであるが冷たい風が、空に舞う。
③に続きます




