本気で、新潟を世界へ発信するために?
続いて、どこそこへ行った——なんて、生易しいものではない。この後のプロセスは、まさに茨の道だった。
地獄へ続く道なのか。終わりのない地獄なのか。それとも、進むべきではない道なのか。終わるのかも、終わらないのかも、そしてこの大会が本当に実現するのかも、その先は一気に見えなくなった。
コースができれば、もう簡単だ。そんなことは、二度と思わなくなった。
後に、人に言われた。
"松永さん、よくやりきりましたね。僕だったら、一人二人、いや、数人は殺してたかもしれませんよ"
まさに、そんな日々だった。
夏前から始めて、年末には全ての許可を得る。一月からは募集を開始し、三月頃に締め切り、六月の大会に備える——そんなスケジュールを立てていた。それが、甘かった。音を立てて崩れた。ただ知らなかっただけの、言ってみれば赤ちゃんが書いたような予定表だったことに、気がついた。
誰に断られたとか、どんな通知を受けたとか、そんなことはもうどうでもいい。とにかく、一箇所断られると、五十キロぶんのコースを変更しなければならない。その作業が、何度起きただろうか。一回断られるたびに、また新しく、レースを一つゼロから作り上げる。それと同じことだった。
でも、断る人にとっては、僕が死ぬような思いでその対応をしているなんて、考えてもいないだろう。感情はゼロで、冷徹に、断られる。
今思えば、それは向こうの仕事であって、紙に書いてある通り、決まり事に従って対応しただけなのだ。けれどもその時の僕にとっては、まさに"お前なんか死ね"と言われているような感覚で、その冷たい通達を、何度も何度も受けた。
本気で新潟の魅力を世界に発信する——その思いさえ、揺らいだ。いや、揺らいだというより、なんだかどうでもよくなった。何のためにここまでしているのか。正直、そこまでは考えなかったが、よく乗り越えられたと思う。
乗り越えられた理由を、もし一つだけ挙げるなら。
好きなことだったから。やりたかったから。ただ、それだけだ。




